明史卷二百三十九 列傳第一百二十七 杜桐

杜桐(字は来儀)は崑山の出で延安衛に移った将。世廕によって清水營守備から起こり、謀と勇で知られて萬厯十四年に延綏總兵官となった。萬厯十九年、賞を強要して内地侵入を号した圗們らに対し三道から兵を出して大破し、四百七十余級を斬ったが、これによって二十年静穏だった延綏の兵端が再び開いた。保定・延綏・寧夏を歴鎮して套の諸部を連破し、その招撫と貢市の回復に道をつけた。偏裨から大帥に至るまで首功千八百を積み、当時その勇に服された。弟の松は薩爾滸に戦死し、子の文煥、孫の𢎞域もまた總兵官となった。

年表(5件)

出自と延綏總兵

  • 杜桐は字を来儀といい、崑山の人で延安衛に移った。萬厯初、世廕により清水營守備を累官、謀と勇で知られた。延綏衛逰撃將軍に遷り、ついで古北口叅將に改まる。總督の梁夢龍の推薦で延綏副總兵に抜擢。十四年(1586年)その地で署都督僉事・總兵官を拝した。
  • 当時、布色圗が都督同知として套中の主であったが威令は行われず、その配下はそれぞれ雄長して心中は測り難かった。朔漠にはもと痘症が無かったが、嘉靖庚戌(1550年)に石州へ深入りしてこの症に染まり、罹った者はみな死んだ。達爾罕は布色圗の祖の濟農の部落で、しばしば命を奉じて貢を献じ指揮同知を累官したが、ある日互市から帰って托充托台吉らとともに痘に染まって死んだ。托克托の子の阿津は、款を疑った吏がその父を毒殺したのだと思って乱を思った。布色圖が西へ行って浩爾齊を助け、ともに河西を擾すに及んで、諸部はついに蠢動した。
  • 十九年(1591年)冬、達爾罕の子の圗們が他部の明安と互市を終えてまた辺に臨んで賞を要求し、内地を犯すと号した。桐は巡撫の賈仁元と計って先に出兵して襲うこととし、参將の張剛を神木から、逰撃の李紹祖を孤山から、桐自身は軽騎を率いて榆林から、三道並び出て寇に遭い力戦して大破、斬首四百七十余級、明安を馘して還った。延綏は濟農が款を納めてから塞上で二十年肩を休めていたが、これより兵端が再び開いた。明安の子の巴延台は日々報復を思い、寇鈔はやむ時が無くなった。
  • 桐は先に弾劾されて罷められていたが、この役の功で右都督に超授され後府を僉書。二十一年(1593年)總兵官として保定を鎮し、二十四年(1596年)延綏に徙り、翌年また寧夏に徙鎮した。卓哩克圗・宰桑が入犯し、水塘溝で迎え戦って俘斬百二十。寇はいよいよ諸部を糾合して平虜・興武を続けて犯したが、桐は諸将の馬孔英・鄧鳳・蕭如蕙らを督して連破し、斬首二百余級。延綏の将士もしばしば巣を突いたので、諸部長は懼れて款を乞い、その言葉は甚だ哀れであった。三十年(1602年)、二鎮の撫臣である孫維城・黄嘉善が協議して招撫し、貢市が復した。功を論じて文臣は内閣以下ことごとく進官したが、桐は先に職を去っていたので銀幣を賜り再用を許されただけであった。久しくして家で卒。桐は偏裨から大帥に至るまで首功千八百を積み、当時その勇に服した。

杜松――寧夏・延綏での勇戦

  • 弟の松は字を来清といい、胆力と智があり勇健絶倫。舎人から従軍し累功して寧夏守備。萬厯二十二年(1594年)、布色圗が張春井を掠め下馬闗に大挙侵入した。松は逰撃の史見・李經とともに二千余騎で馬蓮井に迎え撃って小勝したが、誤って伏兵の中に入り、見は戦死、松と經はともに重傷、士卒の死者は半ばを過ぎた。麻貴の援軍が至り、松はまた傷を包んで力戦し、寇はようやく敗走した。当時、松は既に逰撃將軍に進んでいた。功を論じて延綏参將に遷る。貴が大挙して巣を突いたとき、松は右軍として清平塞から出て多く斬獲し、副總兵に進んだ。ついで本官のまま寧夏東路に改まった。
  • 松は将として廉であったが気を尚び物事を容れられず、常に小さな怒りから髪を剃って僧となった。部議はその帰郷を認めた。ついで孤山副總兵に起用。三十三年(1605年)署都督僉事に抜擢され李如樟に代わって延綏を鎮した。翌年、套寇が安邉・懐逺を犯し松が大破。薊州鎮守に改まる。三十六年(1608年)夏、李成梁に代わって遼東を鎮した。十二月、連山驛で敵を破った。

杜松――恭圗誅殺の紛糾と罷免

  • 蘇岱は朶顔長安の子で、狡猾で辺の患いとなり、従父の莽錦とともに薊鎮の河流口に潜入して大いに掠め去り、また黄台吉と結んで喜峰口を犯そうと謀った。松は總督の王象乾の指示を受け、密かに黄台吉の帳を突いて薊の寇を牽制することとし、寧逺中左所から夜に哈流圗へ馳せ、恭圗の部落を掩殺して百四十余級を挙げ、大捷として報告した。副使の馬拯は、恭圗は内属であるから剿すべきではない、彼は復讐するだろうと言い、松と互いに論難した。松は忿って賞を求めることいよいよ急となり、詔してこれを与えた。
  • 恭圗は果たして罪も無く剿されたことを怒り、小岱青がまたしばしば煽ったので、五千騎で大勝堡を攻め陥し、守将の耿尚仁を捕らえて支解し、小凌河に深入して焼き掠めた。逰撃の于守志が山口で遭遇して大敗し千余人が死に、守志も重傷。松は大凌河に駐して敢えて救わず、遼の人は多く松を咎めた。朝議は、松は以前錦州の辺十里に至っただけで塞を出たことはなく、殺したのは塞を守っていた部落で皆縛って殺したもので陣で斬ったのではない、とした。松はいよいよ忿り、撫按の諸臣が馬拯に付和して自分の奇功を害したのだと言い、自ら兵を率いて塞を出て巣を突き前の恥を雪ごうとしたが、得たのはわずか五級、士馬は多く大凌河で失われた。松はますます恥じ憤り、しばしば自ら首を括ろうとし、その鎧胄・武具をことごとく焼いて一切の辺務を顧みなくなった。兵部が奏聞し、松を郷里に帰らせ王威を代えた。松が廃されると、時人は多くその勇を惜しんだが、その失敗を憎んで推挙する者はいなかった。
  • 四十三年(1615年)に至り、河套の寇が大挙して侵入したので、松に軽騎で浩爾齊の営を突かせ、首功二百有奇を挙げて再び叙用された。二年余り、薊遼に事が多く、特に總兵官を設けて山海闗を鎮させ、松を任じた。

杜松――薩爾滸の戦死

  • 四十六年(1618年)、張承廕が戦歿し、詔して松を遼陽に馳せ援けさせた。翌年二月、楊鎬が四路出師を議し、撫順が最も要衝であるとして松に六万の兵で当たらせ、故總兵の趙夢麟・保定總兵の王宣を佐とし、三月二日に二道闗に至って李如栢らとともに進む期とした。
  • 松は勇だが謀が無く、剛愎で気に任せ、二十九日夜に撫順闗を出て日に百余里を馳せ渾河に至った。半ば渡ったところで流れが急で渡りきれなかったが、松は酔ってこれを急がせたので、将士の多くが河に溺れた。松はそのまま前鋒として進み、二つの小砦を続けて克した。松は喜び、三月朔、勢いに乗じて薩爾滸の谷口へ向かった。
  • 当時、大清はちょうど界凡山に城を築いており、山上の役夫一万五千を精騎四百で護っていた。松軍が来たと聞いて精騎はことごとく谷口に伏して待ち、松軍が半ば過ぎたところで伏兵が背後を撃ち、界凡の渡口まで追い、築城の人夫と合して山傍の吉林崖に拠った。翌日、松は大軍を率いて崖を囲み、別に将を遣って薩爾滸山上に営させた。松軍が崖を攻めて戦っているとき、大清は千人を加えて助け、また続けて二旗の兵を界凡に向かわせて援とし、六旗の兵を遣って薩爾滸山の松の別将を攻めさせた。翌日、六旗の兵は大いに戦って薩爾滸山の軍を破り、死者は折り重なった。吉林崖の援けに遣られていた者が山から馳せ下って松軍を撃ち、二旗の兵も真っすぐ進んで挟撃したので、松の兵は大敗し、松と夢麟・宣はみな陣で歿した。屍は山野に横たわり血は溝を成した。大清兵は二十里追撃して碩竒珊に至って還った。当時、車営五百がなお渾河に阻まれていたが松は既に敗れていた。ほどなく馬林・劉綎の両軍も敗れ、ひとり李如柏の一軍だけが遁れ還った。
  • 事が聞こえ、朝議は多く松の軽率な進撃を咎めた。天啟初、少保・左都督を贈り、世廕千户、祠を立て祭を賜わった。宣にも官を贈り祠を立て、世廕は指揮僉事。宣は榆林の人。夢麟は父の岢の伝に見える。

杜文煥――延綏鎮守と套寇の招撫

  • 桐の子の文煥は字を□(底本欠字)武といい、廕叙により延綏遊撃將軍を歴任し、㕘將・副總兵に累進。四十三年(1615年)署都督僉事・寧夏總兵官に抜擢。延綏が寇に襲われると文煥は救援に赴いて大破した。翌年、官秉忠に代わって延綏を鎮した。しばしば安邉・保寧・長樂で寇を敗り、斬首三百有奇。西路の浩爾齊・布延泰は懼れて相率いて降った。
  • 沙津らがしばしば辺を盗んで文煥に敗られ、ついに款を納めた。その後また濟農・明安と合して髙家・栢林に駐し、封王・補賞など十事を辺に要求した。文煥はその営を襲って斬首百五十。浩爾齊の諸部落は刀を集めて誓い、罰九九を献じた。九九とは部落中で罰する駝・馬・牛・羊の数である。
  • のち沙津がまた沙溝に伏兵して都指揮の王國安を誘殺し、孟克什勒を糾合して雙山堡を犯し、また波羅を犯した。文煥が撃破して二十余里追撃した。当時、套寇は十万と号したが、その衆は四十二枝に分かれ、多くて二、三千、少なければ千騎に及ばず、たびたび志を得なかった。沙津はついに濟農・明安・孟克什勒と相次いで款を納め、延綏はやや事が少なくなった。
  • 文煥はまもなく病により帰った。天啟元年(1621年)再び延綏を鎮した。詔して文煥に遼を援けさせたので、文煥は兵を河套に出して巣を突き、かえって寇を招いた。諸部は大いに恨んで固原・慶陽に深入して延安を囲み、必ず文煥を縛ると揚言し、十余日掠めてようやく去った。解職して勘問を待つよう命じられた。
  • 奢崇明が成都を囲み、總督の張我續が文煥を救援に行かせるよう請うたが、着いたときには囲みは既に解けていた。諸軍とともに重慶を回復した。崇明が永寧に遁れると文煥は留まって進まなかった。ついで總理に抜擢されて川・貴・湖廣の軍をすべて統べたが、賊を制しきれぬと見て病と称して去った。延綏の失事に坐して罪せられ辺に戍された。七年(1627年)寧夏鎮守に起用。寧遠・錦州に警報があり、詔して文煥に馳せ援けさせ、まもなく寧逺の分鎮を命じ右都督に進み、關門の守備に調され、ついで病と称して去った。
  • 崇禎元年(1628年)重慶の功を記録して指揮僉事に廕。三年(1630年)陕西で群盗が起こり、五鎮の總兵がみな勤王に赴いたので、總督の楊鶴が文煥に延鎮の事を署させ固原の軍も兼督させるよう請い、たびたび賊を破ったが賊も日々増えた。山西總兵の王國樑が河曲で王嘉允を撃って大敗し、賊がその城に拠ったので、部議で一人の大将を設けて山西・陕西の軍を兼統し協同して討たせることとし、文煥を提督として曹文詔とともに河曲に馳せ、糧道を絶って困らせた。神一元が寧塞を陥して文煥の家が破られたので、文詔を留めて文煥を西へ還らせた。四年(1631年)、御史の吴甡が延川の難民を殺して功を偽ったと弾劾し、給事中の張承詔もまた弾劾して、下獄・褫職。十五年(1642年)總督の楊文岳の薦めで故官のまま賊を討ったが功が無く、また病と称して帰った。

杜𢎞域――寧夏・浙江の鎮守

  • 子の𢎞域は天啟初に延綏副總兵を歴任。七年(1627年)夏、文煥が遼を援けたので總兵官に抜擢されて代わって寧夏を鎮した。資を積んで右都督に至る。崇禎中、池河・浦口の二営を提督し兵を練って賊の南渡を遏め、かなりの功があった。十三年(1640年)浙江に移鎮、ついで病と称して去った。国変の後、文煥父子は原籍の崑山に帰って卒した。