明史卷二百三十九 列傳第一百二十七 達雲

南川の大捷

  • 達雲は涼州衛の人。勇悍で智略に富む。萬厯中、世職の指揮僉事を嗣ぎ守備に抜擢され、肅州遊擊將軍に進んだ。綽和爾が入犯し、㕘將の楊濬とともに撃ち敗って西寧㕘將に遷った。
  • 永什卜は順義王諳達の甥で部衆が強盛。先に都督同知を授けられ、再び龍虎將軍に進んだ。貢市が宣府にあって守臣の待遇が厚く思うようにできぬと考え、諳達に随って西へ行き活佛を迎え、そのまま青海に拠り、衛拉特・塔布囊とともに毎年西寧の患いとなった。かつて副將の李魁を誘殺したが辺臣は捕らえられず、いよいよ中国を軽んじる心を持った。
  • 二十三年(1595年)九月九日、将士は必ず宴飲していると見て、強い騎兵を率いて南川に直入した。属している番族が偵知して告げ、雲は要害に兵を伏せ、番人に朶爾硖の口外へ回らせて密かにその背後を扼させ、自らは精兵二千を率いて戦った。合戦するや伏兵が突如起こり、寇は首尾相顧みることができず、番人が挟撃して大敗させた。雲は自らその帥一人を馘し、斬首六百八十余級、峡外に逃げた者はさらに番人に殲された。駝馬・武具を数知れず獲て、西陲の戦功第一とされた。馘した巴圗爾罕こそ以前に李魁を殺した者であり、その地は魁の陣亡した処で、時もまた同じ九月であった。これより先、副將の李聨芳が寇に殺され、總兵の尤繼先がその讐を生け捕っていたので、辺の人はこの二事を快とした。
  • 雲は勝った後、寇が必ずまた来ると見て手厚く兵を集めて待った。一か月余り、寇は果たして宰桑・浩爾齊の諸部を連ね、まず番の敕卜爾寨を囲んで官軍を誘った。番は支えきれずに寇に合流し、寇はついに西川に迫った。雲は諸軍を督して康纒溝に営したが、寇は全軍で囲み矢石は雨のようであった。雲は左右に突撃し、辰から申まで数十合を戦い、寇の死傷は数知れなかった。寇は長鎗・鈎杆でもっぱら西寧軍を攻めたが、西寧軍は堅くて破れず、寇はようやく遁れた。数十里追撃して還った。
  • 捷報が届いて帝は大いに喜び、官を遣って郊廟に告げ捷を宣し、大學士の趙志臯以下ことごとく進官。雲は都督同知に抜擢され、本衛世指揮使の廕。
  • 寇は毎年諸番を掠め、番は敵わなければ寇に身を投じたが、寇が敗れて遠く移ると、雲は急ぎ番を招き、生業に復した者七千余戸。永什卜が明沙・上谷を続けて犯し、雲はいずれも撃退した。はじめ南川の捷を奏したとき雲は既に副總兵に進んでいたが、ここに至って總兵として延綏鎮守を命じられ、まもなく甘肅を鎮した。二十六年(1598年)永什卜がまた西寧を犯し㕘將の趙希雲らが陣歿、雲は坐して停俸。

松山の恢復と西陲の名将

  • 甘肅と寧夏の間に松山があり、必圗阿齊圗・宰桑・卓哩克圗らが居てしばしば両鎮の患いとなっていた。巡撫の田樂が恢復を決断し、雲は副將の甘州馬應龍・涼州姜河・永昌王鐡塊らとともに道を分けて襲い、寇は遠く逃げ、その巣をことごとく抜いて地を五百里広げた。雲は功により右都督に進み世指揮僉事の廕。
  • まもなく青海の寇が衆を糾合して河西に分かれて犯したが、五道いずれも備えがあり、首功百七十有奇を献じた。松山を回復してからは辺垣を築き分屯して戍を置いた。功を記録して左都督に進む。
  • 寇はその故巣を慕い、官軍が防備を撤した時に乗じて密かに兵を入れて犯したが、雲は険に拠って迎え撃ち寇は大敗、斬首百六十。雲に太子少保を加えた。寇はいよいよその党を糾合して鎮番を犯し、雲と諸将の葛敕らが大破して斬首三百七十余級。帝は廟に告げて賞を行い、雲の世廕を二秩進めた。寇がまた入犯したが雲は撃退した。
  • 当時、寇は松山を失って賀蘭山の後ろに逃げ拠り、青海の諸部と連なって寇鈔がやまず、伊勒敦達春がとりわけ驕慢であった。三十三年(1605年)、営を連ねて鎮番を犯し、雲は副將の柴國柱を遣って撃たせ、寇は大敗して去った。まもなく青海の寇がまた大挙して入り、将士が道を分けて遮撃し、その長の實嗽を生け捕り、残りは敗れて奔った。三十五年(1607年)功を叙し、雲は勲と廕を増された。この年、松山・青海の二寇がまた兵を連ねて涼州を犯し、雲は紅崖で迎え戦って大いに獲、斬首百三十有奇。
  • 雲は将として先頭に登り陣に突っ込み、至る所で挫けたことがなく、名は西陲を震わせ一時の辺将の第一であった。秋防で軍中に卒し、太子太保を贈られた。子の竒勛は萬厯末に昌平總兵官。

尤繼先――固原・遼東・薊州の鎮守

  • 尤繼先は榆林衛の人。萬厯中、積功して大同副總兵。十八年(1590年)、浩爾齊・宰桑が洮河を犯し副縂兵の李聨芳らが戦死したので、詔して署都督僉事に進め、總兵官として劉承嗣に代わり固原を鎮守させた。
  • 寇は莾剌・揑工の二川に拠って日々番族を蚕食し西寧を擾していたが、官軍が大集し布色圖もまた水泉で敗れたと聞いて、氷が堅いのに乗じて黄河を渡って北へ走り、その党の克伯里・總塔爾ら五百余人を留めて莾剌川の南山に牧させた。南山は即ち石門大山の口で、烏斯藏へ抜ける門戸である。属する番族がことごとく来て告げ、繼先は番族に八百人で前導させ、故總兵の承嗣・遊撃の原進學・吴顯らと七百里を疾駆して南山に直行し、奮撃して大破、斬首百五十有奇、十二人を生け捕った。拜巴爾的は克伯里の甥で以前に聨芳を殺した者であり、ここで捕らえられた。軍が還るとき寇が後を追って撒川に至ったが、備えがあるのを見て夜のうちに走った。他の寇も鎮羌・西寧・石羊を犯したがいずれも敗れ、浩爾齊はついに帳を西海に移した。功を記録して秩を正官に進め世廕一秩を増した。
  • ついで病により帰り、僉中軍府事に起用。二十一年(1593年)冬、遼東總兵官。綽哈の二千騎が韓家路に入り、繼先は諸軍を督して奮撃し寇は去った。再び病と称して帰った。
  • 二十四年(1596年)薊州鎮守に起用。戚繼光が十年鎮守してから、諸部は叛服が定まらぬとはいえ辺の警報はかなり稀で、寇はかつて一度青山口に入ったがすぐ敗れ去った。最後に長安が班・白の二部長を導いて入犯し、石門を通って山海闗を窺い、京東の民はことごとく通州に逃げ入った。繼先が關を出たときには寇は既に掠奪して寧遠を去った後だった。總督の蹇達は繼先が追撃しなかったのを怒った。繼先はちょうど降丁八百人を収容してこれを頼りにしようとしていた。達は上疏して、番族の情は御し難く後の患いを遺すことを恐れる、繼先を別の鎮に移して降丁を随行させるよう請うた。部議では延綏の杜松と任を交替させることとしたが、巡撫の劉四科が異を唱えた。達はまた上疏して、辺を守るのは自ら強くあることにある、繼先はひとり降丁に頼ると言うが、昨年關を出たときなぜついに降丁の力を得られなかったのか、羽書はしきりに至り辺の隘路の虚実は久しく窺われている、一呼吸の間に変が生じたらどこに手を打てるのか、と言った。兵科の宋一韓らが力めて達の議を主張し、あわせて繼先の他の件を弾劾したので、繼先は罷められ家で卒した。繼先は片目が眇で、兵に習熟し敢えて戦い、当時「独目将軍」と称された。