明史卷二百三十九 列傳第一百二十七 蕭如薫

寧夏の乱と平虜城の死守

  • 蕭如薰は字を季馨といい、延安衛の人。萬厯中、世廕の百户から寧夏参將を歴任し平虜城を守った。
  • 二十年(1592年)春、巴拜・劉東晹が寧夏鎮城に拠って叛き、その党を四方に出して地を掠めさせた。巴拜の子の承恩が玉泉營を巡り、逰撃の𫝊桓は拒み守ったが配下に捕らえられた。賊は既に中衛を巡り、廣武参將の熊國臣らは城を棄てて奔り、列城はみな風に靡くように従った。賊党の土文秀が平虜を巡ったが、ひとり如薰が堅守して落ちなかった。
  • 如薰の妻の楊氏はもと尚書の楊兆の女で、賢く智があり、夫を助けて死守し、日々牛と酒を用意して士を犒った。巴拜の養子の雲は最も驍勇で、河套の卓哩克圗を引き入れて急攻した。如薰は南闗に伏兵を置き、偽って敗れて賊を誘い入れ、雲を射殺した。残兵は敗れ去った。また卓哩克圗の営を襲って人畜を甚だ多く獲た。卓哩克圗は憤ってまた攻めに来たが麻貴に却けられ、城は無事であった。
  • はじめ帝は如薫が孤城で賊に抗したと聞いて大いに喜び、厚く銀幣を賜って副總兵に抜擢した。六月、都督僉事として寧夏總兵となり、延綏・甘肅・固原の諸援軍を統べた。その秋、ついに李如松らとともに賊を平げ、再び署都督同知に進み、錦衣世指揮僉事の廕。妻の楊氏も旌表された。

七鎮の歴任と辺鎮の風俗

  • 二十二年(1594年)八月、布色圗が西して定邉を犯し固原の塞に乱入した。副將の姜直が防げず、沙梁から牆を崩して入り下馬闗に直行し、内地を縦横すること一か月近く。如薫は免官、直は下吏となった。
  • ついで總兵官として固原鎮守に復した。套寇が入犯したのを撃退した。青海の寇が番族を糾合して洮・岷を犯し、如薫と臨洮總兵の孫仁が防いで禽斬三百四十有奇、叛いた番族五千を招撫し、駝馬・甲伏(甲仗)を数知れず獲た。再び寧夏を鎮した。伊勒敦達春がしばしば入犯したが、その都度挫かれて去った。薊州に徙鎮。久しくして罷めて帰った。再び故官として延綏鎮守に起用。
  • 天啟初、廷議で京軍は用に足りぬとし、辺将を召して分営して訓練させ、如薫は神機營を典した。陛見して帝は食を賜り奨労を加えた。翌年、出て徐州を鎮し、にわかに京に召還され、また總兵官として保定を鎮守。五年(1625年)夏、魏忠賢の党が李三才と姻戚であると弾劾して職を奪われた。崇禎初に卒し、制のとおりに恤を賜わった。
  • 如薰は将として持重で、七鎮を歴任していずれの地でも称された。隆慶以後、款市が成って烽燧の警報が少なくなると、都下では鎮帥を外府(財布)と見なし、山人や雑流が朝士の手紙を乞うて訪ねれば欲しいものが手に入らぬことはなかった。薊鎮の戚繼光は詩に巧みで名があり、とくに文士を招くのを好み、資を傾けて交わりを結び、軍府から費用を賄った。如薰もまた詩を能くしたので士が鶩のように趨り、賓客の座は常に満ちた。妻の楊氏、継妻の南氏はいずれも貴家の女であったが、簪や耳飾りを外して客に供してもなお足りず、軍中はこれに苦しんだが、如薫は却けることができなかった。一時の流行の尚ぶところで、諸辺の物力はそのために耗り、識者は歎じた。
  • 如薫の祖の漢は涼州副總兵・都督僉事、父の文奎は京營副將・都督同知、兄の如蘭は陕西副總兵・都督僉事・前府僉書、如蕙は寧夏總兵官・都督同知、如芷は提督南京教場・都督僉事。