出自と家系
- 侯震𤾉は字を得一といい、嘉定の人。祖父の堯封は監察御史で、大學士の張居正に逆らって地方へ転出させられ、累進して福建右參政に至り、清廉剛直の評判があった。震揚は萬厯三十八年(1610年)の進士に挙げられ、行人に任じられた。
客氏をめぐる諫言
- 天啟の初め、吏科給事中に抜擢された。当時、保姆の奉聖夫人客氏がまさに寵を独占し、魏忠賢および大學士の沈㴶と内外呼応して、その勢いは燃え盛るようであった。いったん宮外へ出されたが、熹宗は思慕して涙を流し、日が傾いても食事をとらないほどで、そこで宣諭して呼び戻した。
- 震暘は上疏して述べた。後宮は禁じられた場所であるのに、奸悪な宦官や小人どもがそのかたわらをうかがい、内外が連携して竈を煽るような勢いに乗じており、口にするに忍びない事態がある。後漢では王聖が寵を受けて江京・李閏の奸を煽り、趙嬈が寵を受けて曹節・皇甫の変を招いた。取るに足りぬ里の女が、どうしてたびたび至尊に馴れ親しんでよいものか、と。帝は省みなかった。
経撫問題の予見
- おりしも遼東の事態が難渋し、経畧の熊廷弼と廵撫の王化貞が対立し、兵部尚書の張鶴鳴は化貞に味方したので、議論する者は廷弼と化貞に地域を分けて任せようとした。震𤾉はそれが必ず失敗すると見抜き、上疏して四つの案を挙げた。
- 事勢がここに至った以上、陛下は経臣(廷弼)に問い、もし本当に訓練に意を用いられるのなら、進退・遅速は中央から制御せず、巡撫を撤して一切を彼に委ねてもかまわない。
- そうでなければ、廷弼に条項を分けて上奏させ、吏の議に付し、残った局面を拾い集めてもっぱら化貞に任せる。これが一つの案。
- でなければ、廷弼を宻雲へ移し、本兵(兵部尚書)を経畧とする。鶴鳴はふだん意気盛んに自任しているのだから、事が敗れて同罪となるよりは、身を挺して国に報いるほうがよい。これがまた一つの案。
- でなければ、いっそ経畧を化貞に授け、沈着で謀のある者を選んで巡撫に代え、後詰めとする。これがまた一つの案。
- でなければ、そのまま廷弼を登萊に移し、その三方布置の策を全うさせ、化貞と犄角の勢をなさせる。これがまた一つの案。
- そして、なお引き延ばしためらえば必ず国事を損なう、と結んだ。上疏が届き、ちょうど詔で会議にかけようとしたところであった。
廣寧失陥後の上疏
- 大清の兵はすでに廣寧を破っていた。化貞と廷弼はあいついで関門に入ったが、なお何度も温情ある詔を受け、罪を負ったまま功を立てよと命じられた。
- 震暘は大いに憤懣し、重ねて上疏して述べた。臣の言は不幸にして当たった。今日の計は法を論ずるべきで情を論ずるべきではない。河西が崩れる前は、朝廷こぞって惜しんだ者の十のうち七は化貞であったが、今はもう化貞を惜しむことはできない。河西が崩れて後は、朝廷こぞって寛大に扱おうとする者の十のうち九は廷弼であるが、今はもう廷弼を寛大に扱うことはできない。
- 巡撫について策を立てる者は、責任を負わせて廣寧に戻らせ西方部族と連携させるべきだというが、倉庫はすでに尽きている。素手で申包胥のような働きができようか。経臣について策を立てる者は、なお関を守らせるべきだというが、その「守る」とは、廷弼が以前に議した三十萬の兵と数十萬の軍餉をもって後の効を図るということか、それとも残った兵を率いて関外に出し、しばらく殺さぬ姿勢を示すだけのことか。いずれも一つとして可ではない。今、逃亡した臣を処罰する法を定めなければ、荒れ果てた辺境は何を頼りにするのか。
- のちに失態の罪を裁いた結果は、おおむね震𤾉の上疏のとおりであった。
沈㴶弾劾と左遷
- そののち、大學士の沈㴶が奉聖夫人および諸中官と結んで党派をなしていることを弾劾し、故監(宦官)の王安を謀殺した事情をことごとく暴いた。忠賢はその日のうちに詔を伝えて震暘を左遷した。
- 震暘は宮中に暇乞いする際、さらに田賦と河渠の二議を上奏したが、追われる臣が建議すべきでないとして、さらに二階級を落として帰された。震暘は言官の職にあること八か月、上奏した章はおよそ数十通に及んだ。
- 崇禎の初め、召してもとの官に復されたが、震暘はすでにその前に死去していた。その子の主事である峒曾の請いによって、特に太常少卿を贈られた。
倪思輝・朱欽相・王心一・馬鳴起(附伝)
- 震暘が客氏を論じたとき、給事中で祁門の倪思輝、臨川の朱欽相が上疏してこれに続いた。帝は大いに怒り、二人ともに三階級を落とした。大學士の劉一燝、尚書の周嘉謨らが次々に上奏して救済を論じたが、いずれも容れられなかった。
- 御史で呉縣の王心一の言はとりわけ切実で、帝は怒って同じように官を落とした。心一と同僚の龍谿の馬鳴起がさらに上疏して諫め、しかも客氏を留めてはならぬ六つの理由を挙げた。帝は重い処罰を加えようとしたが、一燝らの言によって一年分の俸給没収にとどめた。
- これより先、元年(1621年)正月、客氏がまだ宮を出ていないころ、詔によって土地二十頃を墓を守る香火の資として与えた。また詔して、魏進忠は侍衛に功があるので陵の工事が終わるのを待って併せて叙錄せよとした。
- 心一は上疏して述べた。陛下がこの二人を心にかけて土地を与え、はっきりと優遇を示されれば、東方の将兵がそれを聞いて気力を失うのではないか。まして梓宮(先帝の柩)がまだ葬られていないのに先に保姆の香火を思い、陵の工事が終わらないうちに宦官の勤労を強いて数え上げるのは、道理として順当でなく、情としても宜しくない、と。返答はなかった。
- ここに至って、心一は思輝・欽相とともに官を落とされた。廷臣が召し返すよう請う上疏は十数通に及んだ。皇子が生まれると、詔によって思輝・欽相・心一・鳴起はともにもとの官に復された。
- 欽相はまもなく太僕少卿に抜擢された。楊漣が魏忠賢を弾劾すると、欽相もまた上疏して極論した。五年(1625年)、右僉都御史として福建を巡撫し、賊の楊六・蔡三・鍾六らを討って功があったが、ほどなく忠賢に逆らって除名された。
- 思輝は崇禎のとき南京督儲尚書で終わり、心一は刑部侍郎で終わり、鳴起は南京右都御史で終わった。