明史卷二百四十六 列傳第一百三十四 王允成

字は述文、澤州の人。萬厯年間の挙人で、獲鹿知縣として治績抜群と称され、南京御史に召された。進士出身が重んじられる風潮のなか、挙人の身で臆せず論じ、梃撃事件が狂人の仕業だとする説を退け、方從哲が移宮後の敕諭だけを封じ返した二重基準を衝いた。天啟初年には黄克纘・邵輔忠を弾劾し、劉朝・魏進忠と客氏が人事の全権を握っている実態を「二人の小僧」と呼んで数え上げた東林系の直言の士である。魏忠賢の党に除名され追贓されたが、崇禎帝は皇弟の保護を請うた功を覚えていて故官に復した。

年表(4件)
  • 萬厯年間郷試に合格して獲鹿知縣となり、治績を認められて南京御史に召される
  • 天啟元年1621年先朝の直言の臣楊天民ら三十六人の追弔を請い、容れられる
  • 天啟四年趙南星に北へ移されたのち、御史張訥の弾劾により除名される
  • 天啟三年1623年六月、あらためて魏進忠を弾劾し、いっそう恨まれる

出自と南京御史時代

  • 王允成は字を述文といい、澤州の人。萬厯年間に郷試に合格し、獲鹿の知縣に任じられ、治績が抜群であるとして召されて南京御史に任じられた。
  • 当時は甲科(進士)の勢いが重く、乙科(挙人)の多くは彼らに卑下していた。允成は体格が堂々として才気が奔放で、甲科を凌いでその上に出ようとした。
  • まず遼左で失態を犯した諸臣を論じ、刑罰を正すよう請うた。

梃撃・移宮の議

  • 熹宗が即位し、廷臣がまさに梃撃・移宮の事を論争しているとき、帝は二度にわたって諭を下して選侍(李選侍)を責め、移宮ののちは互いに安らかであると述べた。大學士の方從哲がその上諭を封じ返した。
  • 允成は治世を保つ十事を陳べ、その中で述べた。張差が宮に闖入した件について、論ずる者は狂気の仕業だというが、東宮がどうして狂気を発する場所であろうか。龎保・劉成がどうして同時に狂う人間であろうか。ここに思い至れば寒心すべきである。今、鄭氏の四十年の恩威はなお残っており、庇護のもとに心腹の者が実に多い。陛下はこれを防ぐ手立てを考えるべきである。
  • また、近ごろ聖諭が宮中から出ることが多いが、それが妥当であれば竈を煽る(宦官が権を握る)端緒を開き、妥当でなくて臣下が争い執れば、必ず前言を撤回する形になる。事の大小を問わずすべて内閣に帰させるにこしたことはない、と。
  • さらに、元輔の方從哲はたびたび弾劾されても去らない。陛下が選侍の移宮ののちに一つの敕諭を発せられたのは、常人が心境を表明する程度のことにすぎないのに、從哲はすぐにこれを封じ返した。皇后を封ずる命、都督の命、周朝瑞を左遷する命は、なぜいずれも封じ返さなかったのか。司馬昭の心は路傍の人でも知っている、と述べた。
  • 姚宗文が遼左を視察して熊廷弼と仲違いし、帰って同僚を煽って廷弼を攻めさせたので、允成はその奸を憎み、重ねて上疏して論じ並べた。

天啟元年の建言

  • 天啟元年(1621年)、先朝の直言の臣を弔うよう請い、楊天民ら三十六人を挙げて上奏した。帝はこれを容れた。
  • ほどなく、輔弼を任じ、経畧を選び、中枢(兵部)を慎重に扱い、大帥を専任し、軍政を改め、賞罰を厳しくすることなど数事を陳べた。末尾には次のように述べた。今もっとも憂うべきは、陛下が禁中で孤立していることである。先朝で権勢を頼み寵を恃んだ宦官たちと、今日の側近とが互いに忌み妬んでおり、機に乗じて毒を放ち、互いに傷つけ合うことを恐れる。宮廷を防護する責任は内閣と司禮監にあり、ひそかに事を消し静かに解かせて、聖躬(帝)と皇弟がともに枕を高くできるようにすることこそ、根本の計である、と。当時、その言はもっともとされた。

黄克纘・邵輔忠への弾劾

  • のちに刑部尚書の黄克纘を弾劾した。克纘は選侍を保護せよと唱えて賈繼春に誤りを及ぼし、また宝物を盗んだ内侍を曲げて庇い、御史の焦源溥の綱常に関する一疏を論駁するに至っては、その誤謬がはなはだしい、と論じた。
  • さらに内降(宮中から直接下る命令)と留中(上奏を宮中に留め置くこと)の弊害を極論し、末尾でまた閣部の大臣を厳しく戒めた。旨に逆らって俸給を停められた。
  • 給事中の毛士龍が府丞の邵輔忠を弾劾すると、允成も同僚の李希孔とともに輔忠を弾劾した。
  • また綱紀の弛みを極論し、なれあいを戒め、旧習を破るよう請い、時事を指弾することがきわめて詳細であった。

劉朝・魏進忠・客氏の弾劾

  • このころ、中官の劉朝・魏進忠が乳母の客氏と結んで奸をなしていた。允成は上疏してその罪を一つ一つ数え上げた。おおよそ次のとおりである。
  • 内廷で顧命を受けた宦官(王安)は犬に食われるほど遺骸を放置され、覆いをかけてもらう恩恵にもあずからなかった。外廷で顧命を受けた老臣は中旨で追い出され、たちまち田里に引き取られる身となった。小馬を馳せる遊びの資とすることで、誰が遊猟に耽る風を開いたのか。大臣を怒りをぶつける相手とすることで、誰が長老に背く心を開いたのか。
  • 劉朝の輩ももとは外の政事に関わっていなかったが、沈㴶と邵輔忠がこれを導いてから、ほしいままに振る舞って憚らなくなった。しだいに王心一・倪思輝・朱欽相が斥けられ、しだいに司空(工部尚書)が陪推(次点者の登用)で任じられ、しだいに中旨で考官が任じられた。これは大臣を差し替える権が二人の小僧にあるということだ。
  • 近ごろは権を弄することがますますひどく、大臣を追うこと枯葉を振り落とすようで、王紀・滿朝薦をそろって免職し庶民とした。これは大臣を追い払う権が二人の小僧にあるということだ。
  • 科の臣の異動には定まった順序があり、休暇を与え昇進を推すのも前例どおりであったのに、周朝瑞の正直を憎んで、突然「推挙・任用を許さぬ」との旨が下った。これは百官を異動させる権が二人の小僧にあるということだ。
  • 秦藩は小宗から大宗を継いだので、その諸子は郡王に封じられないのが祖法として明白であるのに、部と科が争っても容れられず、あいついで去った。これは諸藩を進退させる権が二人の小僧にあるということだ。
  • 権を売り賄賂を受け、福をつくり威をふるって、二人の小僧が外で権を弄し、客氏が中で謀を主宰している。王振・劉瑾の禍が今日ふたたび現れようとしている、と。
  • 上疏が届くと、進忠らは歯ぎしりした。允成はさらに別の上疏で秦府への濫恩の誤りを論じたが、帝はついに省みなかった。

除名と晩年

  • 三年(1623年)六月、允成はまた進忠を弾劾し、進忠はいっそう恨んだ。
  • 翌年、趙南星が吏部となり、允成が賢明であることを知って北へ異動させた。まもなく南星が追われると、御史の張訥が「南星が允成を異動させたのは違法だ」と弾劾し、ついに除名された。のち給事中の陳維新がさらに允成を貪欲・陰険と弾劾し、詔によって撫按が取り調べ、贓物・私曲の罪に問われた。
  • 莊烈帝(崇禎帝)が即位すると、允成がかつて皇弟の保護を請うたことを思い出してその名を覚えており、召してもとの官に復したが、まもなく死去した。
  • 天啟の初め、東林はまさに盛んで、それを主導し連絡した者はおおむね言官の職にあった。允成は南にいて北と呼応し、当時の権貴の多くはその矛先を恐れた。しかし遠慮なく直言し、たびたび帝の側近を犯したので、その気風は重んずるに足るという。

李希孔――出自と弾劾

  • 李希孔は字を子鑄といい、三水の人。萬厯三十八年(1610年)の進士。中書舎人に任じられ、南京御史に抜擢された。
  • 給事中の姚宗文が遼東の軍を視察して経畧の熊廷弼を排斥すると、希孔は続けざまに上疏して弾劾した。さらに宗文が考選を阻んだことを糾弾し、「令旨」の二字について強く言って返上させ、先帝の並々ならぬ徳を遮ったとした。
  • 泰昌元年(1620年)冬、時政七事を陳べた。天啟の改元に際して、允成とともに邵輔忠を弾劾し、また言官の倪思輝・朱欽相・王心一を赦すよう請うた。

李希孔――「折邪議」の上疏(両朝実録を定める議)

  • 三年(1623年)、邪説を折って両朝実録を定めるべしとする上疏を行った。その趣旨は次のとおりである。
  • 第一。かつて鄭氏が国本(皇太子擁立)を危うくしようとしたとき、これに味方した者の最も顕著なのは三王並封の一件である。ところが今、筆を執る者はそれを非とせず、しかもその功を称えて陳平・狄仁傑と並べさえする。この説は理解しがたい。当時、並封にはまだ旨が下っておらず、輔臣の王錫爵がまず秘密の上疏で請うたのである。旨が禮部に下ると、王如堅・朱維京・涂一臻・王學曾・岳元聲・顧允成・于孔兼らが苦言を呈して力争し、また朝房で錫爵を共に責めた。そこで錫爵は大義に背けぬこと、天下が自分に与しないことを知り、上疏して自ら検挙し、封事は取りやめとなった。もし如堅らが死力を尽くして争い責めなかったら、並封の事はそのまま決まり、「子は母によって貴し」の説がさらに広まり、定策の国老としての勲功をゆっくりと収めていたことだろう。それを「命を出すや否や自ら咎を引いて、事はそれでやんだ」と飾るとは。ああ、これを錫爵のために憚ってよいものか。しかも錫爵が人に「王給事中は後悔していないか」と語ったと聞く。国本に関わる事であったために、諸臣は首をうなだれ顔を黄ばませ、錫爵の世が終わるまで再起できなかった。前代に漢を安んじ唐を回復したのが誰であったかを知らないのか。王陵を阻んで日の目を見せなかったのか。張東之・桓彦範ら五人を剪除して志を抱いたまま没せしめたではないか。臣が邪説を折る第一である。
  • 第二。次に顕著なのは張差が宮に闖入した事だが、筆を執る者はなお罪なしという。しかもその事を軽んじて王大臣・貫高の事を引き合いに出す。この説もまた理解しがたい。王大臣が素手で乾清宮の門まで闖入したとき、馮保は旧輔の高拱を怨み、その袖に刃を入れさせて自供させたのであって、実際の事ではない。張差の棍棒は誰が授け、誰が使わせたのか。貫高は体中に傷を負っても供述が張敖に及ばず、それゆえ漢の高祖は敖を釈して問わなかった。これを、張差の事が謀を造り主使した者を口供でありありと述べているのと比べられようか。昔は寛大に処して倫理を全うし、今はありのままに書いて事実を残し、後世の戒めとする。この二つはもともと矛盾しないのに、なぜ隠そうとするのか。しかも君父のために隠すのならよいが、乱賊のために隠すとは何事か。臣が邪説を折る第二である。
  • 第三。皇后を封ずる遺詔について。古来、帝が崩じてから后を立てた例はない。これは貴妃の私人が母后の尊位を借りて罪状を消そうと謀ったにすぎず、「遺詔」と称して必ず実行させようとしたのである。それなのになお「先帝の志」と称して神祖(萬暦帝)を重ねて誣い、ひそかに阿諛して封を伝えた者に逃げ道を開いてよいものか。臣が邪説を折る第三である。
  • 第四。先帝(光宗)の令徳と天寿の全うについては、薬のせいで崩じたと言って不名誉な名を負わせるべきではない。しかし当時、内で病を診た者が、積労・積虚のあとに攻撃的な薬剤を投じてよかったのか。人々の議論が沸き立ち、疑いと変事への深い懸念を抱いていたところへ、にわかに先帝の崩御に遭い、しかもちょうど薬を下した事があった。どうして痛み恨み、頭を抱え足を踏み鳴らして深く思わずにいられよう。ところが奸を討つ者は憤激してその言葉を過激にし、奸を庇う者は題目にかこつけてその罰を逃れさせている。君父はいかなる人か。臣子がまぐれ当たりで試してよいものか。臣が邪説を折る第四である。
  • 第五。先帝が神廟に続いて群臣を棄てられ、二か月のうちに鼎湖の号泣が二度あり、陛下はただ一人、頼るものもなく、宮禁は深く閉ざされて狐や鼠のような者が実に多かった。であれば、事の兆しを防ぎ微細のうちに備えるのに、いっそう厳重に慎まざるをえない。そうでなくとも、新天子がおごそかに正殿を避け、先朝の宮嬪一人に譲るとあっては、万世ののち、国体をどうするというのか。これこそ楊漣ら諸臣が軽重をはかって、急ぎ移宮を請うた理由である。宮はすでに移り、漣らの心事は終わった。もともとそれを自分の功としたわけでもないのに、どうして逆に罪として禁錮し排斥するのか。まことにどういう心か。選侍が久しく先帝に侍り公主を生んだのであれば、諸臣は必ずや陛下に恩礼を加えるよう力を尽くして請うたであろう。今、陛下はすでに選侍を安んじ、選侍もまた安んじられなかったことはない。どんな冤罪や抑圧があって、あわてふためいて病もないのに呻くのか。臣が邪説を折る第五である。
  • なお尽くさぬところがある。神祖と先帝の父子骨肉の間の処し方は、仁義孝慈もとより口をはさむ余地がない。当年、母は子を愛して抱き、外の議論は騒がしかったが、たとえ城社を頼む奸(宦官・権臣)があっても、ついに祖訓の長を立てる順序を変えることはなかった。それはますます神祖の明聖と先帝の大孝を示すものだ。何を憚ることがあり、何を隠す必要があり、また何を隠しえようか。もし鄭氏の過ちに言及すれば神祖の明を傷つけるというのなら、我が朝の仁廟(仁宗)の監國が危ぶまれ疑われたことは、いつ成祖の累となったか。当時の史臣はそれを率直に汗青に記し、嫌疑を避けたとは聞かない。なぜ今に限ってこの説を立て、巧みに奸人の責めを免れさせ、昔は罪に問えなかったものを、今は書きとどめることも許さないのか。何をもって教えとするのか。
  • 今、史局が開かれて公道が明らかであるのに、奸輩が陰謀をめぐらし言を飾って義を乱すのを座視すれば、三綱は乱れ九法は滅び、天下はただ私交あるを知って君父あるを知らなくなる。どうか特に纂修の諸臣に敕して、事実に基づいて率直に書かせ、疑わず隠さずさせていただきたい。そうすれば継述の大孝は武王・周公を超え、世道人心もこれに頼ることになる、と。
  • 詔によって史館に付して斟酌させたが、その後もついに改められなかった。

李希孔――客氏排斥と死

  • のちにまた客氏を宮外に出すよう請い、崔文昇を誅するよう請うた。忌む者がきわめて多く、東林党と名指しされたが、まもなく在職のまま死去したので、宦官の禍には巻き込まれなかった。

毛士龍――出自と三案の議

  • 毛士龍は字を伯高といい、宜興の人。萬厯四十一年(1613年)の進士。杭州推官に任じられ、熹宗が即位すると刑科給事中に抜擢された。
  • まず姚宗文の視察がでたらめであることを弾劾した。楊漣が朝廷を去ると、上疏してその留任を請うた。
  • 天啟の改元の正月、三案について論じ、孫愼行・陸夣龍・陸大受・何士晉・馬徳灃・王之寀・楊漣らが社稷に功があること、魏浚らが正しい者を醜め直き者を害した罪を力説した。帝はこれをよしとした。

毛士龍――劉朝ら盗宝事件の追及

  • 李選侍の移宮のとき、その内侍である劉朝・田詔・李進忠ら五人が財宝を盗んだ罪で刑部の獄に下された。尚書の黄克纘がこれを庇い、たびたび冤罪だと称したが、帝は従わず死罪と決した。
  • この年五月、王安が罷免され、魏進忠が権を握った。詔らは重い賄賂を贈り、配下の李文盛らに上疏して冤を訴えさせた。進忠はただちに旨を伝えて死一等を減じた。大學士の劉一燝らが再度執奏し、旨が刑科に下ると士龍は三度も抄参(差し戻しの弾劾)を行い、旨はほとんど取りやめとなりかけた。そこで克纘がその冤状を陳べて熱審(夏季の恩赦審理)に付すよう請うたが、進忠は従わず、旨を伝えてただちに釈放した。
  • 士龍は憤って克纘を弾劾し、旨に阿って法を曲げる者は大臣たりえないとし、また劉朝らの罪をきわめて詳細に列挙した。これによって進忠および諸宦官は士龍を骨髄まで恨んだ。

毛士龍――密告と流言への抗争

  • 進忠は密告を広く募り、天津の廃将である陳天爵が李永芳と内通していると誣告して、その一家五十余人を逮捕し詔獄に下した。士龍はただちに錦衣衛の駱思恭および誣告した者の罪を弾劾した。
  • 進忠は、張皇后が自分を抑えていることを恨み、后は死刑囚の孫二の生んだ子だと誣いて流言を撒いた。士龍は妖言をなす奸党とその教唆者を糾明するよう請い、進忠はいっそう恨んだ。
  • 九月に至り、士龍は順天府丞の邵輔忠が奸悪貪欲であることを弾劾し、希孔・允成もこれを弾劾した。輔忠は大いに恐れ、劉朝らは超越昇進をちらつかせて誘い、士龍を攻めさせた。輔忠はそこで、士龍が杭州で官にあったとき倉庫の金を盗み妓を囲ったと暴き立てた。進忠が中からその上疏を下したので、尚書の周嘉謨らは、二人の暴露はいずれも風聞であるから寛大にするよう請うたが、進忠は従わず、士龍の官籍を削り、輔忠は職を落として閑居させた。

毛士龍――魏忠賢の追撃と逃亡

  • 進忠はのちに名を忠賢と改め、あからさまに国政の権を盗んだが、士龍への恨みはやまなかった。四年(1624年)冬、その私人である張訥に弾劾させ、あらためて官籍削除を命じた。
  • 翌年三月、汪文言の獄の供述に士龍を組み入れ、李三才の賄賂三千を受け取って南京吏部への起用を謀ったとし、撫按に下して取り調べ贓物を追徴させ、平陽衛へ流刑とした。
  • ほどなく輔忠は起用されて一気に兵部侍郎に昇った。六年(1626年)十二月、御史の劉徽がまた輔忠の以前の上奏を持ち出して、士龍が訪犯(取り調べ対象者)から萬金を受け取ったと弾劾し、法司に下して逮捕・取り調べさせた。
  • 士龍は忠賢が必ず自分を殺すと知り、夜中に塀を越えて逃げた。その妾は知らず、役人に殺されたのだと思い、髪をふり乱して路上で泣き叫んだので、役人はどうすることもできなかった。士龍はひそかに家に至り、妻子を乗せて太湖に浮かび、難を免れた。

毛士龍――崇禎朝の再起

  • 莊烈帝(崇禎帝)が即位し、忠賢が誅されると、朝廷の士は士龍のために冤を訴え、詔によってその罪をすべて赦した。士龍ははじめて闕に詣でて謝恩し、あわせて陥れられた事情を陳べた。帝は憐れみ、官を復して致仕させたが、ついに召し用いなかった。
  • 崇禎十四年(1641年)に至り、同郷の周延儒が再び宰相となって、ようやく漕儲副使に起用され、蘇州・松江など諸郡の糧を監督した。翌年冬、都に入って太僕少卿となり、さらに翌年春、左僉都御史に抜擢された。
  • 当時、左都御史の李邦華、副都御史の恵世揚がまだ着任しておらず、士龍が一人で都察院の事務を掌った。帝はかつて輔臣に語って、以前の例では御史が地方を巡視する際は微行して民間を訪ねたものだが、近ごろは高い牙旗や大幟を掲げて気勢は巡撫をしのぎ、しかも役所の前後はどこも賄賂の抜け道が通じており、使いに出るたびに国に匹敵する富を得ている、厳しく懲らすべきだ、と述べた。士龍はこれを聞いて、福建巡按の李嗣京を弾劾して逮捕させた。
  • 十月、病と称して辞し帰郷した。国が滅んだのち死去した。

史論

  • 贊に曰く。滿朝薦は有能な県令であり、死力を尽くして凶悪な鋒先に抗し、深い牢獄に幽閉されても悔いなかった。言官の職に就いてからはいっそう憤って時事を論じた。強く立って屈しない者に近いといえよう。
  • 江秉謙・侯震𤾉の経撫についての議論、李希孔の三案についての議論は、いずれも事理の要点を突いている。
  • 王允成は劉朝・魏忠賢を正面から攻めながら、楊漣・左光斗・周朝瑞・黄尊素ら諸人と同じ災難に遭わずにすみ、毛士龍はかえって計略によって免れた。
  • 思うに忠賢が人を殺したのは、いずれも宦官に付き従う邪悪な党派の働きによって成ったのである。彼らは進んで善良な人々に刃を授け、その手を借りたのであって、加担した功のある者の罪は忠賢よりさらに重い。