明史卷二百四十 列傳第一百二十八 劉一燝
劉一燝(字は季晦)は南昌の人。父の曰材は陜西左布政使。沈一貫の私人の庇護を断り、萬厯四十五年の京察では孫承宗・繆昌期らを庇うなど、党論のなかで節を守った。光宗即位とともに入閣し、光宗が崩ずると、李選侍に匿されていた皇長子を王安とともに救い出して即位させ、さらに移宮を強く迫って熹宗の親政の道を開いた。方從哲が去ったのちは国政に当たり、内帑を発し近倖を抑え遺逸を起用して天啟初の一時の清明をもたらした。賈繼春の獄では朋党の名で士大夫が禍を受けることを恐れて弁護し、盗奄の疏の回付も拒んだため魏忠賢に深く恨まれ、天啟二年に致仕した。のち忠賢に削籍されたが、崇禎改元とともに官を復された。福王の時に文端と追諡された。
年表(4件)
- 萬厯十六年1588年兄の一焜・一煜とともに郷試に合格する
- 萬厯四十五年1617年春の京察で党人から孫承宗・繆昌期らを庇って救う
- 天啟二年1622年正月、十二度の辞表を経て伝馬で帰郷する
- 崇禎八年1635年卒し、少師を贈られる
出自と京察での節操
- 劉一燝は字を季晦といい、南昌の人。父の曰材は嘉靖中の進士で陜西左布政使。萬厯十六年(1588年)、一燝は兄の一焜・一煜とともに郷試に合格し、七年後、また一煜とともに進士に合格して庶吉士に改まり檢討を授かった。
- 一焜が考功郎として京察を掌ったとき、大學士の沈一貫がその私人の錢夢臯・鍾兆斗らを庇おうとして一燝に取りなしを頼んだが、一燝は謝して受けなかった。夢臯らは結局中旨で留任し、これで一貫の意に忤った。
- ついで祭酒・詹事を歴任し翰林院の事を掌った。四十五年(1617年)春の京察で党人が事を用い、孫承宗・繆昌期らを逐おうと謀ったが、一燝が力めて庇って免れた。故事では掌院で一年に満たずに遷らぬ者はいなかったが、一燝は四年居てようやく禮部右侍郎に遷り庶吉士を教習した。
光宗即位と入閣
- 光宗が即位すると禮部尚書兼東閣大學士に抜擢されて機務に参与し、何宗彦・韓爌とともに任じられた。当時、内閣は方從哲ひとりだけであった。萬厯末年、神宗は史繼偕・沈㴶の二人を用いようとしたが両人は在籍中で、帝が召してもまだ着かぬうちに、帝はまた宗彦・一燝・爌を命じ、翌日また朱國祚と旧輔の葉向高を命じた。しかし宗彦・國祚・向高もみな在籍中で、一燝と爌だけが入直した。
- 拝命したばかりで帝は既に病を得ており、一燝は諸臣とともに乾清宮で召見された。
皇長子の擁立と移宮
- 翌年九月朔、帝が崩じた。諸臣が入って臨(哭礼)を終えると、一燝は群奄を詰った。皇長子は柩の前で即位されるべきなのに今おられぬのはなぜか、と。群奄は東西に走って答えない。東宮伴読の王安が進み出て、李選侍に匿されているのだ、と言った。一燝は大声で、誰が新天子を匿すのか、と言った。安は、しばらくお待ちを、諸公は決して退かれるな、と言って走り入り選侍に告げた。選侍は頷いたが途中で悔いて皇長子の裾を引いた。安は直ちに進んで抱きかかえ急ぎ出た。一燝はこれを見て急ぎ進み出て万歳を呼び、皇長子の左手を捧げ、英國公の張惟賢が右手を捧げて輦に乗せた。門に至ると宮中から厲しい声で「哥兒よ、戻れ」と呼び、追いかける使いを三度も出した。一燝は輦の傍らを疾く行き、助けて文華殿に登らせ、まず東宮の位に即かせ、群臣が叩頭して万歳を呼んだ。事がやや定まっても選侍はなお乾清に戻れと促した。
- 当時、選侍は乾清宮に居た。一燝は、乾清には居られない、殿下はしばらく慈慶に居られるべきだと言い、皇長子は心中選侍を憚っていたのでこれに従った。一燝は安に、主上は年少で母后が無い、外廷に事があれば私が責めを受ける、宮中の起居は諸公が責めを辞してはならぬ、と言った。
- 翌日、周嘉謨・左光斗が移宮を請う疏を上げた。当時、首輔の從哲はその間で徘徊し、のちには移宮を緩めようとした。一燝は、本朝の政事では、仁聖は嫡母であるから慈慶に移り、慈聖は生母であるから慈寧に移った。今は何の日だ、しばらく緩めてよいものか、と言った。初五日、同官とともに即日旨を降すよう請い、宮門に立ち尽くして待ったので、選侍はやむを得ず噦鸞宮に移り、天子は乾清に還って事はようやく大いに定まった。
当国と施政
- 帝が即位した後、從哲が弾劾されて休暇に入り、一燝がついに国政に当たり、爌と甚だ仲がよかった。内廷ではただ王安だけが力めて新天子を衛ったと考え、引いてともに事に当たらせた。安も心を傾けて向かい、奏請することはみな従われた。内帑を発し、近倖を抑え、遺逸を捜し、旧徳・宿齢の士が九列に満ち、中外は欣々として治を望んだ。
- 翌年、天啟と改元。瀋陽が失われ、廷臣の多くが熊廷弼の再起用を請うた。一燝もまた、廷弼は遼を守って一年、荒れた辺境が安らかであったのに、なぜ剪除されたのか分からない、廷議に下したときも皆が畏懼して異論を言わなかった、今後は軍国の大事は陛下が毅然と主持され、諸臣に心を洗い慮を滌って雷同附和をことごとく破り、ともに憂国奉公させられたい、と言った。帝は優旨で褒め答えた。ついで、以前に廷弼を排斥した姚宗文らの官をことごとく謫する詔があり、言路は多く一燝を怨んだ。
- 一燝はかつて、天下の事に任ずるのは六官だけである、言路が張れば六官に実政が無い、天下をよく治める者は六官に事を任せて言路にその過ちを正させ、言官が事を陳べれば政府にその是非を裁かせる、そうすれば天下は治まる、と言った。そこで一切の条奏をことごとく部議に下し、道理に外れたものは詔して却下した。
賈繼春と盗奄の獄
- はじめ選侍が移宮しようとしたとき、その内豎の李進忠・劉朝・田詔らが内府の秘蔵を盗み、乾清門を過ぎるとき倒れて金宝が地に落ちた。帝は怒ってことごとく法司に下し、取り調べを甚だ急がせた。群奄は懼れて流言を構え、帝が先朝の妃嬪に薄いので選侍は移宮の日に跣で井に身を投げようとした、などと言って外廷を揺り惑わせた。御史の賈繼春がそこで「選侍を安んずるの書」を上げ、刑部尚書の黄克纉・給事中の李春曄・御史の王業浩らがその辞を誇張して盗んだ奄の罪を脱がせようとした。帝は繼春の妄言を憎み、かつ党があるのを疑って厳しく譴めようとした。一燝は、天子が新たに即位していきなり臣下の朋党を疑えば、他日、奸人がその隙に乗じて士大夫は必ずその禍いを受けると考え、疏を具して帝の意を開き、繼春のために弁解して、朋党には実が無いと繰り返し言った。繼春は削籍で済んだ。御史の張慎言・高𢎞圗が繼春を救う疏を上げ、帝は併せて罪しようとしたが、これも一燝の言でやめた。
- 帝は選侍を甚だ憾み、必ず盗んだ奄を誅そうとした。王安が司禮であったのもこれを憎み、諸奄は百方手を尽くして救ったが叶わなかった。久しくして帝は次第に前の事を忘れ、安も魏忠賢に排されて死んだので、諸奄は厚く忠賢に賄って地歩を作り、上疏して冤を弁じた。帝は果たして朝・詔の死を免じ、その疏を法司に下した。一燝は執奏して、詔らは誅と議されて久しく、雪ぐべきものは無い、疏を直ちに部に下すのは前例に無い制である、と言った。帝はやむを得ずその疏を閣に下した。一燝はまた、この疏は外は通政司を経ず内は會極門を経ておらず、例として旨を擬すべきでない、謹んで原疏を封じ返す、と言った。これにより忠賢らは大いに恨み、朝らもついに死を免れていよいよ任用された。
- 定陵の工が成り、忠賢はこれを自分の功にしようとしたが、一燝は故事を引いて、内臣は司禮掌印および陵工の提督でなければ濫りに廕を得られぬとし、加恩三等にとどめる擬案を出した。諸言官が客氏を論じて謫された者を、一燝はみな疏で救い、また客氏を外へ出すよう請うた。
弾劾を受けて致仕
- 言官が交々沈㴶を論じたとき、㴶は一燝が主導したと疑い、忠賢・客氏らと結んで一燝を齮んだ。一燝は大体を持して言路の意に阿らなかったので、言路はかなり怨んだ。また魏・客らが次第に権を用いるのを密かに窺い、一燝の勢いは孤立した。
- この年四月、候補御史の劉重慶が力めて一燝は用いるべきでないと詆った。帝は怒って重慶を謫し、一燝は再三救いを論じたが聴かれなかった。職方郎中の余大成・御史の安伸・給事中の韋蕃・霍維華が交々一燝を弾劾したが帝は問わなかった。ついで維華が外へ転じると、その同官の孫杰は一燝が嘉謨に頼んでそうさせたと疑い、上疏して力めて一燝を攻めた。一燝は疏で弁じて罷免を求め、帝は慰留した。給事中の侯震暘・御史の陳九疇がまた弾劾し、あわせて王安と結んだことを刺した。こうして一燝は四度疏して帰郷を乞い、忠賢が中で主導して旨を伝えその辞去を許した。
- これより先、從哲はしばしば一燝を首輔と称したが、一燝は敢えて受けず、位を空けて葉向高を待った。向高が着任すると讒言が入り、一燝が自分を阻んだと言われた。ここに至って向高は他意が無いと知り、力めて一燝には翼衛の功があり去らせるべきでないと称し、帝はまた慰留したが、一燝は堅く臥して起きなかった。二年(1622年)正月、疏十二上に至ってようやく伝馬で帰らせた。
- 帰った後、兵部尚書の張鶴鳴が奸細の杜茂・劉一巘の獄を起こし、一巘を一燝の一族だとして株連しようとした。刑部尚書の王紀が承知せず、そのため斥けられて去ったが、一燝は潔白を明らかにできた。鶴鳴は一燝がかつて推挙した者であった。
- ついで忠賢の勢いが熾んになり、旨を偽って一燝が廷弼を誤用したと責め、官を削り誥命を追奪して馬を飼うことを強いた。崇禎改元、詔して官を復し官を遣って存問した。一燝は在位中に少傅・太子太傅・吏部尚書・中極殿大學士を累加された。八年(1635年)卒。少師を贈られ、福王の時に文端と追諡された。
劉一焜――浙江巡撫
- 一焜は字を元丙といい、萬厯二十年(1592年)の進士。行人を授かり考功郎中を歴任、侍郎の楊時喬を佐けて京察を掌り、執政の私人をことごとく斥けた。ついで文選に改まり太常少卿に遷ったが、喪により去った。久しくして故官から右僉都御史に抜擢され浙江を巡撫した。
- 帝が中官の曹奉を遣って普陀山に鎮海寺を建てさせたとき、一焜は巡按の李邦華とともに不可と争ったが聴かれなかった。織造中官の劉成が卒したので、一焜はたびたび疏して後任を遣らぬよう請い既に許されていたが、中官の呂貴に成の遺装を護送させる命が出たところ、奸人が貴を留めて織造を督させるよう請い、その疏が直ちに禁中に達した。一焜は邦華とともに極力その罪を論じたが、帝はついに貴を代えるよう命じた。一焜がまた疏して争ったが返答なし。貴は着任すると十事を条行し多くは侵擾であった。一焜は疏で駁し、かつその爪牙を禁じ治めたので、貴は威を斂めた。
- 一焜は暇に龕山の海塘千二百丈を築き、餘杭の南湖を浚え復して、民はその利に頼った。御史の沈珣がその贓私を誣って訐り、一焜は自ら退いた。卒して工部右侍郎を贈られた。一煜は兵部郎中。