明史卷二百四十 列傳第一百二十八 葉向高

葉向高(字は進卿、–六十九歳)は福清の人。萬厯十一年の進士で、三十五年に入閣し、朱賡・李廷機が去った後は七年にわたって独り宰相の任に当たった。政務に倦んだ神宗のもと、欠員の補充、鉱税の廃止、東宮の講筵の再開、福王の就国を繰り返し争い、王曰乾の告発が鄭貴妃・福王に及んだ際には事を静かに収めて宮中の危機を鎮めた。萬厯四十二年に致仕したが、光宗・熹宗に召されて天啟元年に再び首輔となる。魏忠賢と客氏の専横のなか、章允儒・陳良訓ら被弾圧者を幾度も救ったが、汪文言の獄を境に東林の禍が始まり、天啟四年、二十余度の辞意を経て帰郷した。東林を庇ったことから党魁と目され、崇禎初に太師を贈られ文忠と諡された。

年表(10件)

篇首の立伝者一覧

  • 葉向高
  • 劉一燝(兄 一焜・一煜)
  • 韓爌
  • 朱國祚(朱國禎)
  • 何宗彦
  • 孫如游(孫嘉績)

出自と初任

  • 葉向高は字を進卿といい、福清の人。父の朝榮は飬利知州。向高は母が身ごもったばかりの頃、倭の難を避ける途中、道端の壊れた厠の中で生まれた。幾度も死にかけたが、そのたびに神が助けたのだという。
  • 萬厯十一年(1583年)の進士。庶吉士を授かり編修に進み、南京國子司業に遷り、左中允に改まってなお司業の事を執った。二十六年(1598年)召されて左庶子となり、皇長子侍班官を兼ねた。
  • 鉱税が横行したので、向高は上疏して後漢が西邸で銭を集めた故事を鑑とせよと説いたが返答は無かった。ほどなく南京禮部右侍郎に抜擢。久しくして吏部に改まり、再び鉱税の害を陳べ、また遼東の税監の高淮を罷めるよう請うた。言葉はいずれも切実であった。妖書の獄が起こると沈一貫に書を送って力めて諫めたが、一貫は喜ばず、そのため南京に九年滞った。

独相となる

  • のち一貫が罷められ沈鯉も去って、朱賡ひとりが国政に当たった。帝は閣臣を増やすよう命じ、三十五年(1607年)五月、向高を禮部尚書兼東閣大學士に抜擢し、王錫爵・于慎行・李廷機とあわせて任じた。十一月に向高が入朝したときには慎行は既に卒し、錫爵は堅く辞して出仕しなかった。翌年、首輔の賡も卒し、次輔の廷機は人の批評により長く門を閉じていたので、向高はついに独り宰相となった。
  • 当時、帝は在位が久しく政務に倦み、朝廷の事は多く廃れ弛み、高官の役所が空になることもあり、士大夫の推挙・転任の命はしばしば下されず、上下は甚だしく隔たって、廷臣の党派の勢いが次第に成った。中官の榷税・開礦は大いに民の害となり、帝はまた鄭貴妃を寵愛して福王を国に就かせようとしなかった。向高は宿望をもって相位にあり、国を憂え公に奉じ、事あるごとに争って忠を尽くした。帝は心中向高を重んじて待遇は厚かったが、その言はおおむね阻まれて用いられず、救い正せたのは十のうち二、三に過ぎなかった。

東宮の講筵と貴妃の喪

  • 東宮の講筵が中断して五年、廷臣がたびたび請うても命が下りなかった。三十七年(1609年)二月、向高が吉日を択んで請うたがこれも返答なし。以後、毎年春秋に必ず懇請したが帝はいずれも納れなかった。
  • 貴妃の王氏は太子の生母であるが、薨じて四日経っても発喪しなかった。向高が言上してようやく発喪した。礼官が儀注を上げても五日経って行われず、向高がまた争ってようやく疏が下った。

福王の就国をめぐる争い

  • 福王の府第が完成し、工部が就国を請うた。向高が旨を擬して上げたが帝は発せず、翌春に改めた。期日が迫ると向高は先に儀衛・舟車を整えるよう請うたが帝は納れなかった。
  • 四十一年(1613年)春、廷臣が交々章を上げて請い、また諭して翌春に改めた。ところが忽ち、荘田が四万頃でなければ行かぬとの旨が伝えられ、廷臣は大いに駭いた。向高は進言した。四万頃の田は必ず足りず、就国の日は無くなる。明旨もまた天下に信を失う。王の疏は祖制を引くが祖制にそのような事は無い。かつて世宗の時に景王の例があっただけで、景王は久しく国に就かず、皇考は裕邸にあって危疑不安であった。これがどうして倣うべきことか、と。帝は、荘田には成例がある、今は大分(名分)が既に定まっている、何を疑うのか、と答えた。
  • 向高は疏で謝しつつ言った。皇考の時は名位こそ正されていなかったが講読は絶えず情意は通じていた。今、東宮は講を輟めて八年、久しく天顔を拝しておらず、福王は三日に二度も拝謁している。それでは疑いが生じないわけがない。ただ明春の期を堅く守り、荘田を口実にしなければ、天下の疑いは自ずと解ける、と。帝は、福王が三日に二度会うようなことは無い、と答えた。

王曰乾の告発を鎮める

  • 向高は裁断があり大事をよく処理した。錦衣百户の王曰乾は京師の奸人で、孔學・趙宗舜・趙聖らと互いに訐り告げ合った。刑官の審理が終わらぬうちに曰乾は皇城に入って礮を放ち上疏した。刑官は大いに驚いて曰乾を死罪に擬そうとした。曰乾はそこで、鄭妃の内侍の姜嚴山が學らおよび妖人の王三詔とともに厭勝の術で皇太后・皇太子を呪い殺し福王を擁立しようとしている、と訐奏した。
  • 帝は震怒し、殿を巡り歩くこと半日、「これは大変事だ。宰相はなぜ何も言わぬのか」と言った。内侍はすぐ跪いて向高の奏を差し上げた。奏に言う。この事は往年の妖書に酷似しているが、妖書は匿名で詰め難かったのに対し、今は当事者双方が揃っており一度訊けば実情が知れる。陛下は静かに処理されるべきで、少しでも事を大きくすれば中外は大いに騒ぐ。その言葉が貴妃・福王に及んでいるのはとりわけ痛恨であり、臣と九卿の見るところは同じである、と。帝は読み終えて嘆息し、「わが父子兄弟は全うされた」と言った。
  • 翌日、向高はまた言った。曰乾の疏は公にすべきでない。公にすれば上は聖母を驚かせ下は東宮を驚かせ、貴妃・福王もみな不安になる。留め置いて別に法司に諸奸人の罪を治めさせ、あわせて速やかに明春の就国の期を定めて衆口を鎮めれば、天下は落ち着いて事無く済む、と。帝はその言をすべて用い、太子と福王は互いに安んじた。
  • 貴妃はなお福王を国に就かせたくなく、翌年冬は太后の七十の寿だから王を留めて慶賀させるべきだと言った。帝は内閣に諭を宣べさせたが、向高は上諭を留めて宣べず、今冬に諭を出して慶寿の礼を行い期日どおり就国させるよう請うた。帝は中使を向高の私邸に遣ってどうしても前の諭を下させようとした。向高は言った。外廷では陛下が賀寿にかこつけて福王を留めようとしていると噂され、千人ほどが闕に伏して請おうとしている。今この諭が本当に出れば人情はいよいよ疑い駭き、王曰乾の妖言を信じて朝廷は必ず静まらない。聖母が聞かれてもきっと喜ばれまい。しかも潞王は聖母の愛子でありながら外藩に居られる。なぜ福王にのみ拘られるのか、と。そして手諭を封じ返した。帝はやむを得ず従い、福王はついに国に就いた。

天下必乱の上疏と再三の辞職

  • 向高はかつて上疏して、今、天下が必ず乱れ必ず危うくなる道には数端あり、災傷・寇盗・物怪・人妖はその中に入らない、と言った。廊廟が空虚なのが一、上下が塞がっているのが二、士大夫が勝ちを好み争いを喜ぶのが三、多く蓄え厚く積めば必ず悖り出る禍いがあるのが四、風聲と気習が日ごとに下って挽回できないのが五。陛下が奮然として振い立ち、老成の士を任用して朝署に配し、積年の廃れ弛んだ政事を一挙に新たにされなければ、社稷の憂いは敵国外患ではなく廟堂の上にあることになろう、と。その言は極めて痛切で、帝はその忠愛を知りながら行うことができなかった。
  • はじめ向高は入閣して間もなく用人・理財の策を陳べ、力めて欠員の補充と鉱税の廃止を請うたが、帝が従えないのを見て上下乖離の病を陳べ、二度疏して罷免を乞うたが帝は許さなかった。独相となるとすぐ閣臣の増員を請うたが帝は聴かず、吏部尚書の孫丕揚が賢を薦めて用いられぬので去ろうとしたとき、向高は特に疏して留任を請うたがこれも返答なし。そこで病と称し、たびたび諭されてようやく出仕した。
  • のちまた言った。臣はたびたび去るを求め、そのたび恩諭で留められる。しかし問題は臣一身の去留ではなく国家の治乱である。今、天下は至る所で災傷と死亡があり、畿輔・中州・齊魯では流民が道に満ちている。加えて中外は空虚、人材は尽き果てた。罪は他人にはない、臣がどうして去らずにおれよう。しかも陛下が臣を用いられるならその言を行われるべきである。今、章奏は下されず大官は補われず、廃された者は起用されない。臣の微かな誠が上に達しないのに、留まって何の益があろう。まことに臣の言を用いられるなら、臣の身を縛らずとも、臣が朝露に先んじて消えても余りある幸いである、と。帝は省みなかった。
  • 京師が大水となり四方から水旱の奏が多かったとき、向高はまた言った。閣臣から九卿・台省・曹署に至るまでみな空で、南都の九卿も二人しか残っていない。天下の方面の大吏は去年の秋から今まで一人も任用されていない。陛下が万事を処理されず、天下がずっとこのままでよいとお考えなら、臣は禍いの端が一たび発したら収拾できなくなることを恐れる、と。帝もまた省みなかった。
  • 四十年(1612年)春、向高は、歴代の帝王で在位四十年以上の者は三代から今日まで十君しかないとして、帝に新政の力行を勧め、あわせて用人・行政を請うたが、これも返答なし。
  • 向高は志が行われず、去るを求めない月が無かった。帝はその都度優詔で勉め留めた。向高はまた言った。臣の進退は問わずともよいが、百僚をことごとく空にしてはならず、台諫をことごとく廃してはならず、諸方の巡按は交代させぬわけにいかない。中外は離心し、輦轂・肘腋の間にも怨みの声が満ち、禍いの機は測り難い。それなのに陛下はもっぱら臣下と隔絶され、帷幄はその忠を通せず、六曹はその職を挙げられず、天下に一人も信じられる者がいないのに、自ら神明の妙用と思っておられる。臣は、古の聖帝明王にこのような法は無かったと恐れる、と。
  • これより先、向高が病んだとき閣中に人がおらず、章奏をその家で票擬すること一か月に及んだ。ここに至って向高が長く臥せることが続き、前と同じく家で票擬したので、論者は体をなさぬとした。向高も自ら非として堅く辞去を乞うたが、帝はついに他の相を命じず、鴻臚官を遣って慰留し、帝の万寿節に至ってようやく出仕した。その後、向高は癸丑(四十一年、1613年)の会試を主宰したが、章奏はみな試験場の中へ送られた。とりわけ異例なことであった。

言路の紛糾と致仕

  • 帝が科道を七十余人考選したが命が久しく下らず、向高が数十疏で懇請して二年越しにようやく下った。言官が多くなると攻撃が紛々と起こり、帝は心中これを厭ってその章はことごとく留中された。向高はすべて所司に付して去留を定めるよう請い、あわせて言った。大臣は小臣の綱である。今、六卿は趙煥ひとり、都御史は十年も補われず、抑える者がいないのに人心をどうして収められよう、と。帝はただ言官の妄言を責めるだけで、大官はついに補われなかった。
  • 向高は閣臣の増置を請い、章は百余上に至って、帝はようやく方從哲・吴道南を用いた。向高は疏して謝し、あわせて引退を願ったが優詔で許されなかった。四十二年(1614年)二月、皇太后が崩じ、三月に福王が国に就いた。向高は帰郷を乞う章がいよいよ数を重ね、十余上に至って八月にその辞去が許された。
  • 向高は三年の考績で太子太保・文淵閣大學士に進み、延綏の戦功を叙して少保兼太子太保を加え、户部尚書・武英殿に改まった。一品三載の満期で少傅兼太子太傅を加え、户部尚書・建極殿に改まった。ここに至って少師兼太子太師を加え、白金百・彩幣四表裏・大紅坐蟒一襲を賜り、行人を遣って護送して帰らせた。

党論の激化

  • 向高は相位にあって群情を調停し異同を和らげることに努めたが、当時すでに党論が大いに起こっていた。御史の鄭繼芳が力めて給事中の王元翰を攻め、左右の者が両人を争わせた。向高は諸疏をすべて下して部院に曲直を評させ、議論の顛倒した一、二人を罰して他を戒めるよう請うたが、帝は返答しなかった。諸臣は決着が見えないのでいよいよ党を樹てて攻め合った。
  • まもなく李三才の事で争い、党の勢いが成った。無錫の顧憲成は郷里にあって東林書院で講学し、朝士は争って交わりを慕った。三才が攻められると憲成は向高と尚書の孫丕揚に書を送ってその賢を訴えた。折しも辛亥(三十九年、1611年)の京察で、三才を攻めた劉國縉が他の過失で察典に掛かり、喬應甲もまた年例で外に出されたので、その党は大いに騒いだ。向高が大体をもって処したので察典は撓められずに済んだが、両党の争いはついに解けなくなった。
  • のち齊・楚・浙の党人が東林を攻めてほぼ尽くし、次第に天啟の時に至って王紹徽らが「東林㸃将錄」を作り、魏忠賢に氏名を照らして朝士を逐わせた。向高はかつて東林を右けたので党魁と目された。

再入閣と魏忠賢

  • 向高が帰って六年、光宗が立つと特に詔して召し還した。まもなく熹宗が立ち、また敕を賜って促した。たびたび辞したが許されず、天啟元年(1621年)十月に還朝して再び首輔となった。
  • 向高は言った。臣は皇祖にお仕えして八年、章奏は必ず臣に下して票擬させ、上意で行いたいことも中使を遣って伝諭された。不可の事があれば臣が力争し、皇祖は必ず曲げて聴かれ、中から一つの旨も出そうとされなかった。陛下は虚懐で恭しく身を持し輔臣を信任されているが、時に宣伝があって疑議を生む。綸音は慎重にし、すべて臣らに票擬させて帝が復旨されるべきである、と。帝は報聞した。ついで向高の請いを納れて帑金二百万を発し、東西の用兵の需とした。
  • 熹宗の初政は群賢が朝に満ち、天下は欣々として治を望んだ。しかし帝はもともと年少で忠佞を弁ぜず、魏忠賢と客氏が次第に威福を窃み、太監の王安を陥れて殺し、順次、吏部尚書の周嘉謨および言官の倪思輝らを逐い、大學士の劉一燝も力めて去るを求めた。向高は、客氏は出てまた入った、しかるに一燝は顧命の大臣でありながら保姆にも及ばない、これでは人に奥深く知れぬ所で忖度させることになる、その兆しは防ぐべきだ、と言った。忠賢は向高の疏が自分を刺しているのを見て甚だ恨んだ。
  • ついで刑部尚書の王紀が削籍され、禮部尚書の孫慎行・都御史の鄒元標が相次いで攻められて致仕した。向高は争ったが聴かれず、元標とともに罷めることを請うた。帝は聴かず、忠賢はいよいよ向高を恨んだ。

幼主の下での匡救

  • 向高は人となり光明忠厚で徳量があり、善類を扶植するのを好んだ。再び相となって幼主に仕え、神宗の時のように謇直であることはできなかったが、なお幾度も匡い救った。
  • 給事中の章允儒が上供の袍服を減らすよう請い、奄人が帝を怒らせて廷杖を命じたが、向高が二度救解を論じて俸一年を奪うにとどまった。御史の帥衆が宮禁を指弾し、奄人が帝に外へ出すよう請うたが、向高の救いで免れた。給事中の傅櫆が王紀を救って貶謫されようとしたのも、向高の言でわずかに俸を奪われるにとどまった。紀が罷めて去った後、御史の吴甡・王祚昌が薦め、部議で故官のまま召そうとしたところ、忠賢が怒って文選郎を重く譴めようとしたが、向高がまた救って免れた。給事中の陳良訓が疏で権奄を譏ると、忠賢はその疏中の「国運まさに終わらんとす」の語を摘んで詔獄に下し徹底的に糾すよう命じた。向高が去就を賭して争い、俸を奪うだけで済んだ。
  • 熊廷弼・王化貞が死罪と論じられ、言官が帝に速決を勧めたが、向高は法司の覆奏を待つよう請い、帝は従った。天下の布政司・府州県の庫蔵をことごとく京師へ輸送させる旨が出たときは、向高は、郡邑の蔵は既に尽き藩庫にわずかに余りがあるだけである、ことごとく取り上げて、にわかに山東の白蓮教の乱のような事があればどう応じるのか、と言った。帝はいずれも納れなかった。

汪文言の獄と致仕

  • 忠賢は既に黙して向高を恨んでいたが、当時、朝士で忠賢に抗する者は結局向高を頼りにしていた。忠賢はそこで時々細かな事を取り上げて向高を責め困らせ、向高はたびたび去るを求めた。
  • 四年(1624年)四月、給事中の傅櫆が左光斗・魏大中が汪文言と通じて権を招き賄を納れたと弾劾し、文言を詔獄に下すよう命じられた。向高は、文言は内閣で事務を執っており実は臣が具題した、光斗らが文言と交わった事は曖昧だが臣が文言を用いたのは明白である、陛下は臣だけを罪して他は寛くし搢紳の禍いを消されたい、と言い、あわせて力めて速やかな罷免を求めた。当時、忠賢は大いに思うままにしたかったが、正しい人々が朝に満ちているのを憚って隙を窺っていたところ、櫆の疏を得て大いに喜び、これを口実に東林を羅織しようとした。しかし結局は旧臣である向高を憚って光斗らを罪せず、文言だけを罪した。東林の禍いはここから起こった。
  • 六月に至って楊漣が上疏して忠賢の二十四の大罪を弾劾した。向高は事が決裂すると見てこれを甚だ非とした。廷臣が相次いで抗章して数十上に及び、ある者は向高にこの事を下せば勝てると勧めたが、向高は忠賢を除くのは容易でなく、閣臣が中で挽回すればなお大禍を免れられると考え、奏を具して、忠賢は朝廷に勤労し寵待は厚い、盛満は居り難いから事権を解いて私第に帰らせ終始を保全させるべきだ、と称した。忠賢は喜ばず、帝の旨を偽って自分の功勤を叙べること百余言に及んだ。向高は驚いて、これは奄人にできることではない、必ず代作した者がいると言い、探ってみると徐大化であった。
  • 忠賢は憤ってはいたが、外廷の勢いが盛んなのでなお危害を加えなかった。その党に大獄を起こすよう導く者があり、忠賢の意はついに決した。こうして工部郎中の萬燝が忠賢を弾劾して廷杖され、向高が力めて救ったが聴かれず杖の下に死んだ。まもなく御史の林汝翥もまた奄に忤って廷杖を命じられ、汝翥は懼れて遵化の巡撫の所に身を投じた。ある者が汝翥は向高の甥だと言い、群奄がその邸を囲んで大いに騒いだ。
  • 向高は時事はもはや如何ともし難いとし、帰郷を乞うことは既に二十余度に及んでいたが、ここに至って請いはいよいよ強くなった。そこで太傅を加え、行人を遣って護送して帰らせ、給賜は通例より厚くした。ほどなく太傅の辞退を聴し、有司が月に米五石・輿夫八人を給した。
  • 向高が罷め去った後、韓爌・朱國禎が相次いで首輔となったがいずれも久しからずして罷め、政府に居る者はみな小人となり、清流には依るところが無くなった。忠賢はまず漣・光斗らを誣って殺し、次々に自分と異なる朝士を戮辱し貶削して、善類は一掃された。
  • 熹宗が崩じ、向高もこの月に卒した。年六十九。崇禎初、太師を贈られ文忠と諡された。