明史卷二百四十二 列傳第一百三十 陳邦瞻

篇首の立伝者一覧

  • 陳邦瞻
  • 畢懋康(兄懋良)
  • 蕭近髙
  • 白瑜
  • 程紹
  • 翟鳳翀(郭尚賔)
  • 洪文衡(何喬逺)
  • 陳伯友(李成名)
  • 董應舉
  • 林材
  • 朱吾弼(林秉漢)
  • 張光前

出自と地方官としての治績

  • 字は徳逺、髙安の人。萬厯二十六年(1598年)の進士。南京大理寺評事に授けられ、南京吏部郎中を歴任した。
  • 出て浙江参政となり、福建按察使に進み、右布政使に遷った。河南に改め補せられ、彰徳の諸府を分理して水田千頃を開き、滏陽書院を建てて諸生を集めて講習させたので、士民は祠を建てて祀った。そのまま左布政使に改められた。

廣西・両廣での討伐

  • 右副都御史として廣西を巡撫した。上林の土官黄徳勛の弟の徳隆および子の祚允が叛き、徳勛は田州の土酋岑懋仁のもとへ逃げ込んだ。懋仁はこれを受け入れて上林を襲い破り、徳勛を殺してその妻子と金帛を掠めた。守臣が事情を問うと、徳勛は病死したと偽って祚允に跡を継がせることを乞うた。邦瞻は朝廷に討伐を請うた。
  • ちょうど光宗が位を嗣ぎ、邦瞻は兵部右侍郎・総督両廣軍務兼巡撫廣東に擢せられ、そこで兵を移して討ち捕らえた。海賊の林莘老が万餘人を糾合して海浜を侵掠したが、邦瞻はこれを扼して思うようにさせなかった。澳夷が青州に家屋を築き、奸民が通じて時に内地を侵したので、邦瞻はその巣を焼いた。
  • 工部右侍郎に召し拝せられたが着任せず、兵部に改められ左侍郎に進んだ。天啓二年(1622年)五月に四事を疏陳し、その中で言った。客氏はいったん出されてまた入った。これは陛下の過った措置である。輔臣が内降を封じ返して義によって固く争わず、かえって言者を罪して謫したのは、再び諫めを拒む失を踏むものである。それで人の言をどう解くのか、と。疏が入ると旨に忤って譴責された。
  • まもなく戸部・工部の二部の侍郎を兼ね、専ら軍需を理めた。明年、任地で卒した。詔で尚書を贈られた。邦瞻は学を好み風節に篤く、官に服すること三十年、吏の議に及ぶことがなかった。