明史卷二百四十三 列傳第一百三十一 鄒元標

鄒元標(字は爾瞻)は吉水の人。胡直に学んで王守仁の伝を受け、萬厯五年の進士。張居正の奪情を切諫して廷杖八十を受け、都匀衛に六年謫戍されたが、その間に理学を深めた。居正没後は吏科給事中として徐學謨らを弾劾し、帝の遊宴を諷して再び謫された。以後三十年近く郷里で講学し、趙南星・顧憲成とともに「三君」と称された。天啓元年に朝へ還ると「和衷の説」を進めて党争の停止を説き、薦引も一方に偏らせず、左都御史として丁巳の京察で禁錮された二十二人を回復させた。紅丸の件では方從哲を論じたが伸びず、馮從吾と首善書院を建てたことを講学の禁として攻められ、太子少保を加えられて帰郷した。崇禎初に太子太保・吏部尚書を贈られ忠介と諡された。

年表(4件)

出自と張居正の奪情を諫める

  • 字は爾瞻、吉水の人。九歳で五経に通じた。泰和の胡直は嘉靖中の進士で官は福建按察使に至り、歐陽徳・羅洪先に師事して王守仁の伝を得た。元標は二十歳ごろから直に従って学び、学問を志した。萬厯五年(1577年)の進士に挙げられ、刑部で観政した。
  • 張居正の奪情に際し、元標は疏を上げて切諫した。要旨は次のとおり。
  • 陛下は居正が社稷に利があるとお考えか。居正は才は為すに足るが学術は偏り、志は為そうとするが自らを用いること甚だしい。その施策が乖いていることは、たとえば州県の入学を十五六人に限り、有司が意を迎えてさらに数を減らすのは、賢に進む道が広くないということである。諸道の決囚にも定額があり、担当が罰を懼れて必ず数を満たすのは、断刑が濫に過ぎるということである。大臣は禄を持して苟くも容れられ、小臣は罪を畏れて口を閉ざし、今日陳言して明日譴責される者があるのは、言路が通じていないということである。黄河が氾濫して災いとなり、民には蒿を駕して巣とし水を啜って食とする者がいるのに有司が上聞しないのは、民の隠れた苦しみが行き届いていないということである。その他、刻深の吏を用い豪傑の材を沮むことは枚挙にいとまがない。
  • 伏して敕諭を読むに「朕の学は未だ成らず、志は未だ定まらず。先生が去れば前功はことごとく崩れよう」とある。陛下がここに言い及ばれたのは宗社無疆の福である。しかしながら、聖学を弼け成し聖志を輔翼する者が朝廷にいないとは言えない。しかも幸いにして居正は喪に当たっているのだからなお挽留できる。もし不幸にして館舎を捐てたら、陛下の学は終に成らず志は終に定まらぬのか。
  • 臣が居正の疏を見るに「世に非常の人があってはじめて非常の事を辦ずる。もし奔喪を常事として為すを潔しとせぬ者は」とある。人はただこの五常の道を尽くしてこそ人と謂われることを知らぬ。今ここに人があって、親が生きていても顧みず、親が死んでも奔らず、それでいて世に「我は非常の人である」と号する。世はこれを喪心と見なさなければ禽獣と見なそう。非常の人と謂えようか。
  • 疏を懐に入れて入朝したところ、ちょうど吳中行らが廷杖されていた。元標は杖が終わるのを待って疏を取り出して中官に授け、「これは休暇を乞う疏です」と偽った。入るや居正は大いに怒り、元標もまた廷杖八十、都匀衛に謫戍された。衛は万山の中にあり夷獠と居を共にしたが、元標は怡然として、いよいよ理学に心を究め、学は大いに進んだ。巡按御史が居正の指図を受けて元標を害そうとしたが、鎮遠に宿った夜に御史は急死した。

言官としての弾劾と再度の謫

  • 元標は謫居六年。居正が没すると召されて吏科給事中に拝せられた。まず、聖徳を培うこと、臣工を親しくすること、憲紀を粛すこと、儒行を崇ぶこと、撫臣を飭すことの五事を陳べた。
  • まもなく礼部尚書徐學謨、南京戸部尚書張士佩を弾劾して罷めさせた。徐學謨は嘉定県の人で、嘉靖中に荊州知府となり、景恭王が徳安に藩したとき荊州城北の沙市の地を奪おうとしたのを力めて抗して与えず、王に弾劾されて撫按に下されて逮問され官を改められた。荊州の人はこれを徳とし、沙市を「徐市」と呼んだ。居正は素より學謨と親しく、萬厯中に累遷して右副都御史・撫治鄖陽となった。居正が父を帰葬したとき學謨は謹んで仕えたので、刑部侍郎に召され、二年を越えて礼部尚書に擢せられた。𢎞治より後、礼部の長は翰林でなければ授けられず、ただ席書だけが大礼を言った故に他曹から遷り、萬士和は翰林でなかったが先にその部の侍郎を歴ていた。學謨はまっすぐ尚書に拝せられたが、廷臣は居正のゆえに敢えて言わなかった。居正が卒すると、學謨は急ぎ大學士申時行と姻を結んで自らを固めた。寿宮を択ぶ命を奉じたとき、通政参議の梁子琦が、初め居正に結び次いで時行に附いたと弾劾したが、詔で子琦の俸を奪った。元標が再びこれを弾劾したので、ついに致仕させられた。
  • 慈寧宮が火災に遭うと、元標はまた時政六事を上り、その中で言った。臣はさきに無欲の訓を進めた。陛下はまことに自ら省みて、果たして欲がないのか、欲が寡ないのか。語に「人に聞かれたくなければ為さぬに如くはない」という。陛下はまことに翻然と自ら省み、意を用いて培養されるべきである、と。当時、帝は壮齢で声色遊宴に意を留めていたので、元標が自分を刺すものと考えて甚だ怒り、旨を降して譙責した。首輔の時行は、元標が已に自分の門生でありながらその姻戚の學謨を弾劾して罷めさせたのを心中憾んでおり、そこで南京刑部照磨に謫した。
  • そのまま兵部主事に遷り、召されて吏部に改められ員外郎に進んだが、病で免ぜられた。起用されて驗封に補せられ、吏治十事・民瘼八事を陳べ、疏はほぼ万言に及んだ。
  • 文選の員外郎が欠け、尚書宋纁が元標を用いるよう請うたが久しく命が下らず、纁は続けざまに疏で促した。給事中楊文煥・御史何選もこれを言った。帝は怒って纁を詰責し、文煥・選を外に謫し、元標を南京刑部に調した。尚書石星が救いを論じたが、これも譴責された。
  • 元標は南京に三年居て、病と称して帰った。久しくして本部郎中に起用されたが赴かず、まもなく母の憂に遭った。郷里にあって講学し、従い学ぶ者が日々多く、名は天下に高く、中外が遺佚を薦める疏は数十百に上ったが、いずれも元標を筆頭としないものはなかった。しかしついに用いられず、在野に食むこと三十年近くに及んだ。

天啓の朝に還り和衷を説く

  • 光宗が立つと大理卿に召し拝せられたが、着任せぬうちに刑部右侍郎に進んだ。天啓元年(1621年)四月に朝に還り、まず和衷の説を進めて言った。今日の国事はみな二十年来の諸臣が醸成したものである。往者は賢に進み能に譲ることを事とせず、日々賢を錮し能を逐い、事を言う者もまた心を降し気を平らかにせず、専ら門を分かち戸を立てることに務めた。臣は、今日の急務はただ朝臣が心を和らげることにあると考える。朝臣が和すれば天地の和も自ずから応ずる。これまで人を論じ事を論ずる者はそれぞれ偏見を懐いた。偏は迷を生じ、迷は執を生じ、執して我を為せば再び人あるを知らず、禍は国に移る。今、諸臣と約する。一人を論ずるにはただ公に平にし、軽々しく筆端を揺るがすなかれ。一事を論ずるには前を懲らし後を慮り、軽々しく耳食を試すなかれ。天下万世の心で天下万世の人と事を衡れば、議論は公となり国家は自ずと安静和平の福を享ける、と。あわせて涂宗濬・李邦華ら十八人を薦め、帝は優詔で褒め納れた。
  • 二日おいて、抜茅・闡幽・理財・振武の数事および保泰四規を陳べ、あわせて葉茂才・趙南星・高攀龍・劉宗周・丁元薦を召し用い、羅大紘・雒于仁ら十五人を恤み録するよう請い、帝もまた褒め納れた。
  • 初め元標は朝に立って方厳をもって憚られたが、晩年は和易に務めたので、初めて仕えた頃に劣ると議する者があった。元標は笑って言った。大臣は言官と異なる。風裁が卓絶なのは言官の事である。大臣は大きな利害でなければ国体を護持すべきで、少年のように悻然と動いてよいものか、と。
  • ときに朋党が盛んで、元標は心にこれを憎み、その弊を矯めようと思ったので、薦引するところは一途に偏らなかった。かつて李三才を挙用しようとしたが、言路が与しなかったので中止した。王徳完がその首鼠両端を議しても元標は較べなかった。南京御史王允成らが、二人の不和について帝に諭し解かせるよう請うと、元標は言った。臣と徳完には初めより纖芥の隔てもない。これは必ず間で仲を裂く者がいるのである。臣はかつて朝士に語った。今、上は幼齢にあり、敵は門庭にある。ただ心を同じくして共に済うのみである。もし再び党を同じくして異を伐てば、国に対して不忠、家に対して不孝である。世には自ずと偏なく党なきの路がある。なぜ室内から戈矛を起こすのか、と。
  • 帝が位を嗣いで久しくなっても、先朝で廃されて死んだ諸臣にまだ贈官・恩恤がなかったので、元標は再び闡幽の典を陳べ、語はいよいよ懇切であった。
  • その年十二月、吏部左侍郎に改められ、着任せぬうちに左都御史に拝せられた。明年、外察を典り、留められたのはただ公のみであった。御史の潘汝楨・過庭訓にはかねて世評があったが、庭訓の任期満了に際して汝楨の評定が褒めすぎであったので元標が疏で論じ、二人はともに病と称して去った。
  • ほどなく、丁巳の京察は公平でなく専ら異己を禁錮したと言い、章家禎・丁元薦・史記事・沈正宗ら二十二人を収録するよう請い、これによって諸臣の多くが名誉を回復した。
  • また言った。明詔で遺佚を収め召されたが、諸々の老臣の処遇はなお三十年前に得るべきであった官のままである。三品の高い秩を添注して、陛下が耆旧を褒め尊ばれる至意を明らかにすべきである、と。帝はその言を納れ、そこで両京の太常・太僕・光禄の三卿にそれぞれ二員を増した。

紅丸を論じ、講学の禁により帰る

  • 孫慎行が紅丸を論じたとき、元標もまた上疏して言った。乾坤が毀れないのはただこの綱常があるからであり、綱常が立つのはこの信史を恃むからである。臣は去年、舟で南中を過ぎた。南中の士大夫はこぞって、先帝が突然に崩じられ大事が明らかでなく信を伝えがたいと言った。臣は初め然りとしなかったが、都に入って人に「先帝の盛徳は速やかに信史に登せるべきだ」と言うと、諸臣は「先帝の彌留の大事に言い及べば人に筆を擱かせる。誰が敢えてこれを引き受けよう」と言った。臣は初めて先日の言に疑いを抱いた。元輔の方從哲は賊を討つ義を伸べず、かえって奸を賞する典を行った。その心がなかったと言っても、どうして世に自ら解こう。しかも從哲が政を秉ること七年、何を建て樹てたとも聞かない。ただ馬上に一日三たび戦いを促して我が十萬の師徒を喪ったと聞くのみである。試みに問う。誰が国政を秉って先帝を震え驚かせ、奸人が宮に闖入し、豺狼が路に当たり、憸邪が政を乱すに至らせたのか。從哲は何の言葉で答えるのか。従来、乱賊を懲戒するのはひとえに信史にある。今を失えばどこに底止しよう、と。
  • ときに刑部尚書黄克纉が内廷の意を迎え、群小がこれに和し、また從哲は代々京師に住んで党附する者が多く、崔文昇の党もまた内で取り繕ったので、慎行と衆議は伸びることができなかった。ほどなく慎行および王紀がともに逐われ、元標は疏で救ったが聴かれなかった。
  • 元標は朝に還って以来、危言激論を為さず、人と猜み合うことがなかったが、小人はそれが東林であるとしてなお忌んだ。給事中の朱童蒙・郭允厚・郭興治は明年の京察が自分に不利になるのを慮って密かに駆逐を謀った。ちょうど元標が馮從吾と首善書院を建てて同志を集めて講学していたので、童蒙がまずその禁を請うた。元標は疏で弁じて辞去を求め、帝は已に慰め留めていたが、允厚がまた疏で弾劾し、語はとりわけ妄誕であった。魏忠賢はちょうど権柄を竊んでおり、旨を伝えて「宋室の亡は講学によるものだ」と言い、厳しく譴責しようとした。葉向高が力めて弁じ、あわせて同じく去ることを乞うたので、ようやく温旨が得られた。興治および允厚が再び交々章を上げて力めて攻め、興治は元標を山東の妖賊に比べるまでに至った。元標が続けざまに疏で請うことますます力めたので、詔で太子少保を加えられ駅伝に乗って帰った。参内して辞するとき、老臣が国を去る情の深さを上り、疏で軍国の大計を歴陳し、寡欲をもって諫めとしたので、人々に伝誦された。
  • 四年(1624年)家で卒した。明年、御史張訥が天下の講壇を毀つよう請い、力めて元標を詆ったので、忠賢は詔を偽って削奪した。崇禎初、太子太保・吏部尚書を贈られ忠介と諡された。
  • 童蒙らは元標を弾劾して清議に罪を得、まもなく年例で外に遷されたが、忠賢が志を得ると三人はともに召し還された。一年餘りで允厚は戸部尚書・太子太保に至り、童蒙は右副都御史・巡撫延綏に至って母が死んでも喪服を着ず忠賢のために生祠を建て、興治もまた太僕卿に至った。忠賢が敗れると三人はともに逆案に連なったという。