明史卷二百四十九 列傳第一百三十七 蔡復一

字は敬夫、同安の人(?–1625年)。萬厯二十三年の進士で、兵部郎中を十七年も代理のまま務めたのち湖廣・山西の布政使を歴任した。天啟二年に鄖陽を撫治し、王三善の敗死を受けて貴州巡撫、ついで貴州・雲南・湖廣の総督となり、尚方剣と便宜行事を許された。魯欽らを督して安邦彦の巣である織金まで長駆し、賊の巣数千里を焼いたが、朱燮元と督府が並立して節制が境外に及ばず、四川・雲南の兵の来援を得られないまま帰路に大敗を喫した。権限の不一致を自ら弾劾したのち、平越の軍中で没した。古を好み文をよくし、没したとき袋に残った財はなかったという。兵部尚書を贈られ、諡は清憲。

年表(6件)
  • 萬厯二十三年1595年進士に及第し刑部主事となり、兵部郎中を歴任する
  • 天啟二年1622年右副都御史として鄖陽を撫治し、大旱に自ら獄に繋がれて雨を得る
  • 天啟四年1624年王三善の敗死を受けて兵部右侍郎に進み、貴州巡撫・総督を兼ねる
  • 天啟五年1625年正月、織金から返す魯欽らの軍が渡河中に襲われ数千人を失う
  • 天啟五年1625年傅宗龍と謀って両江十五砦の叛苗を討ち、七百余級を斬る
  • 天啟五年1625年十月、平越の軍中で没し、兵部尚書を贈られ清憲と諡される

出自と鄖陽撫治

  • 蔡復一は字を敬夫といい、同安の人。萬厯二十三年(1595年)の進士。刑部主事に任じられ、兵部郎中を歴任した。在任のまま代理の職に就くこと十七年でようやく湖廣參政に遷り、湖北の分守となり、按察使、右布政使に進んだが、病により帰郷した。
  • 光宗が立つともとの官で起用され、山西左布政使に遷った。天啟二年(1622年)、右副都御史として鄖陽を撫治した。その年は大旱魃で、復一は布衣・素冠で自ら獄に繋がれ、そこで大雨が降った。

貴州総督としての戦い

  • 奢崇明・安邦彦が反き、貴州巡撫の王三善が敗死すると、復一を兵部右侍郎に進めてこれに代えた。戦火の後で斗米が一金もしたが、復一は労わり慰撫して人心はようやく落ち着いた。
  • まもなく楊述中に代わって貴州・雲南・湖廣の軍務を総督し、貴州巡撫を兼ね、尚方剣を賜って便宜行事を許された。
  • 復一は將吏を召し集めて紀律を厳しくし、總兵の魯欽らを遣わして凱里を救い、賊の衆五百余を斬った。賊が普定を囲むと、參將の尹伸、副使の楊世賞を遣わして救って退け、その巣を衝いて千二百級を斬った。兵を出して盤江の路を通じ、逆酋の沙國珍および賊に従った五百人を斬った。
  • 欽は總兵の黄越らとともに、あらためて汪家沖・蔣義寨で賊を破って二千二百を斬り、織金へ長駆した。織金は邦彦の巣である。道すがらいずれも重関・畳隘で、木石が山径を塞いでいたので、将士は巨斧で切り開き、あるいは藤をよじ穴をくぐって入った。賊は戦い敗れて深い竹藪へ逃げ、さらに千級を斬ったが、隅々まで探しても邦彦は見つからず、そこで軍を返した。
  • この役では賊の巣数千里を焼き、牛馬・甲仗を数知れず獲た。
  • 復一は隣境が協力して討たぬために賊が滅びないとして、勅を下して四川は遵義から出兵して水西に至り、雲南は霑益から出兵して烏撒に至り、掎角の勢いで賊を平らげるよう請うた。帝はことごとく許し、そこで廣西・雲南・四川の諸郡で貴州に隣接する所は復一の節制を受けるよう命じた。

指揮権の分裂と挫折

  • 天啟五年(1625年)正月、欽らが軍を返して河を渡ろうとしたとき、賊が背後から襲撃し、諸営はことごとく潰えて数千人が死んだ。
  • 当時、復一が総督である一方、朱燮元もまた尚書として四川・湖廣・陝西の諸軍を督していたため、復一の節制は境外に及ばず、欽らが深く入っても四川・雲南の兵はいずれも来なかった。復一は自ら弾劾し、あわせて事の権限が一本化していないために敗れたのだと論じた。巡按御史の傅宗龍もまたそのように述べた。
  • 廷議は燮元を河道の総督へ移し、復一に五路の軍を専ら督させることとした。御史の楊維垣がそのように述べたので、廷議は燮元を河道の総督へ移し、復一には取り調べを待たせることとし、王瑊を右僉都御史として貴州巡撫の代わりとした。
  • 復一は交代を待ちながら、なお兵事に力を尽くし、宗龍とともに謀って烏粟・螺蝦・長田および両江十五砦の叛いた苗を討ち破り、七百余級を斬った。

雲南方面の戦いと死

  • 賊党の安效良は真っ先に邦彦を助けて霑益を陥れた。雲南巡撫の沈儆炌が兵を遣わして討ったが定まらぬうちに侍郎に遷って去り、代わった閔洪學が招撫したがこれもまだ定まっていなかった。ここに至って效良は雲南の出師を見て恐れ、邦彦と約して曲靖・尋甸を犯した。復一が許成名を遣わして援けさせると、賊は風を望んで逃げた。
  • また劉超らを遣わして平越の苗の阿秩らを討ち、百七十砦を破り、二千三百余級を斬った。
  • 十月に至り、復一は平越の軍中で没した。訃が届き、帝はその忠勤を嘉して兵部尚書を贈り、清憲と諡し、子一人を官に取り立てた。
  • 復一は古を好み博学で、文をよくし、耿介で大節を負っていた。没したとき、袋には残った財がなかった。
  • 瑊は着任すると、邦彦を平らげるのは容易でないと見て去ろうとし、魏忠賢の賞与を頼りに李魯生に取り入って南京戸部右侍郎に遷った。崇禎の初めに弾劾されて帰り、流賊が應城を陥れたときに殺された。

附・沈儆炌

  • 沈儆炌は字を叔永といい、歸安の人。父の沈子木は南京右都御史であった。儆炌は萬厯十七年(1589年)の進士に及第し、河南左布政使を歴任し、入って光祿卿となった。
  • 萬厯四十七年(1619年)、右副都御史として雲南を巡撫した。神宗の末に毎年の貢の黄金を二千に増やす詔があり、儆炌は疏して争い、ちょうど光宗が立ってその請いのとおりとなった。
  • 雲龍州の土舍の段進志が永昌・大理を掠めたので、儆炌は討って捕らえた。
  • 安邦彦が反くと諸土目がこぞって起ち、安效良は霑益を陥れ、李賢は平夷を陥れ、祿千鍾は尋甸・嵩明を犯し、張世臣は武定を攻め、邦彦の妹の設科は曲靖を掠めて陸涼へ寇を転じた。
  • 儆炌は元參將で雲南の人である袁善を起用し、守備の金為貴、土官の沙源らを率いて嵩明へ馳せ救わせ、大いにこれを破った。賊が尋甸へ寇を転ずると、またも大敗して去った。そこで善をもとの官に復すことを請い、諸将とともに手分けして賊を討たせ、たびたび功があった。
  • ちょうど儆炌が南京兵部右侍郎に遷り、代わりの閔洪學が着任したので、兵事を委ねて去った。のち南京工部尚書を拝したが、魏忠賢の党の石三畏に弾劾されて職を落とされ、閑居した。崇禎の初めに官を復し、家で没した。子の允培は禮科都給事中。

附・袁善

  • 洪學は着任するとやはり袁善を任用した。賊が普安を陥れて安南を囲むと、善は攻め破って上六衛への道を通じた。王三善が没して六衛の道がまた塞がると、善は御史の傅宗龍を護って黔へ赴かせ、道はまた通じた。
  • やがて霑益で安效良を破り、また炎方・馬龍で賊を破った。
  • 天啟七年(1627年)、御史の朱泰禎が武定・嵩明・尋甸で賊を破った功を調べて上申し、大小三十三戦で四千六百余級を斬ったとして、捷を宣し廟に告げることを請い、許された。魏忠賢らはこぞって秩を進め子に廕を与えられ、善は都督同知を加えられ、錦衣指揮僉事の世廕を与えられた。崇禎の初めに官にあって没した。

附・周鴻圖

  • 周鴻圖は字を子固といい、即墨の人。歳貢生から身を起こして宿遷縣を知り、侯恂の推薦で貴陽同知に遷り、軍事を監記した。軍功を積んで知府に至った。
  • 匀哈の叛いた苗が邦彦と相寄って乱をなしたので、天啟六年(1626年)春、巡撫の王瑊および御史の傅宗龍は鴻圖に胡從儀および都司の張雲鵬の軍を監させ、道を分けて山を捜させ、向かうところ打ち破った。
  • 折しも魯欽が敗れたと聞いて賊はまた龍場へ向かって邦彦を助けたが、やがて邦彦がたびたび敗れると賊はもとの巣へ帰った。鴻圖・從儀らはこれを攻め、百余寨を破り焼き、千二百余級を斬った。
  • 鴻圖は副使に抜擢されて新鎮道を分巡し、從儀は副總兵に進んだ。当時、鴻圖は平越に駐して下六衛を管轄し、參議の段伯炌は安莊に駐して上六衛を管轄した。千余里のあいだ悪党が息をひそめたのは、二人の力である。鴻圖は陝西參政で終わった。

附・段伯炌

  • 段伯炌は雲南晉寧の人。郷挙から鎮寧知州となり、力を尽くして安邦彦を拒み、僉事に飛び越えて抜擢されて鎮寧を分巡した。邦彦が普定を寇したとき、從儀とともに撃ち破り、これによって參議に抜擢された。

附・胡從儀

  • 胡從儀は山西の人。天啟四年(1624年)、遊擊として普定を援けて功が多かった。やがて長田で賊を破り、參將として匀哈を討ち平らげ、後にまた諸将とともに老蟲添を平らげた。
  • 崇禎三年(1630年)、苗賊の汪狂・抱角を討ち平らげ、召されて保定總兵官となり、京の邸で没した。都督僉事を贈られた。黔の人はこれを愛し、「真將軍碑」を立てた。

史論

  • 贊にいう。奢・安の乱は蜀にひそかに起こって黔に蔓延し、軍を労すること十年近くに及んだ。燮元は兵威をもってこれを打ち勝ち、風俗に応じて処置を定め、屯を開き衛を設け、急いでその地を郡県にして王三善の轍を踏むことをしなかった。西南がこれによって永く安んじたのは、偉大な功績である。
  • そのほか、蔡復一が長駆して深く入ったのは、志は遂げられなかったものの、その功はやはり抹消できない。李橒らが危うい城を力を尽くして守り抜き、ほぼ一年に及んだのは、辺境の任務のなかでもとりわけ難しいことであった。