明史卷二百四十四 列傳第一百三十二 王之宷
字は心一、朝邑の人(?–?)。萬厯二十九年の進士で、刑部主事のとき梃撃事件の犯人張差を自ら訊問し、瘋癲として片づけられようとしていた事件の背後に龎保・劉成ら宦官の指嗾があることを暴いた。その功で一度は罪を免れたが京察で削籍され、天啟の初めに復官して「復讐の疏」を上げ、梃撃・紅丸の両案の責任を方從哲・鄭國泰らに帰した。魏忠賢の党に梃撃の裁断を覆されて除名され、詔獄で病死した。
年表(7件)
- 萬厯二十九年1601年進士に及第し清苑知縣となり、のち刑部主事に遷る
- 萬厯四十三年1615年五月、慈慶宮に張差が乱入し、獄中で自ら訊問して背後関係を引き出す
- 萬厯四十三年1615年帝が慈寧宮で群臣を召し、張差を磔に処して龎保・劉成は内廷で斃される
- 萬厯四十五年1617年京察の拾遺で貪を弾劾され、籍を削られる
- 天啟二年1622年二月、復讐の疏を上げて方從哲・鄭國泰らの罪を追及する
- 天啟四年1624年秋、刑部右侍郎を拝する
- 天啟五年1625年二月、楊維垣に梃撃の裁断を覆されて除名され、のち詔獄で病死する
梃撃の事件
- 字は心一、朝邑の人。萬厯二十九年(1601年)進士、清苑知縣に任ぜられ、刑部主事に遷った。
- 萬厯四十三年(1615年)五月初四日の酉の刻、姓名の分からぬ男子が棗の木の棒を持って慈慶宮の門に入り、門を守る内侍李鑑を撃って傷つけ、前殿の軒下で内侍韓本用らに捕えられ、東華門守衛指揮朱雄らに預けて収監した。慈慶宮は皇太子の居る宮である。翌日、皇太子が奏聞し、帝は法司に取り調べを命じた。
- 巡皇城御史劉廷元が取り調べて奏した。犯人の名は張差、薊州の人。ただ吃齋・討封と称するだけで言葉に筋が通らぬ。その挙動を見れば瘋癲に近いようだが、その面相からすれば実は狡猾である。法司に下して厳しく訊問するよう請う、と。
- 当時、東宮は久しく定まっていたが帝の待遇は薄く、中外は鄭貴妃とその弟の國泰が太子を危うくする謀と疑ったが手がかりを得ずにいた。また方從哲らもかなり戚畹と通じて身を固めていた。差が捕えられ、朝廷中が驚き怪しんだ。
- 廷元が瘋癲と奏すると、刑部山東司郎中の胡士相が員外郎の趙㑹楨・勞永嘉とともに訊問し、一に廷元の指す通りとした。すなわち差は積んだ柴草を人に焼かれて憤り癲を発し、四月中に冤を訴えて京に入り、姓名の分からぬ男子二人に騙されて棒を執り冤を訴える形を作らされ、東華門から入って真っ直ぐ慈慶宮の門に至った。律により斬、等を加えて即決とする、と。草案は定まったがまだ上らなかった。山東司は京師の事を主管し、印を署する侍郎張問達がこれを託していた。
- 士相・永嘉と廷元はみな浙人で、士相はまた廷元の姻戚であった。瘋癲として獄を仕上げたことを之寀は心中これは違うと疑った。
- この月十一日、之寀は牢の当番に当たり獄中に飯を配ったが、差にだけは与えず、私かにその実を問い質した。初めは訴えのためと言い、また拷問で死ぬならもう用はないと言った。之寀は飯を差の前に置かせ、「実を吐けば飯を与える。さもなくば飢え死にさせる」と言い、左右を退かせて二人の吏だけを留め、扶け起こして問うた。差はようやく言った。「小名は張五兒。馬三舅・李外父がいて、姓名の分からぬ一人の老公に従わせ、事が成れば地を幾畝かやると言った。京に着いたが街の名は分からぬ。大きな屋敷で一人の老公が飯を食わせ、『お前はまず一度突っ込め。人に遇えば打ち殺せ。死んでも我らがお前を救う』と言い、自分に棗の木の棍を与え、後宰門から導いて真っ直ぐ宮門まで来た。門を撃つと相手は地に倒れたが、老公が多くてついに捕えられた」。
- 之寀はその言葉を詳しく書き上げ、問達を通じて奏聞し、あわせて「差は癲でも狂でもなく、心もあり胆もある。兇犯を文華殿の前に縛って朝審するか、九卿・科道・三法司に敕して会同で問わせられたい」と請うた。疏が入ったが下されなかった。大理寺の王士昌、行人司正の陸大受、戸部主事の張庭、給事中の姚永濟らが続けて疏を上げて促したが、大受の疏に「奸戚」の二字があったので帝は悪み、之寀の疏とともに返答しなかった。
- 廷元がまた諸疏を速やかに検して法司に下し訊断させるよう請い、御史の過庭訓は「禍は肘腋に生じている、急ぎ翦つべきだ」と言ったが、いずれも返答がなかった。庭訓はそこで薊州に文書を送って足取りを調べさせた。知州の戚延齡は差が癲を発した経緯を詳しく述べた。貴妃が宦官を遣って仏寺を建てさせ、宦官が窯を置いて甓を作ったので、住民には薪を売って利を得る者が多かった。差は田を売って薪を仕入れ宦官のもとへ売りに行ったが、土地の者が妬んでその薪を焼いた。差が宦官に訴えたが叱られ、憤りに堪えず棒を持って御状を訴えようとした、と。そこで初めに取り調べた諸臣はこれを口実とした。
- 二十一日、刑部は十三司を会し、司官の胡士相・陸夢龍・鄒紹光・曾曰唯・趙㑹楨・勞永嘉・王之寀・吳養源・曾之可・柯文・羅光鼎・曾道唯・劉㫁禮・吳孟登・岳駿聲・唐嗣美・馬徳灃・朱瑞鳯らが再審した。差の供述では、馬三勇の名は三道、李外父の名は守才、姓名の分からぬ老公は鉄瓦殿を修めた龎保、街の名の分からぬ屋敷は朝外の大宅に住む劉成であった。二人が「われに宮門を打ち上らせ、小爺を打てば食う物にも着る物にもありつける」と言ったという。小爺とは内監が皇太子を称する言葉である。また姉の夫の孔道が同謀で、全部で五人だと言った。
- そこで刑部は薊州道に馬三道らを引致させ、法司に龎保・劉成を引致して対決させるよう疏請した。給事中の何士晉と從哲らも同様に言った。帝はそこで主使者を究め、法司を会同して罪を擬するよう諭した。この日、刑部は薊州からの返書に拠って上申したが、すでに厳刑で取り調べ速やかに刑を正すようにとの諭が下っていた。
- 当時、中外の噂は國泰に及ぶことが多く、國泰は掲帖を出して自ら弁明した。士晉がまた疏で國泰を攻めた(言葉は士晉の伝に詳しい)。これより先、百戸の王曰乾が変を上申し、奸人の孔學らが巫蠱を行って皇太子に害を為そうとしたと言い、供述はすでに劉成に連なっていた。成と保はともに貴妃の宮中の内侍である。ここに至ってまた成に及んだので帝は心が動き、貴妃に上手く計らうよう諭した。貴妃は窮して皇太子に憐れみを乞い、自ら他意のないことを明かした。帝もしばしば慰め諭して太子から廷臣に明かさせた。太子も事が貴妃に連なるのを大いに懼れ、帝と貴妃の意に沿って速やかな決着を期した。
- 二十八日、帝は自ら慈寧宮に御し、皇太子は御座の右に侍り、三人の皇孫が雁行して左の階の下に立った。大學士の方從哲・吳道南および文武の諸臣を召し入れ、父子を離間したと責め、張差を磔にし龎保・劉成には他の事はないと諭した。そして太子の手を執って「この児は極めて孝であり、われは極めて愛惜している」と言い、また手で太子の背丈を測って諭した。「襁褓から養い育てた丈夫である。われに別意があったなら、なぜ早く廃立しなかったのか。まして福王はすでに国に赴き、ここを去ること数千里、召さぬのに翼を得て至れようか」。そして内侍に三人の皇孫を石段の上に引かせ、諸臣によく見せて「朕の孫はみな成長した。この上何を言うのか」と言い、皇太子に何か言うことはあるか、諸臣に隠さず全て言えと問うた。皇太子は「瘋癲の者は速やかに処決すべきで、株連してはならぬ」と述べ、さらに諸臣を責めて「我が父子はどれほど親愛しているか。それを外廷の議論は紛々としている。汝らは君を無みする臣となり、我を不孝の子にするのか」と言った。帝はまた諸臣に「汝らは皇太子の言葉を聴いたか」と言い、声を連ねて重ねて申した。諸臣は跪いて聴き、叩頭して退出した。
- そこで法司に差の処決を命じ、翌日、市に磔にした。その翌日、師禮監が廷臣を会同して文華門で保・成を取り調べたが、すでに証拠がなく保・成は言を左右にして承服せず、太子の伝諭で軽く擬することになり廷臣は散じた。十余日を越えて刑部は馬三道・李守才・孔道の流罪を議し、帝はこれに従い、保・成は内廷で斃した。事はここで止んだ。
- 当時、帝が群臣に会わぬこと二十五年であった。之寀が保・成の事を暴いたのを機に、ひとたび出て群臣の疑いを解き、あわせて貴妃と太子の間を調えたのである。その事には跡があるように思われたので、之寀をにわかに罪しなかった。
- 萬厯四十五年(1617年)の京察で、給事中の徐紹吉と御史の韓浚が拾遺によって之寀を貪と弾劾し、ついにその籍を削られた。
復讐の疏と獄死
- 天啟の初め、廷臣の多くが冤を訴え、召されて故官に復した。天啟二年(1622年)二月、復讐の疏を上げた。礼に君父の讐は不倶戴天、斉の襄公は九世の讐を復し春秋はこれを大とした。かつて李選侍が聖母を打ち据えたことは、陛下が再三中外に播告し、その貴妃の封を停められた。聖母の在天の霊もきっと心安んじ目を瞑ろう。これは復讐の大義である。しかるに先帝は一生遭遇多難で、臨終の際に恨みを飲んで崩じられた。試みに問う、李可灼が薬を誤用したのを引き進めたのは誰か、崔文昇が故意に薬を用いたのを主使したのは誰か。恐らく方從哲の罪は可灼・文昇に劣らぬ。これが先帝の大讐の未だ復せぬ第一である。張差が棒を持って宮を犯し、安危は呼吸の間にあった。この乾坤何等の時であったか。それを劉廷元は曲げて奸謀を覆い瘋癲として獄を仕上げ、胡士相らは口供を書き改めて薪売りの筋書きで招を成した。その後の再審で、差は同謀して事を挙げ内外に多くの伏せ勢を置いたと供し、守才・三道もまた徒党を結んで連謀したと供したのに、士相らはことごとく抹殺した。当時、内応があり外援があった。一夫が難を起こして九廟が震え驚いた。何者の兇徒がこれほど不道を働けたのか。外戚の鄭國泰が私かに劉廷元・劉光復・姚宗文らと結び、珠玉金銭がその室に満ち、言官は舌を結んで誰も咎めず、ついに憚るところなく神器を睨むに至ったのである。國泰は死んだとはいえ罪は誅しても足りず、法として棺を開いて屍を戮し族を滅ぼし宮を赭くすべきなのに、今なお議に及ばぬ。これが先帝の大讐の未だ復せぬ第二である。総じて薬を用いた術はすなわち梃撃の謀である。撃って中らなかったので薬で促した。文昇の薬は張差の棒に連なる。張差の前に張差がなかったわけでなく、劉成の後に劉成が乏しかろうか。臣は陛下が上に孤立されるのを見るのである。
- さらに言う。郎中胡士相らは瘋癲を主張した者、堂官張問達は瘋癲を調停した者、寺臣王士昌は疏は忠だが心は佞で、評には一字もなく訴えには溢れる言葉ばかり、堂官張問達の言葉は転じて意は円く、先には瘋癲を許し後には奸宄を寛めた。勞永嘉・岳駿聲らは悪を同じくして助け合った。張差の供述に「三十六頭兒」とあったのに胡士相は筆を擱いた。供述に「東邊一起幹事」とあったのに岳駿聲は無辜に波及すると言った。供述に「紅封票・髙真人」とあったのに勞永嘉は究めるに及ばぬと言った。紅封教令の髙一奎は薊州に監禁されており鎮朔衛の人である。思うに髙一奎は紅封教を主宰する者、馬三道は紅の票を配る者、龎保・劉成は紅封教の多くの者に供給して棍を撒く者である。諸々の奸が会審の公単を増減したのは大逆不道である。
- 疏が入ったが帝は問わず、先に瘋癲を主張した者は骨髄まで恨んだ。まもなく之寀は尚寶少卿に遷り、翌年太僕少卿に遷り、ついで本寺卿に転じた。廷元および岳駿聲・曾道唯は之寀が己を侵したとして前後に疏で弁じ、之寀もまた続けて疏を上げて力めて論駁し、あわせて諸人が差の獄を議したとき紅廟の中で金を分けたことや仲介した者の名を甚だ詳しく暴いた。事は行われなかったが、諸人はいよいよこれを憎んだ。
- 天啟四年(1624年)秋、刑部右侍郎を拝した。翌年二月(1625年)、魏忠賢の勢いが大いに張り、その党の楊維垣がまず梃撃の裁断を覆して之寀を力めて詆り、除名を坐した。まもなく汪文言の獄に入れられ、撫按に下して取り調べさせた。岳駿聲がまた訐き、鄭國泰から二万金を逼り取ったと言い、詔があって追及された。三朝要典を修めるに及び、梃撃の事は之寀を罪の筆頭とした。府尹の劉志選がまた重ねて弾劾し、ついに詔獄に逮え下し、贓八千を坐し、之寀はついに獄中で病死した。崇禎の初め、官に復され恤を賜わった。
- 梃撃の議が起こって以来、紅丸・移宮の二事がこれに続き、両党の是非を争う禍患は次々に続いて、明が亡ぶまで已まなかった。
史論
- 贊に言う。国が亡びようとするときは、まず自ら善類を殺し、そこに水旱と盗賊が乗ずる。ゆえに禍乱の端緒には士君子が常に真っ先にその毒を被る。奇怪なことに、明のいわゆる三案は、朝廷中の士大夫が喋々として口から離さず、そこに元悪大憝がこれを用いて善類を翦り除き、ついに楊漣・左光斗ら諸人を牢屋に詰め込むに至った。東漢の末年と同じ轍を踏むようなものである。国がどうして亡びずにいられようか。