明史卷二百五十一 列傳第一百三十九 劉鴻訓

出自と朝鮮への使い

  • 劉鴻訓は字を黙承といい、長山の人。父の一相は進士から南京吏科給事中を歴任し、故相の張居正の件を追論したので、執政に忌まれて隴右僉事に出され、陜西副使で終わった。
  • 萬厯四十一年(1613年)に鴻訓は及第し、庶吉士から編修を授けられた。神宗・光宗が相次いで崩じ、朝鮮へ詔を頒布しに赴いたが、入境したばかりのところで遼陽が陥ちた。朝鮮が二隻の洋式船を造ってくれたので海路を帰り、沿途で難民を収容したところ、船が重くなって壊れ、浅い砂州に飛び移って小舟に乗り移り、三日三晩漂流してようやく登州に達し、復命した。
  • 母の喪に遭い、服喪が明けて右中允に進み左諭徳に転じたが、父の喪で帰郷した。天啟六年冬に少詹事として起用されたが、魏忠賢に逆らって庶民に落とされた。
  • 荘烈帝が即位すると禮部尚書兼東閣大學士に拝され機務に参預させられた。行人を遣わして召したが、三度辞退しても許されず、崇禎元年二月(1628年)に朝廷に戻った。

閹党の残党との争い

  • このとき忠賢は敗れたものの、その党はなお盛んで、言路の新任者たちが群がって攻撃していたが、執政の面々はかつて忠賢と同僚だったため、あからさまに白黒をつけようとしなかった。鴻訓は着任するや毅然として主導し、楊維垣・李恒茂・楊所修・田景新・孫之獬・阮大鋮・徐紹吉・張訥・李蕃・賈繼春・霍維華らを斥けたので、人心は大いに快とした。
  • ところが御史の袁𢎞勛・史□・髙㨗はもともと維垣らの引きで登用された者で、力を合わせて鴻訓を追い落とせば党人は安泰だと考えた。𢎞勛はまず、所修・繼春・維垣が表裏の奸を挟み撃ちにしたのは功であって罪ではないのに、誅鋤がこの三臣から始まったと言い、さらに鴻訓が朝鮮への使いで貂皮と人参を満載して帰ったと詆った。錦衣僉事の張道濬もまた鴻訓を暴き立てて攻撃した。鴻訓は奏して弁じた。
  • 給事中の顔繼祖は、鴻訓は先朝に官を削られ、朝鮮の一行では船が破れて身一つで免れたのだ、鴻訓を入直させて安内攘外の策をともに練らせるべきである、𢎞勛が題目を借りて人を陥れ、道濬が職分を越えて政を乱すのは、重く懲らさねば止むまい、と述べた。帝はこれをよしとした。給事中の鄧英はそこで𢎞勛の不正蓄財をことごとく暴き、さらに𢎞勛が千金を維垣に贈って御史の職を得たと述べた。帝は怒って𢎞勛の職を落とし取り調べを待たせた。
  • ついで髙㨗が上疏し、鴻訓が奸を撃った維坦・所修・繼春・大鋮を斥けながら、孫之獬が涙を流して述べた忠言を容れず、誤って「三朝要典」の焚毀を主張して私党の便を図り、孫愼行を登用したと述べた。帝は妄言だと責めてその俸を停めた。史□もまた㨗を助けて攻撃した。言路の多くは二人を不当とし、二人はついに罷め去った。

帝の意に背く

  • 崇禎元年七月、四川の賊の平定によって太子太保を加えられ、文淵閣に進んだ。帝はしばしば廷臣を召見したが、鴻訓の応対はとりわけ明敏だった。民の困窮は官吏が職を尽くさぬことに由ると説き、帝に長く任せて成果を責めるよう請い、尚書の畢自嚴は賦税を治めるに巧み、王在晉は兵を治めるに巧みだから信頼を加えるよう請うた。帝は当初たいそう心を寄せた。
  • 山海關の兵が糧餉の欠乏で騒擾したとき、帝の意は戸部を責めるにあったが、鴻訓は帑金三十万を出して思いがけぬ恩を示すよう請うたため、これによって帝の意に背いた。

敕書改竄事件と流謫

  • 九月、敕書の改竄の一件が起きた。旧例では京営を督する者は巡捕軍を管轄しない。惠安伯の張慶臻が京営を総督したとき、敕書に捕営を兼轄するとの語があった。提督の鄭其心が職掌を侵すものとして論じた。中書が賄賂で改竄した経緯を糾明するよう命じられ、舎人の田佳璧が獄に下された。
  • 給事中の李覺斯は、草案は兵部が作成して輔臣に送り裁定させ、そのうえで中書に清書させ、書き終えてまた審査して進呈するのだから、兵部も輔臣もともに糺問すべきだと言った。十月、帝が便殿に御して閣臣に問うと、みな知らないと詫びた。帝は怒って廷臣に弾劾させた。尚書の自嚴らもまた知らないと詫びたので、帝はますます怒った。
  • 給事中の張鼎延、御史の王道直はともに、慶臻が賄賂を贈った形跡はあるが誰が主使者かはわからないと言った。御史の劉玉は、主使者は鴻訓だと言った。慶臻は「敕書の改竄は中書の仕事で、臣は本当に関知していない。しかも捕卒を管轄に加えて得られる利がどれほどだというので、重賄を行いましょうか」と言った。帝はこれを叱った。
  • 兵部の揭帖を検めると鴻訓が西司房へ指示した書き込みがあり、佳璧も鴻訓の指図を受けたと供述したので、事は解けなくなった。侍郎の張鳳翔がとりわけ強く詆った。閣臣の李標・錢龍錫は、鴻訓がそのようなことをするはずはない、さらに調べていただきたいと言ったが、帝は「事はすでに明白だ。何を今さら調べるのか」と言い、擬旨を促した。標らはためらって進めなかった。禮部尚書の何如寵は鴻訓のために力めて弁じた。帝の意はついに翻らず、そこで鴻訓・慶臻をともに革職して取り調べを待たせる旨を擬した。
  • まもなく御史の田時震が、鴻訓は田仰を四川巡撫に任じた際に二千金の賄賂を受けたと弾劾し、給事中の閻可陛は、副都御史の賈毓祥は鴻訓に賄賂を贈って擢用されたと弾劾した。鴻訓は度重なる弾劾に対し、続けて上章して力めて弁じ、「都中の狄という悪辣な者が慶臻を千金で騙し、そのため臣は無実の禍を受けた」と述べたが、帝は聴かず、廷臣に議罪させた。
  • 翌年正月、吏部尚書の王永光らは、鴻訓・慶臻の罪は言い逃れできないが、律に議貴(貴人を議して減刑する)の条があるので寛大な処置を請う、兵部尚書の王在晉と職方郎中の苗思順は贓証が確かでないので断定しがたい、と述べた。帝は許さなかった。鴻訓は代州への流謫を命じられ、在晉・思順はともに削籍、慶臻は世臣であるため三年の停禄、覺斯・鼎延・道直・玉・時震は直言によって秩一級を加えられた。
  • 鴻訓は政府にあって鋭意事にあたったが、帝が容れないことがあると、退がって「主上は結局のところ幼い君主だ」と言った。帝はこれを聞いて深く含み、死罪にしようとしたが、諸大臣が力めて救ったのでいくらか寛大になった。崇禎七年五月(1634年)、流謫先で卒した。福王のとき官を復された。