明史卷二百四十三 列傳第一百三十一 高攀龍
高攀龍(字は存之、–六十五歳)は無錫の人。程朱の学を志し、萬厯十七年の進士。趙用賢・李世達らの追放を受けて王錫爵を論難したため揭陽典史に謫され、以後三十年近く郷里に居て顧憲成とともに東林書院で講学し、「高・顧」と並称される一時の儒者の宗となった。熹宗の代に光禄少卿として復帰すると、外戚の鄭養性と方從哲を弾劾し、紅丸の案では春秋の首悪誅罰の義を引いて從哲に罪を帰した。天啓四年に左都御史となり、崔呈秀の汚職を暴いたことから呈秀を魏忠賢の義児に走らせ、謝應祥の一件に連座して罷帰、さらに籍を削られた。緹騎が迫ると遺表を残して後園の池に身を沈めた。崇禎初に太子少保・兵部尚書を贈られ忠憲と諡された。
年表(3件)
- 萬厯十七年1589年進士に挙げられ、行人を授けられる
- 天啓元年1621年光禄丞から光禄少卿に進む
- 天啓四年1624年八月、左都御史に拝せられる
出自と王錫爵を論じて謫される
- 字は存之、無錫の人。少くして読書し、程朱の学に志があった。萬厯十七年(1589年)の進士に挙げられ、行人を授けられた。
- 四川僉事の張世則が自著『大學初義』を進め、程朱の章句を詆って天下に頒つよう請うと、攀龍は疏を上げてその謬りを力めて駁し、その書はついに行われなかった。
- 侍郎趙用賢・都御史李世達が訐られて位を去ると、朝論の多くは大學士王錫爵を咎めた。攀龍は上疏して言った。
- 近ごろ朝廷の上に善良な者が擯け斥けられて一空になったのを見る。大臣では孫鑨・李世達・趙用賢が去り、小臣では趙南星・陳泰來・顧允成・薛敷教・張納陛・于孔兼・賈巖が斥けられた。近ごろは李禎・曾乾亨がまたその位に安んじられずに去りを乞い、選郎の孟化鯉もまた言官張棟を推用したために署を空しくして逐われた。そもそも天地が才を生ずるのは甚だ難しく、国家が才を需めるのは甚だ急である。廃斥がこのようでは、この先どう継ぐのか。正しい人に腕を扼ませ、曲士に冠を弾かせ、世道人心はどれほど慨いても尽きない。
- しかも今、陛下の朝講は久しく途絶え、廷臣は御顔を望み見ることを得ず、天言が伝えられて聖裁とはいうものの、隠れ伏した中で理由が測れない。ゆえに中外の群言は、輔臣が己に附かぬ者を除こうとしていると言うか、近侍が正しい人を用いるのを不利としていると言う。陛下は九重に深く居られるが、かつて誰かが諸臣の賢否を左右に陳べたことがあったか。陛下もまた諸臣について一度でもその罪を得た理由を思われたか。もしみな聖怒によるというなら、諸臣は孟化鯉のほかは旨に忤ったと聞かないのに、なぜみな罷斥されたのか。たとえ鱗に触れ耳に逆らった董基らでさえ陛下は已に収録されたのに、なぜ諸臣にだけそうされぬのか。
- 臣が恐れるのは、陛下に邪を祓う果断があっても左右がかえってそれに藉りて媚びと嫉みの私を行い、陛下に言を容れる盛心があっても臣工がかえって諫諍を拒むという譏りを遺すことである。四海に伝わり史冊に垂れれば、聖徳を累すること小さくない。輔臣の王錫爵らは、その自らの処し方の跡を見れば張居正・申時行より優れているようだが、その用心を察すれば五十歩をもって百歩を笑うのと何が異なろう。もし諸臣の罷斥がまことに当然だというなら、是非邪正は常人でも弁じられるのに、どうして至尊の過った措置を坐視するに忍びよう。内にその私憤を洩らし、斥逐を尽くすことを利としているのではないか。
- 末に鄭材・楊應宿の讒諂を力めて詆り、黜すべきだとした。
- 應宿もまた疏で攀龍を訐り、語はきわめて妄誕であった。疏はともに部院に下され、両臣を軽く罰して少しく懲らしめを示すよう請うたが、帝は許さず、應宿の二秩を削り、攀龍を揭陽添注典史に謫した。御史吳𢎞濟らが救いを論じ、ともに譴責された。
- 攀龍は任地に赴いて七月、事によって帰り、まもなく親の喪に遭ってついに出なかった。家に居ること三十年近く、言者がしばしば薦めたが帝はことごとく顧みなかった。
鄭養性・方從哲を弾劾する
- 熹宗が立つと光禄丞に起用され、元年(1621年)少卿に進んだ。明年四月、疏で外戚の鄭養性を弾劾して言った。張差の梃撃は実に養性の父の國泰が主謀したものである。今、人の言は籍々として、みな養性が奸宄と交わり別に異謀を懐いていると疑っている。疑いを積らせるからには、うまく全うする術を思うべきである。劉保の謀逆に至っては中官の盧受がこれを主導し、劉于簡の供述が現に残っている。受はもと鄭氏の私人であり、李如楨の一家は鄭氏と交わって名将を陥れ地を失い師を喪った。于簡のもとの供述には、李永芳が如楨と内応を約したと明言している。崔文昇のごときは素より鄭氏の腹心で、先帝の症が虚であるのを知りながら瀉薬を用いた。罪は赦されぬ。陛下はただ斥逐を行われたのみで、文昇はなお都城に潜み住んでいる。養性を故里に還らせ、急ぎ如楨・文昇を典刑に正して国法を明らかにされたい、と。疏が入ると、攀龍の多言を責められたが、ついに養性は本籍に還された。
- 孫慎行が紅丸の事で旧輔の方從哲を攻めて廷議に下されたとき、攀龍は春秋の首悪を誅する義を引いて從哲に罪を帰した。給事中王志道が從哲のために解こうとすると、攀龍は書を遺って切に責めた。
- まもなく太常少卿に改められ、疏で務学の要を陳べ、あわせて言った。從哲の罪は紅丸にとどまらない。その最大のものは鄭國泰と交結したことにある。國泰父子が先帝を危うくしようと謀ったのは一つではない。始めは張差の梃、次は美姫の進献、終わりは文昇の薬であり、しかも從哲が実にこれを助けた。鄭氏のためになる者を力めて扶け、鄭氏のためにならぬ者を力めて鋤いた。一時、人心は狂ったようで、ただ鄭氏を知って東宮を知らなかった。これが賊臣である。賊を討つことこそ陛下の孝であるのに、説く者は「先帝のために隠し諱むのが孝だ」と言う。これは大乱の道である。陛下が聖母を念えば選侍の罪を宣べ、皇考を念えば選侍の恩を隆くされる。仁の至り義の尽くしである。それを説く者は「聖母のために隠し諱むのが孝だ」と言い、明らかなること聖諭のごときを仮託と目し、忠なること楊漣のごときを功に居ると謗る。人臣が功に居ることを避けて甘んじて罪に居り、君父に急があっても袖手傍観する。これも大乱の道である。その説に惑って、孝といえばそれが孝でないのを知らず不孝を大孝とし、忠といえばそれが忠でないのを知らず不忠を大忠とする。忠孝がみな変え乱せるなら、どんな事が妄りに為されぬだろう。ゆえに從哲・養性は討たずにはおけない。それなのになお輦轂の下に居らせておくのか、と。
- ときに從哲らの後ろ盾は甚だ固く、疏中の「不孝」の語を摘んで帝の怒りを激し、厳しく譴責しようとした。葉向高が力めて救ったので、一年の禄を奪われるにとどまり、まもなく大理少卿に改められた。
- 鄒元標が書院を建てると攀龍も加わった。元標が攻められると攀龍は同じく罷めるよう請うたが、詔で留められた。太僕卿に進み、刑部右侍郎に擢せられ、四年(1624年)八月に左都御史に拝せられた。
崔呈秀との対決と自沈
- 楊漣らが群がって魏忠賢を撃ち、勢いは已に両立しなかった。向高が国を去ると魏廣微が日々忠賢を悪に導き、攀龍は趙南星の門生として並んで要地に居た。御史崔呈秀が淮揚を按じて還ると、攀龍はその汚穢の状を暴き、南星は戍を議した。呈秀は窮迫して忠賢のもとに走り、義児となることを乞い、そこで謝應祥の事を拾って攀龍が南星に党したと言い、厳旨で詰責された。攀龍はにわかに罪を引いて去った。
- ほどなく南京御史の游鳳翔が出て知府となると、攀龍が私を挟んで排擠したと訐った。詔で鳳翔を故官に復し、攀龍の籍を削った。呈秀の憾みは已まず、必ず殺そうとして、李實が周起元を弾劾した疏の中に名を紛れ込ませ、緹騎を遣わして攀龍を逮えに行かせた。
- 攀龍は朝に宋儒楊亀山の祠に謁して文をもって告げ、帰って二人の門生と一人の弟と後園の池のほとりで飲んだ。周順昌が已に逮えられたと聞いて笑い、「吾は死を視ること帰するが如しと言ってきたが、今まことにその通りとなった」と言った。入って夫人と平生のように語り、出て二枚の紙に書いたものを二人の孫に告げて「明日これを官校に付せ」と言い、そこで遣り出して戸を閉ざした。しばらくして諸子が戸を押し開いて入ると、一灯が熒然とするばかりで、已に衣冠のまま池に身を沈めていた。封じた紙を開くと遺表であり、「臣は削奪されたとはいえ旧く大臣であった。大臣が辱めを受ければ国を辱める。謹んで北に向かって叩頭し、屈平の遺した則に従う」とあった。また門人の華允誠に別れる書には「一生の学問、ここに至ってもまた少しく力を得た」とあった。時に年六十五。遠近はその死を聞いて傷まぬ者はなかった。
- 呈秀の憾みはなお解けず、詔を偽ってその子の世儒を刑部の吏に下し、世儒が父を防ぎ止められなかったとして徒刑に謫した。崇禎初、太子少保・兵部尚書を贈られ忠憲と諡され、世儒に官を授けた。
- 初め海内の学者はおおむね王守仁を宗としたが、攀龍は心にこれを非とし、顧憲成とともに東林書院で講学し、静を主とし、操履は篤実で粋然として正から出、一時の儒者の宗となった。海内の士大夫は誠であるか否かを問わず「高・顧」と称して異なる言はなかった。攀龍が官を削られた秋に詔で東林書院を毀ったが、莊烈帝が位を嗣ぐと学者は改めてこれを修復した。