明史卷二百三十七 列傳第一百二十五 吴宗堯

出自と陳増との対立

  • 吴宗堯は字を仁叔といい、歙縣の人。萬厯二十三年(1595年)の進士。益都知縣を授けられ、性は剛直であった。
  • 中官の陳増が開鉱のためにやって来て、福山知縣の韋國賢を妨害したと誣奏し、國賢は逮捕・削籍された。守令の多くは節を屈して属吏のように振る舞ったが、宗堯だけは賓主の礼をもって接した。
  • 増の一味の程守訓は宗堯と同郷の子弟であったが、宗堯はその奸を憎んで交わらなかった。驛丞の金子登が増に孟坵山の鉱を開くよう説くと、宗堯はその欺瞞を叱った。子登は恐れて増のもとで讒言し、日に千人を徴発して山を鑿ち、打ち殺される者が多かった。また富民を鉱を盗んだと誣告し、三日で五百人を捕らえ繋いだ。
  • 萬厯二十六年(1598年)九月、宗堯は増の不法をことごとく暴いた。帝は疏を得て心を動かされ、下すのを控えた。ちょうど給事中の包見㨗が増の罪を極論して撤還を請うたので、帝は増を責めて自ら慎ませた。見㨗の同官である郝敬がさらに増の罪を治めるよう請うと、帝は不機嫌になり、宗堯が狂逞にも名を求めていると責めた。
  • やがて山東巡撫の尹應元が、増は㫖に背いて民を虐げた二十の罪があると弾劾すると、帝は怒りを発して應元を厳しく責め、宗堯を削籍した。敬が抗疏して諫めると、帝はさらに怒って一年分の俸を奪い、あわせて應元の俸も奪った。
  • 増はそこで宗堯が鉱務を妨げたと弾劾し、さらに守訓に誣告させた。帝が逮捕・処罰の使者を遣わすと、御史の劉景辰、給事中の侯慶遠が争ったが、聴かれなかった。使者が着くと民は大いに騒いで増を殺そうとし、宗堯が発つときには民の哭声が地を震わせた。
  • 京師に着くと詔獄に下されて拷問され、一年餘り繋がれた。禮部郎の鮑應鰲らが沈一貫に「南康守の吴寳秀はもう窓辺に安居しているのに、宗堯だけがなぜそうでないのか」と言い、一貫が上申するとただちに釈されて庶民となった。まもなく没した。天啟のとき、光祿少卿を贈られ、祭祀を賜り、子一人を録用された。