明史卷二百四十八 列傳第一百三十六 李若星

出自と言官としての活動

  • 李若星は字を紫垣といい、息縣の人。萬厯三十二年(1604年)の進士。棗强・真定の知縣を歴任し、御史に抜擢された。
  • まず南京兵部尚書の黄克纘を弾劾した。庫蔵を巡視して、国を蝕み商を病ませる四つの弊を挙げ、十庫の出納を調べて横領を防ぐことを請うたが、返答はなかった。
  • 山西を巡按して税使の撤収を請い、あわせて再び克纉を「沈一貫の私人、湯賓尹の死友であり、罷めさせるべきだ」と弾劾したが、容れられなかった。
  • 朝廷に戻り、福建右參議として出、病を理由に帰郷した。

甘肅巡撫と魏忠賢の獄

  • 天啟の初め、陝西で起用され、召されて尚寶少卿となり、さらに大理右少卿に遷った。天啟三年(1623年)春、右僉都御史として甘肅を巡撫し、辞見の際に魏忠賢・客氏の奸を摘発した。
  • 翌年、將の丁孟科・官維賢を遣わして河套の松山諸部を撃たせ、鎮番で二百四十余級を斬った。捷報が届いたが叙されなかった。
  • 「若星が義兵を起こして君側の悪を清めようとしている」と伝える者があり、忠賢はこれを聞くと、ただちに許顯純に命じて汪文言の獄の供述に「趙南星に賄して節鉞(軍権)を得た」と書き入れさせた。
  • 天啟五年(1625年)三月、若星の名を除き、河南の撫按に取り調べさせた。翌年、獄が上申されて杖百を加えられ、亷州へ流された。莊烈帝が即位して赦されて帰った。

崇禎以後と最期

  • 崇禎元年(1628年)、工部右侍郎兼右僉都御史として起用され、河道を総理した。甘肅での功を追って論じられ、秩二品に進んだ。
  • 黄河が大決壊して泗州が水没し、睢寧城が没した。若星は祖陵の修復と睢寧縣の県治を他所へ移すことを請い、認められた。
  • 都城が戒厳となると兵を遣わして入衛させ、病んで帰り、父の喪に遭った。
  • 久しくして召されて兵部右侍郎となり、崇禎十一年(1638年)、本官のまま右僉都御史を兼ね、朱燮元に代わって川・湖・雲・貴の軍務を総督し貴州を巡撫した。安位の残党である安隴璧および苗・仲の諸賊を討って功があった。
  • 福王のときに職を解かれ、郷里が荒廃していたので貴州に寓居した。桂王が武岡へ移ると召されて吏部尚書とされたが、赴かぬうちに乱に遭って兵に殺された。