明史卷二百四十二 列傳第一百三十 張光前

趙南星のために争う

  • 字は爾荷、澤州の人。萬厯三十八年(1610年)の進士。蒲圻知県に授けられ、安肅に補せられて四か月で吏部験封主事に擢せられ、文選員外郎・稽勲郎中を歴任し、休暇を乞うて去った。
  • 天啓四年(1624年)趙南星が尚書となると、文選郎中に起用された。着任したばかりのとき、魏忠賢は南星を逐おうとして、廷推で謝應祥を推した事に藉り、詔を偽って厳しく責めた。当時、應祥の推挙に加わったのは員外郎の夏嘉遇であって光前ではなかったが、光前は疏を上げて争って言った。南星の人品と事業は人の耳目に明らかである。にわかに厳旨を奉じて不公を責められ、忠臣はひそかに惑っている。選郎は諸曹の領袖であり尚書の手足である。南星が甄別して進退したのは臣が実際に補佐したのであり、功罪は共にある。まず臣を罷斥されたい、と。こちらも旨を被って厳しく責められた。
  • まもなく喬允升らを南星の後任に推したことが忠賢の意に忤い、侍郎陳于廷および楊漣・左光斗の籍を削ることになったとき、光前はまた疏を上げて言った。会推では尚書の于廷が議を主宰し、臣が筆を執った。謹んで席藁して罪を待つ、と。遂に三秩を貶され外任に移された。
  • 光前は操行が清らかで厳しく、面会の請いを峻拒した。知県の石三畏は贓私が甚だしかったが、有力な後ろ盾を得て臺諫に授けられようとしていた。光前はこれを出して王官とし、その党はみな側目した。
  • 明年、光前の兄の右布政使光縉が遵化で治兵していて奄党の門克新に弾劾され、こちらも削籍された。兄弟が並んで宦官に忤って去ったので世に称えられた。
  • 崇禎元年(1628年)光禄少卿に起用されたが赴かず、三年(1630年)太常に起用され、まもなく大理少卿に進んだが、しばしば疏を上げて辞職を乞い、家に着いて卒した。

史論

  • 贊に曰く。朝政が弛めば士大夫は空言を騰げて実用が少ない。陳邦瞻・畢懋康・翟鳳翀・董應舉のごときはなお何かを建て立てようと思ったが、惜しくも明君の作興する朝に遭わず、そのため表れたところがこれだけにとどまった。蕭近髙・洪文衡の諸人はみな清素をもって自ら誓った。白瑜が鄭氏の獄を論じて公平を保てたのは、まことに卿貳の中でも際立った者であろうか。