明史卷二百三十九 列傳第一百二十七 張臣

張臣は榆林衛の人。兵卒の列から身を起こし、包囲された上官を単騎で救って名を知られ、隊長から遊撃將軍へと累進した。隆慶元年、薊鎮に大挙侵入した土黙特を諸将が避けるなか独り迎え撃って棒槌崖まで追い、諸将が罪を受けたなかで一人だけ加秩された。のち寧夏・薊鎮・固原・甘肅の四鎮を歴任し、薊鎮では朶顔の長安を服させ、甘肅では套の布色圗を水泉三道溝に破ってその愛女を捕らえた。經畧鄭洛の和議一辺倒を危ぶんで「八難五要」を上書し、辺備の実質的な強化を説いた。塞垣に名を著した一時の良将で、子の承廕は撫順で戦死し、孫の應昌・全昌・徳昌もみな将となった。

年表(4件)
  • 隆慶元年1567年九月、土黙特の薊鎮侵入を独り迎え撃ち、棒槌崖まで追って百十余級を斬る
  • 萬厯五年1577年總兵官として寧夏を鎮守し、諳達の賀蘭通行の求めを拒む
  • 萬厯十一年1583年副總兵として起用されて馬蘭峪に駐し、まもなく薊鎮總兵官となる
  • 萬厯十八年1590年甘肅に移鎮し、水泉三道溝で布色圗を破ってその愛女を捕らえる

篇首の立伝者一覧

  • 張臣(子 承廕、孫 應昌・全昌・徳昌)
  • 董一元(王保)
  • 杜桐(弟 松、孫 文煥・孫 𢎞域)
  • 蕭如薫
  • 達雲(尤繼先)
  • 官秉忠
  • 柴國柱
  • 李懐信

行伍からの立身

  • 張臣は榆林衛の人。兵卒の列から身を起こして隊長となった。敏捷で精悍、堅陣に突っ込むのを好んだ。
  • 千總の劉朋に従って黄甫川を守っていたとき、朋が寇に遭って馬を失い包囲された。臣は単騎で駆けつけて救い、その頭目を射当てて馬を奪い、朋を乗せて帰った。これで名を知られる。
  • まもなく朋の職を継ぎ、跨馬梁・李家溝・髙家堡・田家梁・西紅山でいずれも戦功を挙げ、宣府膳房堡守備に遷った。
  • 寇が大挙して堡を取り囲み、臣を生け捕りにしようとしたことがある。臣は麾下を集め、水を酒に見立てて歓呼し歌い飲んだ。寇はその意図を測りかねて登ってこなかった。臣は夜に包囲を破って出、別の道から帰還した。上官はこれを壮として、延綏入衛遊撃將軍に抜擢した。

薊鎮での戦功

  • 隆慶元年(1567年)九月、土黙特が昌黎・撫寧・樂亭・盧龍に大挙侵入し、騎兵は灤河にまで及んだ。諸将は誰も戦おうとしなかったが、臣ひとりが兵を整えて向かった。遼帥の王治道は「敵は多く我は少ない、行っても利は無い」と止めたが、臣は聞かず、所部の千人を率いて甲を着けたまま馳せ、その喚声は山谷を震わせた。寇が数騎で挑みかかったのを斬り、棒槌崖まで追って百十余級を斬首、崖から墜ちて死傷した者は数知れなかった。事が収まると薊鎮の諸将はみな罪を受けたが、臣だけは功により二級の増秩。
  • まもなく寇が場子嶺に潜入して参將吴昂が殺され、臣がその後任に命じられた。ほどなく副總兵に進んで總督標下の事を領し、薊鎮西協の守備に移った。
  • 萬厯初、秋防の功を記録されて署都督僉事に進む。綽滿が古北口に潜入し、参將苑宗儒が十八盤山まで追って戦死、残兵が包囲された。臣が急ぎ逰撃髙廷禮らとともに救援に馳せ、寇はようやく去った。この件で一秩を削られた。

寧夏・薊鎮の鎮守と諸部への対処

  • 五年(萬厯五年、1577年)春、總兵官として寧夏を鎮守。順義王の諳逹が衛拉特に報復しようとして賀蘭を通る道を求めたが臣は許さなかった。諳達は怒って不遜な言を吐いた。臣は夜のうちに漢渠・唐渠の二渠を決して水道を通れなくし、さらに赤水口に兵を布いた。諳達は山の後ろを回って去った。以後三年、互市で騒ぎを起こす者はいなかった。辺を巡視した給事中が礼が苛烈だと責め、弾劾して罷免させた。
  • 十一年(1583年)、小阿布呼が黑峪闗を犯し、守将の陳文治以下がみな逮捕された。詔により臣を副總兵として起用し馬蘭峪に駐守させた。折しも朶顔の長安がしばしば辺を擾し、薊鎮總兵官の楊四畏が防げなかったので、四畏を保定に移して臣を代わりに据えた。長安はもとより臣を憚り、その従母である圗幹の妻の棟固に関を叩かせて降を乞うたので、撫賞は元のとおりに戻った。
  • 孟克章は諳達の弟の婁巴圗が棄てた妾の葉磋の産で、小阿布呼とともに黒峪闗を犯して歳賞を停止された者である。いったん款を納めた後もまた猖獗となり、無礼な言葉で辺臣に通じ、大必濟に代わりの謝罪をさせた。大必濟は順義王徹辰汗の棄てた妾である。葉沁らはその詐りを見抜き、将士に塞を出させて二十三人を捕らえて獄につなぎ、掠われた人を返せと迫った。孟克章は愛する者五人が俘虜の中にいたので、掠奪した人を返すと約し、自ら関を叩いて旧来の賞を求めた。臣らは大必濟も演武場に召して厳しく譙責し、二人の婦が叩頭して死を請うたので赦した。前後で八十余人が返され、中には数十年拘留されていた者もいた。臣は功により記録され優叙、まもなく署都督同知に進み、召されて左府の事を僉書した。のち出て陕西總兵官となり固原を鎮守。

甘肅鎮守と八難五要の上書

  • 十八年(1590年)春、甘肅に移鎮。浩爾齊が洮河を犯し、布色圗が助けに行こうとしたが、その母が泣いて止めたのに従わず、妻女を連れて出発し、永昌の宋家莊から牆に穴をあけて侵入した。臣は水泉三道溝で迎え撃ち、自ら数人を格殺してその坐纛を奪った。布色圗とその党の綽和爾はともに流矢に中って逃走し、臣も傷を負った。将士の斬級は百を数え、布色圗の愛女と牛馬羊一万八百有奇を生け捕った。布色圗は天を仰いで大いに慟哭し、「痛ましいことだ、我が娘よ。母の言を用いなかったのを悔いる」と言った。以後、巣に帰らず宰桑とともに西海に隠れた。のち宰桑が謝罪し、その母と順義王も代わって取りなしたので、娘を返して套に帰らせた。臣は功により秩が正官に進んだ。
  • 当時、諸部長はきわめて驕慢であったが、經畧の鄭洛はもっぱら和議を主とした。臣はそれでは頼りにならぬとして上書し、八難五要を陳べた。大略は、辺備は薄く兵は寡なく糧餉は不足し寇は驕っており、諸部の順逆は見きわめ難い、定額の兵を復し徴発を厳しくし糧餉を足し敵の勢いを分断し賞罰を明らかにすべきだ、というもの。あわせて傷が重いとして帰郷を乞うたが帝は許さず、二年後に病と称して去った。
  • 臣は四鎮を歴任し、塞垣に名を著した一時の良将であった。

張承廕――延綏・遼東の総兵

  • 子の承廕は父の廕により積功して延綏副總兵に至った。勇にして謀があり、とりわけ騎射に精しく、幾多の激戦で敗れたことがなかった。
  • 萬厯三十七年(1609年)、王威に代わって延綏總兵官。沙津と孟克什勒がしばしば辺を犯した。その年の冬、また波羅・神木を犯したので、承廕は迎え撃って却け、八十余人を追い斬った。沙津が朝貢を修めようとしたが、守臣はその反覆を憎んで拒んだ。沙津はいよいよ辺近くに移り、数千騎で雙山堡を犯したが、承廕が撃退して俘斬百二十有奇。
  • 四十年(1612年)、沙津が再び塞内に入り、承廕は嚮水で遮撃して百七十余級を斬首。前功を積んで署都督同知に進み、世廕は本衛副千户。
  • この年、遼東總兵官の麻貴が罷められ、承廕に馳せて代わるよう敕があった。莽錦の諸部が寧前に迫り、守将の祖大夀が狩りに出て曹莊で包囲され、将士二百三十人が死に、掠われた者六百余人、大夀は数騎で免れた。事が聞こえて死罪と論じられたが、承廕は着任したばかりだったので免れた。烏克らが中後所を犯したので、その二人の頭目を斬り、残りは塞外に逃げた。
  • 当時、呼爾敦圗・綽哈・努圗克・濟賽が遼の境に迫り、辺を犯さぬ年がなかった。承廕の着任前、呼爾敦圗が三万騎で穆家堡を犯し、参將郎名忠らが四十余騎を遏え斬った。再挙のときは守将の梁汝貴がその営を襲い破った。ついで奈曼の諸部が続けて中後所・連山驛を犯し、副總兵の李繼功が力戦してその頭目を斃し、敵は徐々に引き去った。以後、呼爾敦圗に属する古英阿哈ら三十余部はみな約束を守り、遼西はやや安んじた。
  • 承廕はまもなく病で去り、一年余りして薊鎮守備に起用されたが、着任前に遼東鎮に改められた。

張承廕――撫順の敗死

  • 四十六年(1618年)四月、太祖髙皇帝が兵を起こして撫順を抜いた。廵撫の李維翰が承廕に援けを促し、承廕は急ぎ副將頗廷相・参將蒲世芳・逰撃梁汝貴らの諸営をともに発して撫順に宿営した。承廕は山の険に拠って軍を三つに分けて営を立て、濠を浚え火器を並べたが、交鋒するや大清兵に蹴散らされて大潰した。承廕と世芳は戦死。廷相と汝貴はいったん囲みを破って出たが、主将を失ったのを見て陣中に戻って死んだ。将士の死者は一万、生還した者は十に一、二であった。朝廷はこぞって震駭した。
  • ついで撫安・三岔兒・白家衝の三堡が続けて失われ、詔して維翰を逮捕。承廕には少保・左都督を贈り、祠を立てて「精忠」と名づけ、世廕は指揮僉事。廷相以下にも差をつけて贈官と廕が与えられた。
  • 承廕の子は應昌・全昌・徳昌。

張應昌――山西總兵としての功と弾劾

  • 應昌は祖父の臣の職を嗣いで指揮僉事となるはずのところ、父の陣亡により三秩を増して都司僉書となった。經畧の楊鎬が左翼遊撃に用い、四路出師では李如栢に従わせた。天啟元年(1621年)大同井坪参將に遷り、延綏に調された。二年(1622年)秋、河套が侵入したのを防げず免ぜられて帰った。督師の孫承宗が召して麾下に置き錦州に駐屯させたが、承宗が去って髙第が松山・錦州の守備の備えをことごとく撤したので、應昌も帰った。
  • 崇禎二年(1629年)、總督の楊鶴が檄して定邉鎮将の事を署させた。河套が入寇したのを百二十余級撃斬し、昌平副總兵に抜擢。鶴はそこで應昌を薦め、副將として定邉を鎮させた。
  • 四年(1631年)春、神一元が保安を陥した。應昌は左光先とともに一元を破って斬った。その弟の一魁が衆を代わって率いて慶陽を囲んだが、應昌と杜文煥が急行して包囲を解いた。巴扎納が米脂を囲むと、應昌は王承恩とともに撃退した。楊鶴は一魁を招撫して寧塞に置き、その党の茹成名を殺した。賊党の張孟金・黄友才は懼れて一魁を担いで叛いた。延綏巡撫の張福□(底本欠字)が應昌と馬科に討たせ、斬首千七百余級。友才は逃げ、一魁は守って落ちなかった。
  • その冬、洪承疇が鶴に代わり、参政の戴君恩・總兵の曹文詔に應昌とともに討たせ、たびたび賊を破った。賊が城を棄てて走ると、文詔と應昌が駙馬溝で撃破した。翌年春、應昌は友才を捕らえた。混天猴が宜君・鄜州を陥し靖邉を襲うと、應昌が追撃して敗り、賊将の白廣恩を射て傷つけた。八月、山西總兵官の馬士麟が病で免ぜられ、應昌を都督僉事に抜擢して代えた。論者が寧武の兵は逃げやすいから應昌に所部三千人を率いて従わせよと請い、許可された。
  • 王之臣が臨縣を陥した。その地は黄雲山に倚り、榆林河の水がここから出て黄河に入る。城は三面が峭壁、西は水に阻まれている。巡撫の許鼎臣・總督の張宗衡が兵を督して攻めたが、賊は土寇の田福・田科らと結んで久しく落ちなかった。折しも王自用が遼州を陥して會城に迫ったので鼎臣は還り、恢復はもっぱら應昌の責任とされた。六年(1633年)春、賊は田福と示し合わせて官軍を襲おうとしたが、撫標中軍の陳國威が偽ってこれに応じ、之臣が迎えに出たところで福の首を斬って城下に懸け、急撃した。賊はようやく降った。
  • 應昌は關中で威名が高かったが、この頃は臆病で進まず、もっぱら賊を避けるようになった。總督の宗衡が五度も檄を飛ばしても赴かず、朝廷に奏聞して應昌と文詔に三か月で賊を平げよと期限を切らせた。應昌が賊を避けて撃たず良民を殺して功を偽ったことは、廵按御史の李嵩・兵科の祝世美に弾劾された。帝は近侍を遣って應昌の内中軍とした。七月、部下の兵が鳴謙驛で潰え、監視の中官劉允中が賊を避けたと弾劾したが、帝はなお赦して畿南の賊を会同して剿させた。久しくして平山で賊を撃った際に首功を偽って報じ、允中および巡按御史の馮明玠・真定巡撫の周堪賡に続けて弾劾されたが、帝は功を立てて自ら贖わせた。
  • 七年(1634年)春、靈寳で賊を追ってやや功があった。均州の五嶺山で賊を撃って敗れ、身に一矢を受けて河南に退いた。弟の全昌が宣府總兵官で宣府に警報があり、應昌に援けさせたがまた功が無かったので、解職して勘問を待つよう命じられた。
  • 八年(1635年)、洪承疇が河南に出師したとき、私家の士馬を率いて従うよう命じられた。三月に信陽に至る。賊が大挙して秦に入ったので、承疇は應昌と鄧玘・尤翟文に漢江の南北を防がせた。玘が死ぬと、承疇は賊が必ず鳯縣の棧道から畧陽に直入すると見て、應昌と翟文を鄖陽から興安・漢中へ転じさせ、左光先・趙光逺の諸軍と合流させた。六月、艾萬年・曹文詔が相次いで戦死し、賊はこぞって西安に向かった。承疇は急ぎ應昌と光先に還って救えと檄した。八月、李自成が咸陽を陥し、二日後に應昌・光先の兵が至って四百四十余級を撃斬し、軍師一人を捕らえた。全昌の兵が敗れて賊に陥り、その潰卒が關中に戻って沿河の州県を掠めたので、山西巡撫の吴甡が應昌の麾下に収容するよう請うたが、應昌は既に病んで軍を率いることができず、まもなく卒した。

張全昌――宣府總兵と敗北・被執

  • 全昌は廕叙により官を歴任し靈州参將。崇禎四年(1631年)、同官の趙大允とともに中部で㸃燈子を撃ち、郃陽・韓城で連戦して首功が多かった。巡撫の練國事が二将に副將の銜を加えるよう請うた。大允は耀州・富平の間に駐して賊の西路を扼し、全昌は韓城・郃陽の間に駐して東路を扼した。
  • 五年(1632年)七月、應昌に代わって定邉副總兵。曹文詔が隴州・平鳳界で賊を追ったとき、全昌と馬科が千人を率いて呼応し、ほとんど殄滅した。翌年五月、署都督僉事に抜擢され總兵官として宣府を鎮守。應昌はちょうど山西を鎮していたので、兄弟が境を接して大帥となった。
  • 翌年七月、大清兵が察罕を西征して軍を返す途中その境内に入り、龍門・新城・赤城を攻囲し保安州を克して鎮城に迫った。全昌は城に籠って固守した。大清兵が西へ行くと全昌は應州に進兵した。帝はその孤軍を案じて吴襄・尤世威に援けよと敕したが応じなかった。全昌は渾源に至って捷を報じ、葛峪・羊房口に軍を還したが、襄らはまた援けなかった。八月、大清兵が再びその境内に入り、閏八月四日に萬全右衛を克し、他の城堡も多く失われた。厳戒が解けた後、兄の應昌が罪で解職となり、全昌にその軍を併せ率いさせた。兵科の常自裕が、文臣の張宗衡らは重く論じられたのに武臣は軽く赦されるのは法にかなわぬと言い、こうして全昌は文詔とともに辺に戍された。
  • 山西巡撫の吴甡の請により、全昌と文詔を援剿總兵官とし、猛如虎らとともに髙加計を大破した。八年(1635年)春、汝寧で洪承疇と会し汝州の賊を撃ち破った。にわかに西へ關に入り、祖大弼とともに涇陽で賊を破り、ほどなく醴泉で賊を破った。五月、賀人龍とともに秦王嶺で老囘囘を破り、ついで鳳翔の囲みを解き、賊を秦州に走らせて張家川で敗った。ついで都司の田應龍・張應龍が戦死し、艾萬年・曹文詔が相次いで歿して官軍はいよいよ衰えた。賊がこぞって西安に向かうと、承疇は急ぎ全昌と曹變蛟に先んじて渭・華に赴いてその前を遮らせ、自ら軍を督してその後を追い、紅鄉溝で賊を却けた。賊は南して商雒に入った。
  • 承疇はまた全昌と趙光逺に兵三千を率いて潼闗の大峪口を扼させたが、部下の兵が大いに騒ぎ、榮澤に乱入して倉庫を劫し人を殺した。河南巡撫の元黙が急ぎ盧氏を援けよと請うたが聴かず、光逺は擅に關中に帰り、全昌はぐずぐずと頴州に至った。九月中、沈邱の瓦店で蝎子塊を追ったが戦い敗れて捕らえられた。賊はこれを担いで蘄・黄を攻め、全昌は賊のために招撫を求めた。總理の盧象昇は許さず、全昌が師を喪い国を辱めたことを責め、「賊が本当に降りたいのならその党を滅ぼして信を示せ」と言ったが、賊は聴かなかった。久しくして全昌は脱出して帰り、陽和に象昇を訪ねた。象昇は山陕で募兵させ、ついで朝廷に薦めて軍前で功を立てさせるよう令したが帝は許さなかった。十年(1637年)四月、楊嗣昌の言により逮えて法司に付し、辺衛に謫戍された。

張徳昌――保定副總兵

  • 徳昌は崇禎初に清水營守備。三年(1630年)夏、王嘉𦙍を剿して傷を負い、坐して官を奪われた。久しくして起用され保定参將を歴任、土寇の仁義王を連破した。
  • 十四年(1641年)春、總督の楊文岳が虎大威に従って五千人で開封を援けさせたが、敢えて進まなかった。その冬、保定副總兵に抜擢され、なお文岳に従ってたびたび功があった。十六年(1643年)卒。特進榮祿大夫・左都督を贈られた。