言官としての弾劾
- 字は公業、徳州の人。祖父の瑶は江西右布政使。紹は萬厯十七年(1589年)の進士に挙げられ、汝寧推官に除せられ、召されて戸科給事中に授けられた。
- 京営を巡視し、副将の佟養正ら五人が賄賂を使って昇進を求めていたのをいずれも弾劾して処断に付した。帝が河南に使いを遣わして採礦させると、紹は二度の疏でやめるべきだと言ったが、いずれも返答はなかった。
- 再び遷って吏科左給事中となった。京官の大計に際し、御史許聞造が戸部侍郎張養蒙らを訐り、その語が吏部侍郎裴應章を侵した。紹は、聞造は吏部を挟んで考課を避けようとしており、しかも閣臣の張位に附会していると言った。聞造はそこで辺方に貶された。
- 主事の趙世徳が考察で貶官となったが、楊應龍征討の廷議で兵部が世徳を兵に通じているとして挙げたので、紹は駁して止め、また文選郎の楊守峻を弾劾し、守峻は自ら退いた。饒州通判の沈榜は貶官となりながら税監の潘相に取り入って留任を得たので、紹は不法だと極言した。
- 山西の税使張忠が、夏県知県の韓薰が自分に忤ったといって僻地への転任を奏請したので、紹はまたこれを争った。帝は怒って平民に落とそうとし、沈一貫の救いによって一階を降して外に出す詔となった。給事中李應䇿・御史李炳らがこれを争うと、帝はいよいよ怒り、薰も併せて平民に落とし、應策らの俸を奪った。紹は家居すること二十年に及んだ。
巡撫としての伝国璽の献上と諫言
- 光宗が即位すると太常少卿に起用された。天啓四年(1624年)右副都御史を歴て河南を巡撫した。儀封に居る宗室が盗の巣窟となっていたので、紹はその状を列上し、廃されて高牆に徙された。
- 臨漳の民が漳水のほとりで耕していて玉璽を得た。龍の紐、亀の形で、四寸四方、厚さ三寸、文に「受命於天既夀永昌」とあり、献上された。紹はこれを朝廷に聞して、おおよそ次のように言った。秦の璽が徴とするに足らなくなって久しい。今、璽が出たのがたまたま臣の管内であった。再び地下に埋めるべきでもなく、民間に私かに秘すべきでもない。官を遣わして恭しく闕廷に進めようとすれば、跡が貢媚に渉る。しかも至尊が宝とされるべきものは徳にあって璽にはない。ゆえにまず馳せ奏して進止の命を待つ。昔、王孫圉は玉珩を宝とせず、齊の威王は照乗の珠を宝としなかった。前史はこれを美としている。陛下は賢を尊び士を愛され、野に良才を留めおかれぬというが、なお一代の名賢として鄒元標・馮從吾・王紀・周嘉謨・盛以𢎞・孫慎行・鍾羽正・余懋衡・曹于汴らがおり、みな国を憂え公に奉じた白髪の老練の士である。その他、詞林・臺諫でひとたび錮せられて起たぬ者も、みな国の禎祥、盛朝の珍宝である。臣はこれらを朝廷に汲み致すことができず、いたずらに符を献じ瑞を貢するのは、臣ひそかに恥じるところである。願わくは陛下、ただ賢を宝とし、朝にある忠直を虚しく拘めず、野にある老成を速やかに登進されよ。かの区々たる秦璽の真偽など、どうして計るに足りようか、と。
- 魏忠賢はちょうど耆宿を斥け逐うていたところで、これを見て悦ばなかった。後に忠賢の勢いがいよいよ張ると、紹は病と称して帰った。崇禎六年(1633年)推薦されて工部右侍郎に起用され、二年を越えて年老いたことを理由に四度疏を上げて辞職を乞い去った。卒して本部尚書を贈られた。