明史卷二百四十八 列傳第一百三十六 顔繼祖

出自と言官としての論奏

  • 顔繼祖は漳州の人。萬厯四十七年(1619年)の進士。工科給事中を歴任した。
  • 崇禎元年(1628年)正月、工部の余剰人員および三殿造営の論功が濫に過ぎることを論じ、加秩・寄俸の二百余人を汰去させた。また魏党の李魯生・霍維華の罪状を極言した。
  • 御史の袁𢎞勲が大學士の劉鴻訓を弾劾し、錦衣の張道濬がこれを助けた。繼祖は「六人は徒党を組んで邪を行い政を乱している。厳しく懲らしめねば禍は際限がない」と言い、帝はいずれもその言を容れた。
  • 工科右給事中に遷った。崇禎三年(1630年)、京城十六門の濠と塹を巡視し、八箇条を列挙して監督主事の方應明の職務怠慢を弾劾した。帝は應明を杖して斥けた。外城が低く薄いので高く厚くしようという議が出たが、繼祖が「時節が窮迫しているのに大事業は難しい」と言って中止となった。
  • 吏科都給事中に再遷し、時事の十大弊を疏で陳べた。憂(喪)のため帰郷した。

会推の弊を論ずる

  • 崇禎八年(1635年)、もとの官に起用され、上言していう。「六部の政は尚書が管し、諸司の実務は正郎が握っており、侍郎と副郎・主事はただ列に並んで署名するだけである。政事が廃れぬはずがない。督撫諸臣で罪を得る者が相次ぐが、はじめは皆、会推(合議推挙)から出ている。しかしその会推も六科の掌篆者が主となるだけで、九卿や台臣はめったに来ない。しかも九卿・台諫はただ選郎の言葉を伝えられるだけで、唯々諾々として異論を挟むことがない。これのどこが会推であろうか」と。帝は善しとした。

山東巡撫としての在任

  • まもなく太常少卿に抜擢され、右僉都御史として山東を巡撫した。兵を分けて境上を扼したので、河南の賊は青州・濟南をうかがうことができなかった。前巡撫の李懋芳が軍餉二万余を横領したと弾劾し、旨を受けて褒賞された。
  • 崇禎十一年(1638年)、畿輔が戒厳となり、繼祖に徳州へ移駐するよう命が下った。当時、その指揮下の兵はわずか三千であったのに、兵部尚書の楊嗣昌の令によって五十日のうちに三度も配置を変えられ、最後に徳州の防衛に専念せよと命じられた。濟南はこれによって手薄になった。
  • 繼祖は再三、諸将の劉澤清・倪寵らに援軍を出すよう勅命を下すことを請うたが、いずれも足踏みして進まなかった。

濟南陥落と刑死

  • 翌年正月、大清の兵が濟南を陥れ、徳王を捕らえた。繼祖ひとりでは兼ね守ることができなかった。言官が次々と章を上げて繼祖を弾劾した。
  • 繼祖は嗣昌に責を帰し、「臣は兵少なく力弱く、徳州を守り得た功に居座るつもりはないが、濟南を失った罪を分け持たぬわけにもいかない。爵禄は朝廷にお返しし、骸骨は父母にお返ししたい」と言った。
  • 帝は容れず、逮えて獄に下し、市に棄てた。

附・崇禎年間に誅された巡撫たち

  • 崇禎の世を通じて誅殺された巡撫は十一人である。繼祖のほかに、薊鎮の王應豸、山西の耿如把、宣府の李養沖、登萊の孫元化、大同の張翼明、順天の陳祖苞、保定の張其平、四川の邵捷春、永平の馬成名、順天の潘永圖。河南の李仙風は逮捕されて縊死したのでこの数には入らない。
  • 王應豸は掖縣の人。戸部主事として魏忠賢に諂い、わずか三年で巡撫に駆け上がり右都御史を加えられた。崇禎二年(1629年)春、薊の兵が軍糧を要求して騒ぎ立て武器を取った。參政の徐從治が諭して群衆を散らしたが、應豸は飯に毒を入れて誘い出して皆殺しにしようとしたので、諸軍は再び大いに乱れた。帝は巡按の方大任に命じて調べさせ、軍糧を削り取っていた実態が明らかとなり、死罪と論じられた。
  • 李養沖は永年の人。兵部右侍郎を歴任し、宣府を巡撫した。崇禎二年(1629年)、退職した後に、御史の呉玉が撫賞銀七万を横領したこと、および功を偽り敗を隠した諸状を弾劾し、死罪と論じられ、獄中で死んだ。
  • 張翼明は永城の人。兵部右侍郎として大同を巡撫した。崇禎元年(1628年)、察罕呼爾敦圖が侵入して殺戮・掠奪が万を数えたが、翼明および總兵官の渠家楨は防ぐことができず、ともに死罪となった。
  • 陳祖苞は海寧の人。崇禎十年(1637年)、右副都御史として順天を巡撫し、翌年、失態の罪で獄に繋がれ、鴆を飲んで死んだ。帝は祖苞が刑を逃れたことに怒り、その子の編修・陳之遴を永久に叙用しないこととした。
  • 張其平は偃師の人。右僉都御史を歴任して保定を巡撫した。崇禎十一年(1638年)冬、属邑で失われたものが多かった罪により、繼祖と並んで西市で死んだ。
  • 馬成名は溧陽の人。潘永圖は金壇の人で、成名とは姻戚であった。崇禎十四年(1641年)冬、成名は右僉都御史として永平を巡撫し、永圖もまた昌平兵備僉事から起こって一年たたぬうちに巡撫に至った。畿輔が兵禍を受け、成名・永圖はともに機を失した罪で崇禎十六年(1643年)に西市で斬られた。残りは別に伝がある。