明史卷二百五十 列傳第一百三十八 孫承宗

高陽の人、字は稚繩(1563–1638年)。若くして辺郡を歩き、材官や老兵に険要を問うて辺境の事情に通じた。萬厯三十二年の進士第二人。熹宗の日講官として信任を得、廣寧失陥ののち兵部尚書兼東閣大学士として遼東の経営に当たり、王在晉の八里舖築城論を退けて関外の寧遠を守る策を定めた。自ら山海關の督師となり、四年の間に大城九・堡四十五を修復し十一万を訓練して四百里の地を拓いたが、魏忠賢と対立し、桞河の敗を機に退いた。崇禎二年の入寇では再起して京城の守禦を総督し、祖大壽の潰走を収拾したうえ永平など四城を回復した。大凌河の敗で罷免され郷里に退き、高陽が陥ちたとき一門とともに殉じた。福王のとき太師を贈られ、文忠と諡された。

年表(16件)
  • 萬厯三十二年1604年進士に及第して第二人となり、編修を授けられる
  • 1620年熹宗の即位に伴い左庶子として日講官を務め、帝の厚遇を受ける
  • 天啟元年1621年少詹事に進み、瀋陽・遼陽の陥落を受けて兵部侍郎に推されるが帝が許さない
  • 天啟二年1622年禮部右侍郎に擢せられ、詹事府を協理する
  • 1622年廣寧の失陥を受けて兵部尚書兼東閣大学士に拝され、閣臣のまま兵部の事務を掌る
  • 天啟五年四月1625年去留を廷議に下されるが留任を勧められ、簡将・汰兵・清餉の奏報を命じられる
  • 1625年九月の桞河の敗で馬世龍もろとも弾劾され、十月に辞任を許されて帰郷する
  • 1627年荘烈帝が即位すると王在晉らに極論されて出仕を阻まれる
  • 崇禎二年十月1629年大清の兵の入寇により召され、京城内外の守禦を総督したのち通州に入って固守する
  • 1629年十二月四日に祖大壽が東へ潰走し、書を送って慰諭し生路を開く策を奏する
  • 崇禎三年正月1630年山海關で祖大壽の統べる歩騎三万に誓師の礼を行い、群疑を解く
  • 1630年五月、灤州を克ち遷安・永平・遵化と四城を回復し、太傅を加えられたが辞退する
  • 崇禎四年正月1631年松山・錦州を東巡し三協十二路を西巡して、辺政八事を条陳する
  • 1631年七月に築いた大凌河城が囲まれ、十月に祖大壽が降って城は毀たれる
  • 1631年十一月に辞任を許され、のち喪師辱国を追論されて官と世襲の廕を奪われる
  • 崇禎十一年1638年十一月九日に高陽を攻められ、翌日落城して捕らえられ縊れて死ぬ。年七十六

篇首の立伝者一覧

  • 孫承宗(子の鉁ら)

出自と経歴のはじめ

  • 孫承宗は字を稚繩といい、高陽の人。容貌は奇偉で、鬚髯は㦸を張ったようであり、人と語ると声が牆壁に響いた。
  • はじめは県学の生徒。のち辺郡で経書を教え、飛狐・拒馬のあたりを往来してまっすぐ白登に至り、また紇干・清波の旧道を通って南下した。材官(武官)や老兵につき従って険要・阨塞を問いただすのを好み、そのため辺境の事情に通暁するようになった。
  • 萬厯三十二年(1604年)、進士に及第して第二人(榜眼)となり、編修を授けられ、のち中允に進んだ。

挺擊の獄と黨人の忌避

  • 挺擊の獄が起こると、大学士の呉道南が承宗に意見を求めた。承宗は「事は東宮に関わるのだから問わぬわけにはいかない、事は貴妃に連なるのだから深くは問えない、龎保・劉成より下の者は問わぬわけにはいかないが、龎保・劉成より上は深く問うてはならない」と答えた。道南はその言のとおり揭帖を作って上呈し、事件は決着した。
  • 應天の郷試を主宰したとき、出題の策問に記した文言が黨人の忌諱に触れ、大計(官吏考課)にかこつけて地方へ出されそうになったが、学士の劉一燝が庇ったため免れた。
  • 諭徳・洗馬を歴任した。

熹宗の日講官から兵部侍郎へ

  • 熹宗が即位すると(1620年)、左庶子として日講官を務めた。帝は承宗の講義を聞くたびに「心が開ける」と言い、目をかけることがとりわけ厚かった。
  • 天啟元年(1621年)、少詹事に進んだ。当時、瀋陽・遼陽が相次いで陥ち、朝廷全体が騒然としていた。御史の方震孺が兵部尚書の崔景榮を罷めて承宗を代えるよう請い、廷臣も皆、承宗は兵を知ると考え、兵部の添設侍郎に推して東方の事を主管させることとした。しかし帝は承宗を講筵から離したがらず、上疏が再度に及んでも許さなかった。
  • 天啟二年(1622年)、禮部右侍郎に擢せられ、詹事府を協理した。

兵部尚書兼東閣大学士となる

  • 大清の兵が廣寧に迫り、王化貞は城を棄てて逃げ、熊廷弼もともに関内へ入った。兵部尚書の張鶴鳴は罪を恐れて辺境巡視に出た。帝も東方の事を憂え、そこで承宗を兵部尚書兼東閣大学士に拝し、内閣に入って政務を執らせ、数日後には閣臣のまま兵部の事務を掌らせた。
  • 承宗は上疏して弊害を論じた。近年は兵が多くとも訓練されず、糧餉が多くとも検覈されていない。将が兵を用いるべきなのに文官が募集訓練し、将が陣に臨むべきなのに文官が指図し、武略で辺を備えるべきなのに幕下に文官ばかり増やし、辺任を経略・巡撫に委ねながら日々朝廷から戦守を問う――これが極弊である。いま天下は将権を重んじ、沈着雄毅で気略のある者一人を選んで節鉞を授け、副将以下を自ら任用させ、文吏が小見をもって上を凌がぬようにすべきである。辺境の小さな勝敗はいちいち問うに足りず、要は関を守って敵の侵入を許さず、徐々に恢復を図ることだ、と。あわせて、西部(モンゴル諸部)の撫綏、遼の遺民の救恤、京軍の精選、永平の大帥の増置、薊鎮の亭障の修築、京東の屯田の開設など数策を列挙して上った。帝はこれを褒めて受け入れた。
  • 当時、辺境の警報がしきりに告げられるのに、閣部の大臣は当座無事であればよしとし、言路はますます喧しかった。そこで承宗は、廷弼を司法官に下して化貞とともに裁くよう請い、朝士の党庇を正した。また給事中の明時舉、御史の李達を逮捕して、四川で兵を募って寇を招いた失態を懲らしめるよう請い、さらに遼東巡按の方震孺、登莱監軍の梁之垣、薊州兵備の邵可立を詰責して、在職者の骨のない態度を戒めるよう請うた。これらの人々は次々と譴責され、朝廷の右班は震え上がり、同時に側目して怨嗟する者も多かった。

王在晉との八里舖築城論争

  • 兵部尚書の王在晉が廷弼に代わって遼東を経略した。総督の王象乾と深く結んだ。象乾は薊門に久しく、西部の諸種族の性情に通じ、西部にも慕われていたが、実は他に長所はなく、財物を与えて羈縻し、無事に老いて職を解かれることだけを望んでいた。
  • 在晉が西部を使って廣寧を襲おうと謀ると、象乾は「廣寧を得ても守れぬ。罪はいっそう大きくなる。重関を設けて険をなし、山海を衛って京師を衛るに如かず」と止めた。そこで在晉は山海關の外八里舖に重関を築き、四万人でこれを守ることを請うた。僚佐の袁崇煥・沈棨・孫元化らが力争したが容れられず、首輔の葉向高に書を送って訴えた。向高は「これは臆測では決められぬ」と言い、承宗が自ら赴いて決することを請うた。帝は大いに喜び、太子太保を加え、蟒玉・銀幣を賜った。
  • 山海關に着いた承宗は在晉を詰問した。「新城が成れば旧城の四万人を移して守らせるのか」。在晉「否、さらに兵を置く」。承宗「ならば八里の内に守兵八万となる。一片石の西北には兵を置かぬのか。しかも関を八里の内に築けば、新城の背はすなわち旧城の址である。旧城の品坑・地雷は敵のために設けたのか、それとも新兵のために設けるのか。新城が守れるなら旧城は何のためにあり、守れぬなら四万の新兵は旧城の下で矛を逆さにし、関を開いて敵を引き入れるのか、それとも関を閉ざして敵に委ねるのか」。在晉「関外には入るべき三道の関がある」。承宗「それでは敵が来れば兵が逃げるのは今までどおりだ。重関が何の役に立つ」。在晉「山に三つの寨を建てて潰走兵を待たせる」。承宗「兵がまだ潰えぬうちに寨を築いて待つのは、潰走を教えるものだ。しかも潰兵が入れるなら敵もその後についてこられる。いま恢復を図らず関を画して守るなら、将は藩籬をことごとく撤し、日々奥座敷で騒ぐようなもの。畿東に安寧の場所があろうか」。在晉は答えに窮した。
  • そこで承宗は関外を守る議を立てた。監軍の閻鳴泰は覺華島を主張し、袁崇煥は寧逺衛を主張したが、在晉は不可として中前所を守ることを主張した。旧監司の邢慎言・張應吾は逃げて関にいたが、みな在晉に付和した。
  • はじめ化貞らが逃げてのち、寧逺以西の五城七十二堡はことごとく喀喇沁の諸部に占拠され、彼らは辺境の守備を助けると称していた。前哨の遊撃左輔は名目上は中前所に駐屯とされたが、実際には八里舖より外へ出なかった。承宗は諸部が信ずるに足らず、寧逺・覺華が守れることをすでに見抜いており、在晉自身に言わせようとして心を推して語ること七昼夜に及んだが、ついに応じなかった。
  • 承宗は朝廷に帰って言った。敵がまだ鎮武に至らぬうちに味方が自ら寧遠・前屯を焼いたのは先日の経略・巡撫の罪、寧遠・前屯を棄てて敵がついに来ないのに関を一歩も出ようとしないのは今日の将吏の罪、将吏が関内に隠れているのに、敵を畏れる心を法を畏れる心に転じさせられず、利を謀る智を敵を謀る智に変えられぬのは臣と経略の罪である。百万の金銭を無用の版築に浪費するくらいなら、寧遠の要害を築いて守るほうがよい。八里舖の四万人を寧遠の要衝に充て、覺華と犄角をなし、敵が城を窺えば島上の兵を三岔へ回らせて浮橋を断ち、背後に回って横撃させる。事がなくとも二百里の疆土を収められる。要するに敵の帳幕を関門に近づけてはならず、杏山の難民を関わりなしと放置してはならない。庸人の議論を打ち破らぬかぎり遼事は成らぬ、と。
  • そのほか軍事の制置についてさらに十余の上疏があり、帝は嘉納した。まもなく講筵の場で承宗は面と向かって在晉は任に堪えぬと奏し、在晉は南京兵部尚書に改められ、逃げた臣の慎言らも斥けられて、八里の築城の議は立ち消えとなった。

山海關督師として

  • 在晉が去ると、承宗は自ら督師を請うた。関防(印)と敕書を給され、原官のまま山海關および薊遼・天津・登莱の諸処の軍務を督し、便宜に行事して中央の掣肘を受けぬこととされ、鳴泰が遼東巡撫となった。承宗は職方主事の鹿善繼・王則古を辟して贊畫とし、帑金八十万を請うて出発した。帝は特に門に御して見送り、尚方剣と坐蟒を賜い、閣臣が崇文門の外まで送った。
  • 関に到ると、総兵の江應詔に軍制を定めさせ、僉事の崇煥に営舎を建てさせ、廃将の李秉誠に火器を訓練させ、贊畫の善繼・則古に軍儲を治めさせ、沈棨・杜應芳に甲杖を繕わせ、司務の孫元化に礮臺を築かせ、中書舎人の宋獻と羽林経歴の程崙に馬の買い付けを主管させ、廣寧道僉事の萬有孚に採木を主管させた。また遊撃の祖大壽を覺華の金冠の補佐に、副将の陳諫を前屯の趙率教の補佐につけ、遊撃の魯之甲に難民の救出、副将の李承先に騎兵の訓練、参将の楊應乾に遼人の募兵を担当させた。
  • 当時、関上の兵は名目七万だったが規律がなく、糧餉を騙し取る者が多かった。承宗は大閲を行って逃亡した将数百人を汰し、河南・真定の疲弊した兵一万余を送り返し、之甲が救った難民七千を前屯へ発して兵とし、應乾が募った遼の兵卒を寧遠の守備に出した。朝鮮に諮って声援を求め、東江の毛文龍を犒って四衛の回復を命じ、登州の帥沈有容に檄して廣鹿島を占拠させた。春の防備の時期に自ら登莱へ赴いて進取を協議しようとしたが、中央は遼のことを急いでおり許さなかった。
  • 應詔が弾劾されると、承宗は馬世龍を代わりに用いることを請い、尤世禄・王世欽を南北の帥として世龍の節制に従わせ、さらに世龍のために尚方剣を請うた。帝はいずれも許した。世龍が事を受けると、承宗は壇を築いて拝し、鉞を授ける礼を行った。
  • 率教はすでに前屯を守り、哈喇沁の諸部をことごとく駆逐したが、撫塲はなお八里舖にあった。象乾は水関を開いて関内で撫することを議したが、承宗は不可とし、高臺堡と定めた。
  • 大清の兵が廣寧を棄てて去ると、遼の遺民がそこに入って住んだ。察罕部がこれを有孚に告げると、有孚は西部と組んで隙に乗じ彼らを殲滅し、恢復の功と偽ろうと謀った。承宗は檄を下して「西部でわが民を殺した者は盟約どおり罰する」と告げた。この一件で千余人が生き延びた。

魏忠賢との対立

  • 帝は辺情を探るのを好み、しばしば東廠に人を関門へ遣わして事情の報告書を奏上させ、これを「較事」と称した。魏忠賢が政を盗むに及び、その党の劉朝・胡良輔・紀用ら四十五人を遣わし、内庫の神礮・甲仗・弓矢の類数万を関門へ運んで軍中の用に供させ、さらに白金十万と蟒・麒麟・獅子・虎豹の諸幣を将士に頒賜し、承宗には蟒服と白金を賜って慰労させたが、実は軍を偵察するためであった。承宗はちょうど関を出て寧遠中路を巡っていたがこれを聞き、ただちに上疏して「中使が兵を観るのは古来戒められている」と述べた。帝は温旨をもって答えた。使者が到っても一杯の茶を出しただけであった。
  • 鳴泰が巡撫となったのは承宗が薦めたためだったが、後にその実がないと知り、軍事の多くを議に加えなかった。鳴泰は不満で去ることを求め、承宗も病と称した。言官はこぞって承宗を留めよと言い鳴泰を詆り、巡関御史の潘雲翼もまた弾劾した。帝は鳴泰を罷め、張鳳翼を代えた。
  • 鳳翼は臆病で、再び関を守る議を主張した。承宗は不快とし、再び関を出て巡視し、寧遠に至って将吏を集め守るべき地を議した。多くは鳳翼の意向どおりだったが、ただ世龍が中後所を守ることを請い、崇煥・善繼と副将の茅元儀が力めて寧遠を守ることを請うた。承宗はこれをよしとして議は定まり、大壽に工事を起こさせ、崇煥・滿桂に守らせた。
  • 先に呼爾敦圖がひそかに出て略奪したとき、率教は四人を捕らえて斬った。象乾は率教を斬って虎部に謝ろうとしたが、承宗は許さなかった。また承宗が中右の守備に遣わした王楹が、部下を護って材木の伐採に出たところ、西部の洛索に殺された。承宗は怒って世龍を遣わし討たせた。象乾は撫の枠組みが壊れるのを恐れ、洛索に逃亡者を縛って王楹を殺した者として献上させ、市賞を千金増やした。承宗が上疏して争っているうちに、象乾は喪に服して去った。
  • 承宗は和議を主とする者が権を撓めるのを憂え、督師と総督は兼ね設ける必要がない、自分を罷めよ、それが不可なら総督を推挙するな、あわせて遼東巡撫を寧遠へ移駐させよ、と言った。帝は総督の推挙を止めさせた。鳳翼は自分を死地に置くものだと言って大いに恨み、同郷の雲翼・有孚らとともに力めて世龍を毀って承宗に恨みを晴らそうとした。まもなく有孚が薊撫の岳和聲に弾劾されると、世龍と崇煥が陥れたのだと疑い、ともに浮説を流して関外へ出る計画を妨げた。給事中の解學龍はついに世龍の罪を極論した。
  • 承宗は憤り、抗疏して守禦の策を陳べた。敵を門庭の中で拒むのと門庭の外で拒むのとでは勢いが違う。わが方が敵を二百里の外に押しとどめるのと、敵がわが方を二百里の中に押し込めるのとでは勢いがまた違う。廣寧はわれに遠く敵に近いが、寧遠はわれに近く敵に遠い。われが敵に進み逼らねば、敵が進んでわれに逼る。今日ただちに遼左を恢復できずとも、寧遠・覺華はついに棄ててはならぬ。廷臣に雑議させ、主兵・客兵は久しく戍らせられるか、本色・折色の糧餉は久しく輸送できるか、関外の土地人民は棄てられるか、屯田・築城・戦守は興せるか、また敵の情勢を察して坐して待てば支えられるかを議させていただきたい。臣は百年の計を立てようとは思わず、ただこの五年の間にどうなるかを計るのみである。もし臣の言が当たらぬなら、ただちに臣を斥けて大計を定め、ぐずぐずと決しないまま、身と妻子を全うするだけの臣どもが衆口に付和して臣一身を殺し天下を誤らせることのないようにしていただきたい、と。あわせて世龍を弁護し、有孚らが結託して構えた実情を暴いた。
  • 有孚は故侍郎の世徳の子で、廣寧の理餉同知だったが城が陥ちて逃げ帰り、象乾が推挙して廣寧道僉事とし察罕の撫を専任させたが、着服が多く、ここに至って承宗の言によって斥けられた。鳳翼も喪に服して帰り、喻安性が代わった。廷臣が総督は廃止できないと言ったので、呉用先に薊遼を督させて象乾に代えた。承宗は本兵(兵部尚書)の趙彦がしばしば掣肘するのを憎み、病と称して罷免を求め、彦を自分の後任に挙げて困らせようとしたが、廷議が不可として止んだ。
  • 寧遠の城の工事が竣り、関外の守備の備えが整った。承宗は大挙を図り、前哨をすでに連山・大凌河に置いたので、速やかに糧餉二十四万を給されれば功はただちに奏せられる、と奏した。帝は担当の役所に給付を命じたが、兵部・工部は相談して「餉が足りれば彼はすぐに勝手なことをする。許すと言って与えず、文書のやりとりで引き延ばすに如かず」とした。承宗は再度上疏して促し、ありのままを帝に告げた。帝は諸曹を叱ったが、軍はついに出なかった。
  • はじめ方震孺・游士任・李達・明時舉が譴責されたのは、実は承宗が弾劾したためだったが、後にはみな赦しを求め、さらに楊鎬・熊廷弼・王化貞の功労を称して死を免じ辺境送りにするよう請うた。朝廷は騒然となり、給事中の顧其仁・許譽卿、御史の袁化中が交互に上章して論駁したが、帝はいずれも取り上げなかった。
  • 承宗が五方面の防備で功労のあった諸臣を叙し、あわせて病を理由に罷免を乞うたとき、中官の劉應坤らを遣わして帑金十万を将士への慰労に届けさせ、承宗には坐蟒膝襴と金幣を賜った。
  • このころ忠賢はいよいよ権柄を盗み、承宗の功が高いのを見て自分に親附させようとし、應坤らに意を伝えさせたが、承宗は一言も交えなかった。忠賢はこれで大いに恨んだ。
  • ちょうど忠賢が楊漣・趙南星・高攀龍らを追放したとき、承宗は西の薊・昌を巡っていたが、上疏しても帝が自ら目を通すとは限らない、講筵での奏対はいつも聞き入れられた、と考え、聖寿を賀するため入朝して機宜を面奏したいと請い、その機会に忠賢の罪を論じようとした。魏廣微はこれを聞いて忠賢のもとへ走り、「承宗は数万の兵を擁して君側を清めようとしている、兵部侍郎の李邦華が内応する、公は粉々にされますぞ」と告げた。忠賢はひどく怯え、御牀のまわりを回って泣いた。帝も心を動かされ、内閣に旨を擬させた。次輔の顧秉謙は筆を奮って「旨なくして信地を離れるのは祖宗の法ではない、違う者は宥さぬ」と書き、夜に禁門を開いて兵部尚書を召し入れ、三道の飛騎を出して止めさせた。さらに旨を偽って九門の守閹に「承宗がもし齊化門に至れば後ろ手に縛って入れよ」と諭した。承宗は通州に至って命を聞き引き返した。忠賢が人を遣って様子を窺わせると、輿の中には包み一つと夜具を置き、後ろの車には鹿善繼が乗っているだけだったので、少し安心した。それでもその党の李蕃・崔呈秀・徐大化が続けて上疏して詆り、王敦・李懐光になぞらえた。承宗は門を閉ざして罷免を求めた。
  • 天啟五年四月(1625年)、給事中の郭興治が廷臣に去留を議させるよう請い、糧餉を騙し取っていると論ずる者が続いて来たので、廷臣の雑議に下された。吏部尚書の崔景榮がこれを抑えたので、詔が下って留任を勧め、簡将・汰兵・清餉の三事について奏報するよう承宗に責めた。承宗はちょうど諸将を分けて錦州・大凌河・小凌河・松山・杏山・右屯の諸要害に戍らせ、二百里の地を回復し、大将の世欽・世禄、副将の李秉誠・孫諫を罷め、軍一万七千余人を汰し、支出六十八万を省いていた。
  • しかし言官は世龍を論ずるのをやめず、九月にはついに桞河の敗があり、死者四百余人に及んだ(詳細は世龍の傳にある)。ここに至って臺省は世龍を弾劾し承宗にも及び、章疏は数十上った。承宗はいよいよ強く辞任を求め、十月にようやく許された。すでに左柱國・少師・太子太師・中極殿大學士をたびたび加えられていたが、さらに特進光禄大夫を加え、子を中書舎人に廕され、蟒服・銀幣を賜り、行人が護送して帰した。兵部尚書の高第が代わって経略となった。まもなく安性も罷められ、巡撫は廃されて置かれなくなった。
  • はじめ高第は力めて承宗の議を阻み、関外を撤して関内を守るよう請い、承宗がこれに反駁したので、第は深く恨んでいた。翌年寧遠が囲まれると、第は上疏して関門の兵はわずか五万しか残っていないと言い、論者はいっそう承宗の罪とした。承宗は戸部に告げた。「第が関に赴任した当初は十一万七千人分の餉を給していた。いま五万人分の餉を給せば足りるということだ」。第は果たして妄言として罪を引いた。後に忠賢はその党の梁夢環を関の巡視に遣わして承宗の罪を仕立てようとしたが、何も得られずに止んだ。
  • 承宗は関に四年在り、前後して大城九・堡四十五を修復し、兵十一万を訓練し、車営十二・水営五・火営二・前鋒後勁営八を立て、甲冑・器械・弓矢・礮石・渠答・鹵楯の具あわせて数百万を造り、四百里の地を拓き、屯田五千頃を開いて歳入十五万を得た。後に寧遠の功を叙され、子を錦衣衛の世襲千戸に廕された。

崇禎年間の再起と都城の防衛

  • 荘烈帝が即位すると(1627年)、在晉が入って兵部尚書となり、承宗を恨むことやまず、世龍および元儀が枢輔(承宗)を惑わして関の事を壊したと極論し、さらに臺省をそそのかして口を揃えて承宗を詆り、その出仕を阻んだ。
  • 崇禎二年十月(1629年)、大清の兵が大安口から入って遵化を取り、都城に迫ろうとした。廷臣は争って承宗を召すことを請うた。詔して原官のまま兵部尚書を兼ねて通州を守らせ、なお入朝して謁見させた。承宗が至ると平臺で召対した。帝は慰労を終えて方略を問うた。承宗は「臣は袁宗煥が薊州に、滿桂が順義に、侯世禄が三河に駐まると聞いた。これは得策である。また尤世威が昌平に帰り、世禄が通州に駐まると聞いたが、これは適当でないようだ」と奏した。帝が「卿が三河を守らせたいのはなぜか」と問うと、「三河を守れば敵が西へ走るのを阻み、南へ下るのを遏められます」と答えた。帝は善しとし、「どのようにして朕のため京師を保護するか」と問うた。承宗は「緩急の際、城壁を守る者が飢えと寒さに苦しむのは万全の策ではありません。器械を整え手厚く犒って人心を固めるべきです」と言った。条陳したところはみな帝の意にかなった。帝は「卿は通州へ行くには及ばぬ。朕のために京城内外の守禦の事務を総督し、なお帷幄に参ぜよ」と言い、首輔の韓爌を促して敕を草させ、担当の役所に関防を鋳させた。承宗が退出したときには漏刻はすでに二十刻を下っていた。そのまま都城を一巡し、五鼓に終えると、また出て重城を巡視した。
  • 翌日の夜半、突然通州を守れとの旨が伝えられた。当時、烽火は近郊一帯に上がっていた。承宗は二十七騎を従えて東便門を出たが、途中で三騎を失い、疾駆して通州に着いたときには門番はほとんど入れようとしなかった。城に入ると保定巡撫の解經傳、御史の方大任、総兵の楊國棟とともに城壁に登って固守した。
  • 大清の兵がすでに都城に迫ったので、急ぎ遊撃の尤岱に騎兵三千を率いて救援に赴かせ、続いて副将の劉國柱に軍二千を督させて岱と合わせ、また密雲の兵三千を東直門に、保定の兵五千を廣寧門に営させた。その間に将を遣わして馬蘭・三屯の二城を回復させた。

祖大壽の潰走と山海關の再固め

  • 十二月四日、祖大壽の変が起きた。大壽は遼東前鋒総兵官で、崇煥とともに入衛していたが、崇煥が獄吏に下されたのを見て誅を恐れ、副将の何可綱らと部下一万五千人を率いて東へ潰走した。遠近は大いに震えた。
  • 承宗は急ぎ都司の賈登科に手書を持たせて大壽を慰諭させ、遊撃の石柱國を馳せさせて諸軍を撫させた。大壽は登科に言った。「配下の兵は救援に赴いて連戦連勝したのに、城上の人々は群がって賊と罵り、石を投げて数人を打ち殺し、遣わした偵察兵を間諜として殺した。労して罪を受けたから逃げ帰ったのだ。朶顔を討ってから身を束ねて命に帰そう」。柱國が諸軍に追いつくと、その将士は弓刀を向けながら、みな涙を流して「督師(崇煥)はすでに殺され、さらに大礮でわが軍を撃ち殺そうとしている。だからこうなったのだ」と言った。柱國はさらに前へ進んで大壽を追ったが、すでに遠く去っていたので引き返した。
  • 承宗は奏して言った。大壽の危疑はすでに甚だしく、また滿桂の節制を受けようとしない。そのため衆を煽って東へ走ったのであって、部下がみな叛こうとしているのではない。大いに生路を開いて衆心を丸く収めるべきである。遼の将には馬世龍の旧部が多いので、臣は便宜をもって世龍を遣わしてその将士を諭させる。必ず甲を解いて帰り、大壽は憂うるに足りません、と。帝は喜んで従った。
  • 承宗はひそかに札を送って大壽に、急ぎ上章して自ら申し開きをし、功を立てて督師の罪を贖え、自分が代わって弁明すると諭した。大壽は承諾し、東走の理由を列挙したが、いずれも将士の言のとおりだった。帝は優詔をもって答え、承宗に関門へ移鎮するよう命じた。諸将は承宗と世龍が来ると聞いて、自ら抜け出して帰順する者が多かった。大壽の妻の左氏もまた大義をもって夫を責め、大壽は兵を収めて命を待った。
  • 潰兵が関を出たとき、関城は略奪され、門を閉ざし市を罷めていた。承宗が到って人心はようやく定まった。関城はもと十六里、衛城はわずか二里で、いま敵が内にあれば関城は守りようがなく、衛城は関に連なって歩いて登れる有様だった。そこで別に牆を築いて関城を横断させ、そこに穴を穿って礮が水平に撃ち出せるようにした。城中の水が足りなかったので、一昼夜で百の井戸を掘った。以前に汰された牙門の将で仮住まいしている者が千人おり、困窮して乱を思っていたので、みな官の給養に入れ、街衢を巡行し臺を守り倉を護らせた。君主に事があっても内から乱は起こらず、外から来る者はすぐに巡邏の騎兵に捕らえられた。こうして関門の守りは完備した。
  • そこで世龍に歩騎兵一万五千を督させて救援に入らせ、遊撃の祖可法らに騎兵四営を率いさせて西の撫寧を戍らせた。
  • 崇禎三年正月(1630年)、大壽が関に入って承宗に謁したとき、親軍五百人が甲を着けて門で待ち構えていた。承宗は誠意をもって語り、その日のうちに大壽の統べる歩騎三万を教場に並べて誓師の礼を行い、群疑はたちどころに解けた。

永平四城の回復

  • 大清はすでに遵化を抜いて守っていた。この月の四日に永平を抜き、八日に遷安を抜き、続いて灤州を下し、兵を分けて撫寧を攻めたが、可法らが堅守して下らなかった。大清の兵はそのまま山海關へ向かい、三十里を隔てて営したが、副将の官惟賢らが力戦したので引き返し、撫寧および昌黎を攻めたがいずれも下らなかった。
  • このとき京師への道は塞がっていた。承宗・大壽の軍は東にあり、世龍と四方の援軍は西にあった。承宗は決死の者を募って海沿いに京師へ達し、関城がなお無事であることを初めて知らせた。関の西南の三県を撫寧・昌黎・楽亭といい、西北の三城を石門・臺頭・燕河といい、この六城は東は関門を護り西は永平を繞る、いずれも関に近い要地であった。承宗は諸城に厳守を命じ、将を遣わして開平・建昌を戍らせ、声援がようやく接した。
  • 京師が戒厳となったとき、天下の勤王の兵で先後して到着した者は二十万に及んだが、みな薊門や畿内近くに壁を築いて、先に進むのを利としなかった。詔旨がしきりに諸将を督励し、諸将も時には戦い攻めたが、回復することができなかった。
  • 世龍が先に遵化を回復することを請うと、承宗は言った。「そうではない。遵化は北にあって取りやすいが守りにくい。しばらく残して敵の勢いを分け、先に灤州を図るがよい。いまは多く声勢を張って遵化を図る構えを見せ、敵を牽制する。諸鎮は豐潤・開平に赴き、関の兵と連なって灤を図る。灤を得れば開平の兵に守らせ、騎兵は決戦して永平を図る。灤と永を得れば関と永が連なり、遵化を取るのはいたって易い」。
  • 議が定まると東西の諸営を並び進ませ、自ら撫寧に赴いて督した。五月十日、大壽および張春・邱禾嘉の諸軍がまず灤城の下に至り、世龍と尤世禄・吳自勉・楊麒・王承思が続いて到り、二日を越えてこれを克った。副将の王維城らもまた遷安に入った。永平を守っていた大清の兵はことごとく撤して北に還り、承宗は永平に入った。十六日、諸将の謝尚政らもまた遵化に入り、四城はすべて回復した。
  • 帝は郊廟に告謝し、大いに賞賜を行い、承宗に太傅を加え、蟒服・白金と世襲の錦衣衛指揮僉事を賜った。承宗は力めて太傅を辞して受けず、たびたび病と称して退隠を乞うたが、優詔をもって許されなかった。
  • 朶顔の蘓布廸が離反を繰り返したので、承宗は大将の王威に命じて撃ち破らせ、また銀幣を賜った。先に東宮冊立によって太保を加えられ、神宗實録が成ったときにも同様に官を加えられたが、いずれも辞退し、退隠を乞うてやまなかった。帝は閣臣に去留を議させたが決せず、特に中書を遣わして手詔を届けて慰問させたので、ようやく職に就いた。
  • 崇禎四年正月(1631年)、関を出て東巡し松山・錦州に至り、還って関に入ると今度は西巡して三協十二路をあまねく巡視して帰り、東西の辺政について八事を条陳した。帝はいずれも採納した。五月、任期満了により詔して太傅を加え兼ねて尚書の俸を食ませ、尚寳司丞に廕し、蟒服・銀幣・羊酒を賜ったが、また太傅を辞して受けなかった。

大凌河の敗と罷免

  • はじめ右屯・大凌河の二城には承宗が兵を置いて戍らせていたが、後に高第が代わって来てことごとく撤したため、二城は毀たれた。ここに至って禾嘉が遼東を巡撫し、廣寧・義州・右屯の三城を回復する議を立てた。承宗は「廣寧は道が遠い。まず右屯に拠り、大凌河に城を築いて漸を追って進むべきだ」と言った。兵部尚書の梁廷棟がこれを支持した。
  • 七月に工事を起こし、竣工したばかりのところへ大清の兵が大挙して至り、幾重にも囲んだ。承宗は聞いて錦州へ馳せ、吳襄・宋偉を遣わして救わせた。禾嘉はしばしば出師の期日を変え、偉と襄も仲が悪く、ついに長山で大敗した。十月に至り城中の糧は尽き援軍は絶え、守将の祖大壽は力尽きて出降し、城はまた毀たれた。
  • 廷臣は築城が策でなかったと後から咎め、交互に上章して禾嘉と承宗を論じた。承宗は続けて上疏して病を理由に辞し、十一月に許されて銀幣を賜り駅伝に乗って帰った。論者がなお喪師辱国を追論したので、官を奪われて閒住とされ、あわせて寧遠の世襲の廕も奪われた。承宗はさらに辺境の計十六事を列上し、禾嘉の軍謀の齟齬の失を極言した。帝は聞き置いたのみであった。
  • 家に居ること七年、内外からたびたび召し用いるよう請われたが返答はなかった。

高陽の落城と殉節

  • 崇禎十一年(1638年)、大清の兵が墻子嶺を破り、十一月九日に高陽を攻めた。承宗は家人を率いて拒み守った。
  • 大兵が引き揚げようとして城を繞って喊声を上げること三度、守る者もこれに三度応じた。「これは城が笑っているのだ、法からすれば当然破れる」と言い、囲みはふたたび合わさった。翌日、城は陥ち、承宗は捕らえられ、関を望んで叩頭し、縄に首をかけて死んだ。年七十六(1563-1638年)。
  • 子で挙人の鉁、尚寳丞の鑰、官生の鈰、生員の□(底本欠字)、鎬、甥の鍊、および孫の之沆・之滂・之澋・之洁・之瀗、従孫の之澈・之渼・之泳・之澤・之渙・之瀚は、みな戦死した。
  • 督師中官の高起潛がこれを報告した。帝は嘆き悼んで担当の役所に手厚い恤典を命じたが、国政にあたる楊嗣昌・薛國觀らがひそかに阻んだため、旧官を回復して祭葬を与えただけであった。福王のとき、はじめて太師を贈られ、文忠と諡された。

史論

  • 贊に曰く。承宗は宰相の身で二度軍を率い、いずれもひととおりの成果を挙げた。しかし取るに足りぬ宦官どもが前後して排斥し、ついには田野に退けられ、一門が斧鑕にかかって膏となるに至ってもなお恤典は加えられなかった。国のありようがこのようであっては、危うくないことを求めても得られようか。
  • 攻めるに足りぬ者も守るには余りがある。彼の才を思えば恢復は容易には言えぬにせよ、専任させていたなら封守を慎み固めるには足りたはずである。それを廷議は喧しく、急いで翦り除いてしまった。
  • 天は徳ある者を眷み、気運はまさに更まろうとしていた。誰がそうしたのでもないのにそうなったものがあるのだ。