出自と魏忠賢への不服
- 耿如把は字を楚材といい、館陶の人。萬厯四十四年(1616年)の進士。戸部主事に任じられた。
- 天啟の初め、才によって職方郎中を歴任し、軍事の書類が輻輳して日に数十件を処理した。陝西參議として出、遵化兵備副使に遷った。
- そのころ逆奄(魏忠賢)が権柄を盗み、諂う者は生祠を建てて祝賀するまでになっていた。巡撫の劉詔は忠賢の画像を喜峯の行署に掲げ、文武の将吏を率いて五拝三稽首し「九千歳」と唱えた。如把はその像が冕旒(天子の冠)をつけているのを見て、軽く一礼しただけで出た。
- 忠賢は劉詔に弾劾させ、詔獄に下し、賍六千三百と認定して死罪と論じた。
附・胡士容
- そのころ胡士容という者がいた。薊州參議で、同郷の高官である崔呈秀にたびたび逆らった。呈秀はこれを恨んでいたが、忠賢の生祠を建てようとしたとき士容がまた命に従わなかった。
- 士容が江西副使に遷って通州を通ったとき、駅馬を多く乗り継ぎ倉の蓄えを横領したと誣告され、詔獄に下されて拷問を受け、賍七千と認定されて死罪と論じられた。
- 秋になって刑を執行しようとしたところで莊烈帝が即位し、崔(呈秀)・魏(忠賢)が相次いで誅に伏した。帝は「厰衛(東廠・錦衣衛)が法を深く牽強付会して罪を作り上げてきたことを、朕は深く痛む」と言い、耿如把を赦してもとの官に復し、胡士容らは改めて量刑させた。
- 士容は釈放されて出獄し、崇禎二年(1629年)に陝西副使に任じられ、右參政に進み、官にあって没した。士容ははじめ長洲の令となり、豪悪の徒を捕らえ、婁江の右塘を築いて政績の評判があった。士容は字を仁常といい、廣濟の人。
山西巡撫としての建言
- 如杞は上疏していう。「臣は鎮撫司に入ってから五毒(各種の拷問)を並べ受け、縛られて市曹へ引かれた者の話を日々耳にしました。幸い皇上が臣を死なせずに赦してくださり、驚いた魂もようやく落ち着きました。家に帰って病を養わせてください」と。帝は許さず、ただちに如杞を右僉都御史に抜擢して山西を巡撫させた。
- 察罕呼爾敦圖が順義王の地を占拠して辺境の患いとなり、戦うか和睦金を出すかの方針が定まらなかった。如把は「辺を守るのが上策だ」と言い、塞の垣を修め、戦の壘を繕い、山を削り谷を掘って、事は緒についた。
勤王軍の潰乱と刑死
- 崇禎二年(1629年)、京師が戒厳となり、如把は總兵官の張鴻功とともに精鋭五千を率いて援けに赴き、まっさきに京師に到着した。軍令では、兵が到着した翌日に配置区域を定めたうえで糧を給することになっていた。
- 如杞の兵が着くと兵部は通州を守らせ、翌日には昌平へ、その翌日には良鄉へ回した。持ち場が重ねて変わり、軍は三日間糧を得られず、騒ぎ立てて大掠奪を行った。
- 帝はこれを聞いて激怒し、如杞と鴻功の逮捕を詔した。朝臣で救おうとする者はなく、崇禎四年(1631年)、ついに西市で斬られた。
- 如把が職方郎であったころ、主事の鹿善繼とともに張鶴鳴に与して熊廷弼を排し王化貞を庇い、辺境の事はこれによって大いに壊れた。そしてこのとき罪を得たのである。
- 福王のとき、如把に右僉都御史を贈った。子の耿章光は進士、尚寶卿となった。