明史卷二百四十三 列傳第一百三十一 孫愼行

孫愼行(字は聞斯)は武進の人。外祖の唐順之の学統を継ぎ、萬厯二十三年に進士第三人。門を閉ざして理学に精を尽くし、権要との交わりを絶った。萬厯四十一年に礼部右侍郎として部務を署理すると、東宮の開講と皇長孫の出閣、代王の長子廃立の是正、楚の宗人の釈放、福王の之国を繰り返し争い、闕に伏して力請して福王の之国を実現させた。天啓元年、礼部尚書として紅丸の案を論じ、方從哲は「弑の心なくとも弑の事あり」として断罪を迫ったが、廷議では李可灼のみが処断された。三朝要典の編纂で紅丸案の首魁とされて削奪・遣戍が定まったが、莊烈帝の即位で赦された。操行の峻潔さは一時の搢紳の冠と称され、崇禎八年に召されたが入都してまもなく卒した。太子太保を贈られ文介と諡された。

年表(6件)

出自と礼部侍郎としての諫争

  • 字は聞斯、武進の人。幼くして外祖の唐順之の遺した論を聞き習い、学を嗜んだ。萬厯二十三年(1595年)進士第三人に挙げられ編修を授けられ、累官して左庶子となった。しばしば休暇を請うて郷里に居り、門を閉ざして交わりを息め、理学に精を尽くした。当路者が面会を請うてもおおむね納れず、政事を尋ねる者があっても答えなかった。
  • 四十一年(1613年)五月、少詹事から礼部右侍郎に擢せられ部の事を署理した。当時、郊廟の大享の諸礼を帝は二十餘年も親しく行わず、東宮の講は八年も途絶え、皇長孫は九歳で外傅につかず、瑞王は二十三で未婚、楚の宗人は久しく錮せられて釈されず、代王は長を廃して幼を立てたまま久しく改められず、臣僚の章奏はすべて宮中に留められ、福府の荘田は四萬頃を満たそうとしていた。慎行はいずれも切に諫めた。
  • 東宮の開講と皇孫の出閣は宗社の安危に関わると考え、疏は七八度に及んだ。
  • 代王が長子の鼎渭を廃して愛子の鼎莎を立てたのは、李廷機が侍郎であったときこれを主導したものである。その後、群臣で争う者は百餘疏に及んだが、帝はみな顧みなかった。慎行がしばしば疏で争ってようやく改置を得た。
  • 楚の宗人が巡撫趙可懐を撃殺した件では、首謀の六人が死罪となり、さらに英嫶ら二十三人を高牆に錮し、藴鈁ら二十三人を遠地に禁じた。慎行はそれが叛ではないことを力めて明らかにし、諸人はこれによって釈された。
  • 皇太子の儲位は定まったが、福王はなお京師に留まり、荘田四萬頃を得てから行こうとした。宵小の多くが機を窺い、廷臣で之国を請う者はますます多く、帝はますます遅らせた。慎行の疏は十餘度に及んだが省みられなかった。最後に貴妃がまた帝に王を留めるよう請い、慶太后の七旬の寿節を口実にすると、群議はいよいよ紛々とした。慎行はそこで文武の諸臣を合わせて闕に伏して力請し、大學士葉向高もこれを争って帝に強いた。帝はやむを得ず明年の季春に之国することを許し、群情はようやく安んじた。
  • 韓敬の科場の議で慎行は敬を黜そうと擬し、家居のときは素より東林で講学していたので、敬の党はとりわけ忌んだ。ちょうど吏部の侍郎が欠け、廷議で李鋕を右侍郎から左に改め、慎行を右にすることになったが、命が下る前に御史過庭訓が、鋕はまだ着任していないのになぜ重ねて慎行を推すのかと言い、給事中亓詩教がこれに和した。慎行はそこで四疏で帰郷を乞い、城を出て命を待った。帝はこれを許した。
  • のち京察で御史韓浚らが、福王の之国を促したのは慎行が功を邀めたものだとして拾遺の疏中に列した。帝はその罪なきを察したので免れた。

紅丸の案を論ずる

  • 熹宗が立つと礼部尚書に召し拝せられた。初め光宗の病が重篤となったとき、鴻臚寺丞の李可灼が紅鉛丸の薬を進め、ほどなく帝は崩じた。廷臣は交々章を上げて弾劾したが、大學士方從哲は擬旨して病と称して帰らせ、金幣を賚った。
  • 天啓元年(1621年)四月、慎行は朝に還って上疏した。要旨は次のとおり。
  • 先帝が急に崩じられたのは、宿疾とはいえ実は医人の用薬が不審であったためである。邸報を見て、李可灼の紅丸が首輔方從哲の進めたものだと知った。可灼は太医の官でなく、紅丸は何の薬とも知れぬのに、敢えて突然に進めた。昔、許の悼公は世子の薬を飲んで卒し、世子はすぐ自殺したが、春秋はなおこれを書して弑と為した。ならば從哲はどこに身を置くべきか。速やかに剣を引いて自裁し先帝に謝すのが義の上である。門を閉じ藁に席して司寇を待つのが義の次である。それを悍然として顧みず、挙朝がこぞって可灼を攻めても本籍に還って調理させるにとどめたのは、自分が実際に薦めたのだから同罪を恐れたからではないか。臣は、從哲に弑の心がなくとも弑の事があり、弑の名を辞そうとしても弑の実は免れがたいと考える。実録の中で君父のために諱もうとしても「方從哲は連ねて薬二丸を進め、須臾にして帝は崩ず」と直書せざるを得まい。恐らくは百口をもってしても天下後世に解けまい。
  • しかも從哲の罪は実にこれにとどまらない。これより先には皇貴妃が皇后になろうとした事があった。古来、天子が既に崩じてから后を立てた例はない。もし礼官が執奏し言路が力めて持たなければ、どれほど宗社に禍を遺したことか。これに継いでは皇祖に「恭皇帝」と諡そうとした事があった。晉・隋・周・宋を歴考すれば、末世亡国の君がおおむね「恭」と諡された。それを我が皇祖に加えるとは、まことに不学無術というべきか、実は君国を呪詛して亡王に等しくするものである。その心づもりは何であったか。
  • この後には選侍が垂簾聴政しようとした事があった。劉遜・李進忠のごとき小者がどうして大胆に揚言できたのか。説く者は、二人の小者が早くから金宝を從哲の家に送っていたと言う。もし九卿・臺諫が力めて移宮を請わなければ、選侍が一日志を得て陛下はほとんど足を駐める所もなかったであろう。聞くところ、その折、從哲はぐずぐずして進まず、科臣が促すと「数日遅れても害はない」と言ったという。婦人・宦官の縦横に任せ、君父の危うきを忍ぶのが、大臣たる者のすべきことか。
  • 臣は礼にあって礼を言う。その罪悪は天に逆らい、万に一つも生きる路はない。その他、戦を督して国を誤り、上を欺いて私を行い、情をほしいままにして法を蔑し、天下の名義を犯して国家の禍患を醸した事は、臣は数え尽くせない。陛下は急ぎこの賊を討ってともに天を戴かざるの仇を雪ぎ、近習に諮られるな。近習はみな從哲が引き立てた者である。忌諱に拘られるな。忌諱こそ從哲が布置したものである。あわせて急ぎ李可灼を誅して神人の憤りを洩らされよ。
  • ときに朝野はちょうど從哲を憎んでおり、慎行の論は過酷ではあったが、争ってその言を良しとした。しかし近習の多くが從哲のために便宜を図ったので、帝は答えて言った。旧輔は素より忠慎である。可灼の進薬はもと先帝の意による。卿の言は忠愛ではあるが事は伝聞に属する。あわせて進封・移宮の事は、当日、九卿・臺諫の官で親しく見た者が実に拠って会奏し、群疑を釈くように、と。
  • そこで從哲が疏で弁じ、刑部尚書黄克纉も從哲に味方して曲げて弁じた。慎行は再び疏で折って言った。前を見れば可灼を過信して軽々しく薬を進めた罪があり、後を見れば可灼を曲庇して賊を討たぬ罪がある。両者とも弑に対して言い逃れできまい。從哲は移宮に揭があったと言うが、諸臣の請いは初二日、從哲の請いは初五日である。その折、章疏は乾清に入って慈慶に入らぬこと已に三日、国政はほとんど中断していた。他の輔臣が訪ね知って群臣とともに力請しなければ、その害は言い尽くせまい。伏して聖諭を読むに「輔臣は義として国を体して朕のために憂いを分かつべきである。今このような有様で、なぜ朕に代わって一言を伝諭し紛擾を屏息させないのか。君臣の大義はどこにあるのか」とあり、また「朕は凌虐に堪えず、昼夜六七日涕泣した」とある。從哲は顧命の元臣でありながら、少しでも義を色に形すことを肯んじていれば、どうして至尊をここまで憂え危ぶませたであろう。ただ婦人・宦官の意に阿ることが多く、聖明を戴く意が少なかったからこそ、敢えて皇祖を凌ぎ皇考に悖り陛下を欺いたのである、と。末に再び克纉の謬りを力言した。
  • 章はともに廷議に下された。やがて議が上ると、可灼だけを吏に下して辺に戍らせ、從哲は不問に置かれた。
  • 山東巡撫が五月中に日中に月と星が並び見えたと奏すると、慎行は大異とし、疏で修省を請い、語はきわめて切迫していた。
  • 秦王の誼漶は傍系から進封した者で、その四子は法として郡王に封ずるべきでなかったが、近侍に厚く賄って温旨を得た。慎行は堅く詔を奉ぜず、三疏で力争したが得られなかった。

閣臣の廷推と晩年

  • 二年(1622年)七月、病と称して去った。その冬、閣臣の廷推は慎行を筆頭とし、吏部侍郎盛以𢎞をこれに次いだが、魏忠賢は抑えて用いず、顧秉謙・朱國禎・朱延禧・魏廣微を用いた。朝論は大いに驚き、葉向高が続けざまに疏で二人を用いるよう請うたが、ついに命は得られなかった。
  • まもなく忠賢の勢いが大いに熾り、三朝要典を修めることが議され、紅丸の案では慎行を罪の首魁とした。その党の張訥がそこで上疏して力めて詆り、詔で削奪された。ほどなく劉志選がまた二度の疏で追劾し、詔で撫按に取り調べさせ寧夏に遣戍することになったが、行かぬうちに莊烈帝が位を嗣ぎ、赦によって免れた。
  • 崇禎元年(1628年)故官のまま詹事府を協理するよう命ぜられたが、力めて辞して就かなかった。慎行の操行は峻潔で一時の搢紳の冠であり、朝士はしばしば入閣を推したが、吏部尚書王永光が力めて排したので、ついに用いられなかった。八年(1635年)閣臣の廷推がしばしば旨に称わず、最後に慎行および劉宗周・林釬の名を上ると、帝はすぐに召した。慎行は已に病を得ており、都に入ったばかりで卒した。太子太保を贈られ文介と諡された。

盛以𢎞――父の訥と、儒業で顕れた衛所の世職

  • 盛以𢎞は字を子寛といい、潼関衛の人。父の訥、字は敏叔。訥の父の徳は世職の指揮であったが、洛南の盗を討って戦死した。訥は号泣して当路者に請い、水も漿も口に入らぬこと数日に及んだので、そのために兵を発して討ち斬らせた。久しくして隆慶五年(1571年)の進士に挙げられ、庶吉士から累官して吏部右侍郎となり、尚書陳有年・左侍郎趙参魯とともに銓政を釐めた。母の憂で帰り、篤い孝行で聞こえた。卒して礼部尚書を贈られ、天啓の初めに文定と諡された。
  • 以𢎞は萬厯二十六年(1598年)の進士。庶吉士から累官して礼部尚書となり、天啓三年(1623年)病と称して帰った。魏忠賢が政を乱してその職を落とした。崇禎初、故官に起用され詹事府を協理し、任地で卒した。明の世、衛所の世職で儒業によって顕れたのは訥の父子だけである。