明史卷二百四十五 列傳第一百三十三 周宗建
字は季侯、呉江の人(?–天啟六年)。尚書周用の曽孫で、萬厯四十一年の進士。武康・仁和の知縣を経て御史となった。天啟初年に客氏の再入宮を真っ先に論駁し、広寧失陥をめぐっては熊廷弼に味方して王化貞を庇う者と対立した。魏忠賢(もとの名は魏進忠)をその名を指して弾劾した最初期の言官の一人で、忠賢の私人である給事中郭鞏と激しく論争した。削籍・追贓ののち詔獄に下され、許顯純を面罵しながら熊廷弼の賄を坐されて獄死した。福王のとき忠毅と追諡された。
年表(8件)
出自と天啟初年の言事
- 字は季侯、呉江の人。尚書周用の曽孫である。萬厯四十一年(1613年)進士、武康知縣に任ぜられ、繁劇の仁和に移って異政があった。入って御史となった。
- 天啟元年(1621年)、顧存仁・王世貞・陶望齡・顧憲成のために諡を請い、萬厯朝の小人を追論して錢夢臯・康丕揚・亓詩教・趙興邦の乱政の罪を数え、あわせて李三才・王圖を詆った。
- 遼の事が切迫していたときには上書して輔臣を責備した。まもなく瀋陽が破れ、宗建は当事の大臣を責めることいよいよ急で、格を破って人を用い熊廷弼を召還するよう請うた。ついで兵部尚書の崔景榮が奸人の劉保を信ずべきでないこと、輔臣の劉一燝が言路を抑えるべきでないことを論じ、あわせて右通政の林材、光禄卿の李本固を刺した。材と本固は疾と称して去った。
- 魏大中が王徳完は楊鎬・李如楨を庇っていると弾劾したとき、宗建は徳完のために力めて大中を攻めた。その持論はしばしば東林と相違した。
- この年の冬、奉聖夫人客氏が一度出宮したのにまた入った。宗建はまっさきに抗疏して極論した。その中に、天子の成言が児戯に等しいこと、法宮の禁地がわずかに民家に類すること、聖朝の挙動に内外の防閑を尽く廃する乖りがあることを言い、この輩はひとたび隆恩を受けると分を踰えることを思い、狎れ溺れて紀なく、次第に驕恣となって釁孽が日々萌し後患は杜ぎ難くなる、玉聖・朱娥・陸令萱の覆轍は殷鑑とすべきだ、と述べた。旨に忤って詰責されたが、清議はこれによって宗建を重んじた。
魏進忠への弾劾と郭鞏との争い
- 翌年(1622年)広寧が失われ、廷臣の多くが王化貞を庇い熊廷弼の罪を重くしようとしたが、宗建は不平として両人の罪案を剖き、かなり廷弼に味方した。化貞を庇う者は宗建を深く憎んだ。
- 京師が久しく旱で、四月に雹が降った。宗建は陰盛陽衰の徴だとして四事を歴陳した。一つは専ら大學士沈㴶を譏り、一つは建言によって廃黜された諸臣を寛めるよう請い、一つは廷弼にはすでに定案があり、これにかこつけて朝士を羅織すべきでないと言って、陰かに兵部尚書張鶴鳴・給事中郭鞏を刺し、一つは専ら魏進忠を攻めた。その大要は、近ごろの政事について外廷が口々に「奥深いところは測り知れぬ」と言っている、諭旨が下るのに何かが憑いている、魏進忠のごとき者は目に一丁字も識らぬのに陛下は顔をほころばせて親しく交わられる、一切の用人行政がその説に堕ち、東西が入れ替わっても邪正が分からず、顛倒しても気づかれぬ、まして内廷が端を借り外廷が投合して互いに助け合えば、離間の兆しは蠅のように群がる者から起こり、讒構の釁は長舌から生じよう、その隠れた禍は言い尽くせぬ、というものであった。進忠は魏忠賢のもとの名である。当時、客氏と結んで対食となり、廷臣の多くが陰かに附いて勢いは次第に熾んになっていた。宗建の疏を見て骨髄まで恨んだが、まだ発しなかった。
- 鄒元標が首善書院を建てたとき、宗建が実際にその事を司った。元標が罷めると宗建も共に罷めるよう乞うたが許されなかった。光禄を巡視し、給事中の羅尚忠とともに奸弊を力めて剔って節約するところが多かった。ついで上供の器物を検覈するよう請うと、中官が怒って旨を取って詰責した。宗建らが再び疏を上げて力めて持すると、中人はいよいよ悦ばなかった。
- 給事中の郭鞏は先に廷弼を弾劾して謫せられ、廷弼が敗れると復官し、深く進忠と結んだ。進忠が最も宗建を悪んでいると知って、疏で廷弼を詆り、ついで廷弼を薦めた朝廷の者を詆って、宗建もそこに含めた。その鋒は甚だ鋭かった。南京御史の涂世業がこれに和し、宗建が廷弼を誤らせ封疆をも誤らせたと詆った。宗建は憤って疏で世業に反駁し、言葉は鞏に及んでその忠賢と結納した事を抉り出した。鞏も憤って数千言の疏を上げ、宗建をいっそう力めて詆り、あわせて劉一燝・鄒元標・周嘉謨・楊漣・周朝瑞・毛士龍・方震孺・江秉謙・熊徳陽ら数十人をことごとく廷弼の逆党と指した。宗建もまた憤って抗疏し力めてその謬を駁して言った。「李維翰・楊鎬・袁應泰・王化貞はみな封疆を壊した者である。亓詩教は力めて戦を催し、趙興邦は辺臣を賄で売った。みな封疆を誤った者である。その他、維翰を薦め、鎬を薦め、應泰・化貞を薦めた者もまた封疆を誤った者である。鞏はなぜ一人も撃たず、ひとり廷弼を苛求し、しかも廷弼を薦めた者を逆党と詆るのか」。
魏忠賢への直攻
- このとき忠賢の勢いはますます盛んで、宗建は内外が謀を合わせればその禍は大きくなると憂え、天啟三年(1623年)二月、ついに抗疏して直に進忠を攻めた。その大要はこうである。臣は昨年、名を指して進忠を弾劾した。進忠は一日も臣を忘れず、私人の郭鞏が入都したのに乗じて、臣を傾けあわせて己と異なる者を傾けるよう嗾した。鞏は「新幽・大幽」の説を創って察典を把持し、廷臣数十人の姓名を編んで一冊とし、また匿名の書を作って五十余人を羅織し道端に投げた。給事中では劉𢎞化を筆頭に周朝瑞・熊徳陽らが、御史では方震孺を筆頭に江秉謙らが挙げられ、臣もその中の一人である。諸臣を羅織して報復の私を快くしようとしただけでなく、さらに臣ひとりを中傷して進忠の恨みを釈こうとしたのだ。これでは察典は朝廷から出たものでなく、鞏と進忠の察典である。幸い直道が人にあって鞏の説は行われず、そこで別に廷弼を借りてひとたび穽に陥れようとした。鞏はまた臣が王安に論及したのを笑って何の瓜葛かと言うが、陛下は安がなぜ死んだかをご存じか。身と首は所を異にし、肉は烏鳶を飽かせ骨は黄犬に投げられた。古今未曽有の惨である。鞏が心中で進忠に親しむにせよ、どうして公を背き理を滅ぼしてよいのか。しかも劉一燝・周嘉謨・楊漣・毛士龍らを牽連してみな安の党だと言う。陛下は安の死が誰の傾害から出たかを窮められたい。これこそ進忠の一大罪案であり、鞏が進忠に媚びた証拠でもある。先朝の汪直・劉瑾はみな梟獍であったが、幸い言路が清明で臣僚と隔絶していたゆえ、久しからずして敗れた。今は権璫の報復がかえって言官を借りて伸び、言官の声勢がかえって権璫を借りて重んぜられる。数か月来、熊徳陽・江秉謙・侯震暘・王紀・滿朝薦は斥けられ、鄒元標・馮從吾は罷められ、文震孟・鄭鄤は逐われ、近ごろはまた孫慎行・盛以𢎞を扼してその揆路を絶った。瓜を摘み蔓を抱くように正人が重ねて足を止め、朝廷中がそれぞれ一死を惜しんで敢えてその鋒を犯す者がない。臣がなお微躯を顧みて上告せねば、内には進忠が指揮を執り、傍らには客氏が羽翼となり、外には劉朝らが兵を典って威を示し、さらに鞏らが蟻のように附き蠅のように集まって内外交通し善類を駆除する。天下の事はもはや言うに忍びぬ。
- 疏が入って進忠はいよいよ怒り、劉朝らを率いて帝の前を取り囲んで泣き、自ら髠となることを乞うて帝の怒りを煽った。そこで宗建に交通の実状を陳べさせ重い譴責を加えようとしたが、宗建の回奏はいっそう侃直であった。進忠は廷杖を議したが閣臣が力争して止み、俸を奪われた。給事中の劉𢎞化、御史の方大任らが交々章を上げて宗建を助け、進忠と鞏を攻めた。鞏はまた諸人を力めて詆った。詔して諸疏を下し平議させると、廷臣は両者を取りなしたので、厳旨で切責し鞏と宗建の俸三月を奪った。
- このとき劉朝が内操を典り、ついで辺を行こうと謀った。廷臣はかすかに聞いても誰も敢えて言わなかった。宗建は「鞏は自ら内と通じたことはないと言う。今まことに一片の紙を出して朝を遏められるなら、われはその交結の名を洗ってやろう」と言った。鞏は口を噤んで発せられなかった。宗建はそこで抗疏して極諌し、三つの不可と九つの害を歴陳した。ちょうど朝と進忠に隙が生じて事も沙汰止みとなった。
獄死
- その冬、湖廣を巡按に出たが憂(喪)で帰った。
- 天啟五年(1625年)三月、大學士の馮銓は御史の張慎言がかつて己を論じたのを恨み、その門生の曹欽程に誣劾させ、宗建を筆頭とし、あわせて李應昇・黄尊素に及ばせた。忠賢はそこで矯詔して削籍し、撫按に下して追贓させた。翌年、担当官が獄を具えるのが緩いというので緹騎を遣って逮治させ、まもなく李實の疏の中に入れられ詔獄に下して毒訊した。宗建は許顯純に厲声で「もう魏上公が一丁字も識らぬと罵れまいと言うのか」と罵った。ついに廷弼の賄一万三千を納れたと坐され、獄で斃された。
- 宗建が死んでも徴贓はいっそう急で、親しかった副使の蔣英が代わって納め、これも削籍を坐した。忠賢が敗れると詔して宗建に太僕寺卿を贈り一子を官にした。福王のとき忠毅と追諡された。
蔣英
- 嘉善の人。進士に挙がり、松溪・漳浦・宜興を知った。天啟のとき南京驗封郎中から福建副使に出て、ついに璫の禍に遭った。忠賢が敗れると故官のまま蘇松を分巡し、事に坐して秩を貶されたが、まだ発たぬうちに宜興で民変が起きた。上官は英が先に宜興を治めて民心を得ていたので、檄して宜興を撫治させた。宜興は英の管轄ではなく辞退したが許されず、単騎で赴いて諭し、豪家の僮客数人を懲らし、乱民に自ら首悪を差し出させ、乱はそれで定まった。宜興はもと豪家が多く、修撰の陳於泰と編修の陳於鼎の兄弟がとりわけ横暴で、そのため民変を激発させ、群衆が兵を執って鼓譟し勢いは激しかったが、英のおかげで事はすぐ定まった。しかし周延儒がちょうど国政を執り、陳氏と縁があって英を恨み、再び二秩を貶したので、英は帰った。
郭鞏
- 遷安の人。忠賢に附いて驟かに兵部侍郎まで昇った。莊烈帝が逆案を定めて削籍し配流を論じた。我が大清が遷安を抜くと、鞏は遁れ去り、また闕に詣って自ら聘を拒んだと言い、撰した却聘書を上った。兵部尚書の梁廷棟がこれを論じて下獄させ死罪を坐したが、巡撫の楊嗣昌が冤を訴え、戍に遣られることになった。