明史卷二百四十四 列傳第一百三十二 顧大章

出自と刑部での治獄

  • 字は伯欽、常熟の人。父の雲程は南京太常卿。大章と弟の大韶は双生児である。大章は萬厯三十五年(1607年)の進士に挙げられ、泉州推官を授かり、常州教授への転任を乞うた。父の喪が明けたころ、朝中は朋党が角立して正しい士が日々挫かれていた。大章は慨然として「昔、賈彪は顧厨の目には入らなかったが、ついに西に行ってその難を解いた。自分はかねて東林の疏によって彪に己を擬えられる」と言い、都に入って国子博士に補された。朝士と往来を通じ、陰かにその繋がりの要どころを察したので、清流はこれに頼った。
  • 稍く刑部主事に遷り、使を奉じて帰り朝に還ったときには天啟に改元していた。員外郎に進み、尚書王紀が山東司の事を署させた。この司は都下を管轄して最も任じ難い。遼陽が失われてから、五城および京営の巡捕が日々奸細を捜すことを事とし、少しでも痕跡があればおおむね死罪に論じ、裏づけの全くない者が二百余人いた。担当官は誰も裁こうとせず多くは官を移って去り、囚のうちまだ死んでいない者はわずか四分の一であった。大章は紀に「一身をもって五十人の命に代えるならそれも甘んじよう。まして一官のことなど」と言い、その日のうちに二人だけを繋ぎ、残りはことごとく大理に移して釈放した。紀は大いに感服した。
  • 佟卜年の獄では、紀が大章の言を用いて流罪を擬した。卜年の件がまだ上らぬうちに紀が斥けられ、侍郎楊東明が署事して死罪に置こうとしたが、大章が力争してついに流罪を擬した。それが旨に忤って詰責され、結局卜年は死罪に論じられ獄中で病死した。
  • 魏忠賢が劉一巘に藉けて劉一燝を巻き添えにしようとしたとき、大章は力めてその非を弁じ、忠賢は大いに恨んだ。卜年と一巘の事は紀・一燝の伝に詳しい。
  • 熊廷弼と王化貞が吏に下されたとき、法師の諸属二十八人が共に裁き、廷弼を寛めようと議する者が多かった。大章は議能・議労の例を援いて、化中(化貞の誤りか)は誅すべく廷弼は戍を論ずべきだと言った。しかし二人はついに死を坐し、大章もまた兵部に遷って去り、異議はなかった。

弾劾と獄死

  • 王紀が徐大化を弾劾して罷めさせ、また疏で客氏を刺したとき、その党は紀の疏が大章の手から出たものと恨んだ。大化は親しい御史楊維垣に、大章が妄りに八議を唱えて大獄を売り物にしたと訐かせた。大章が疏で弁ずると、維垣は四度の疏で力めて攻め、廷粥(廷弼の誤りか)の賄四万を納れたと言い、獄を売った数件を列挙して繰り返し詆り訐いてやまなかった。大章は甚だ危うかったが、座主の葉向髙が庇って担当官に下して取り調べさせ、都御史孫瑋らがその誣であることを明らかにした。帝は大章が煩わしく弁じたとして少しく俸を奪い、大章はそこで引退して帰った。
  • 天啟五年(1625年)起用され、礼部郎中・陝西副使を歴任した。大化はすでに大理丞に起用され、維垣とともに忠賢の鷹犬となり、汪文言の獄にかこつけて大章に連累させ、鎮撫に逮え下して拷掠し贓四万を坐した。楊漣ら五人が死んだあと、群小は「諸人が密かに獄で斃されたのでは人心を鎮められぬ。法司に付して罪を定め天下に明詔すべきだ」と謀り、大章を刑部の獄に移した。これによって漣らの惨死の状が外の人に初めて知られた。
  • 対簿に臨んで大章の言葉と気概は撓まなかったが、刑部尚書李養正らは一に鎮撫の原供のままとし、移宮の事を封疆の事に牽き合わせて六人に死罪を坐した。判決文が上ると忠賢は大喜びして矯詔を四方に布告し、なお大章を鎮撫に移した。大章は慨然として「われはどうして再びこの獄に入れようか」と言い、酒を呼んで大韶と訣別し、薬を和して飲ませたが死ねず、首を縊って卒した。崇禎の初め、太僕卿を贈られ一子を官にした。福王のとき裕愍と追諡された。
  • 初め大章らが逮えられたとき、獄中に忽ち黄色い芝が生え光彩が遠くまで映えた。六人が入り終わるとちょうど六弁になった。祥瑞とする者もあったが、大章は嘆じて「芝は瑞物なのにここで辱められている。我らに幸いなどあろうか」と言い、果たしてその通りになった。

顧大韶

  • 字は仲恭。諸生のまま老いた。経史百家および内典に通じ、詩・礼・儀礼・周官に発明するところが多く、その他に弁駁したものが数万言に及んだ。かつて、宋元以来、述作者の仕事は備わったのだから学者はただ誦するだけで述べぬがよい、と考えた。死に臨んで初めて自ら箋した詩礼を善しとした。莊子には『炳燭齋隨筆』と題した。