明史卷二百三十七 列傳第一百二十五 田大益

田大益(字は博真)は四川定遠の人。萬厯年間の兵科・戸科給事中から兵科都給事中に至った諫官で、神宗の鉱税政策に真っ向から反対したことで知られる。萬厯二十八年に「鉱税の六害」を挙げて、内臣の略奪が民を乱へ駆り立てると極論し、湖廣税監陳奉が武昌の民変を招いた際には馮應京を救い、鉱税の即時停止を迫った。さらに闕官の補任、税使王朝・高淮の擅兵を論じ、晩年には皇陵・孝陵・長陵の火災を挙げて君徳の欠失を極言した。性は剛直で危言を重ねながら禍を免れ、太常少卿を添注されて在官のまま没した。

年表(3件)

出自と初期の建言

  • 田大益は字を博真といい、四川定遠の人。萬厯十四年(1586年)の進士。鍾祥知縣を授けられ、兵科給事中に擢せられた。
  • 疏を上げて日本への封貢は危ういと論じ、また東征の役については、将士については今日の斬首の数によって功を論ずべきであり、主帥については後日の成敗を見て議を定めるべきだと述べた。当時、その言は妥当とされた。
  • 母の喪が明けて戸科に補された。

万暦二十八年の上疏と鉱税六害

  • 萬厯二十八年(1600年)十月、疏を上げて言った――陛下は天命を受けて日が久しく、驕慢がこれに乗じ、豺狼を布き列ねて善類を殄滅し、民は身の置き所がなく、怨みを蓄え憤りを含んで、一朝ことが起こるのを窺わぬ者はない。願わくは陛下、はっと目覚められ、天地を敬い祖宗を厳かにし、臣工を軽んじられず、民命を損なわれず、□(底本欠字)人を任じられず、群小を放縦されず、暴虐苛刻を事とされず、怠惰放縦に甘んじられず、急ぎ敗れた轍を改め治の規範に従い、もって祖宗の無窮の業を保たれよ。
  • まもなく鉱税の六害を極論して言った。
  • 一、内臣は上の求めに応じようとして略奪を事とし、鉱は坑でなくてもよく、税は商人でなくてもよいことにしてしまった。民間の丘や畦道もみな鉱であり、官吏も農も工もみな課税の対象である。公私は騒然として脂膏は尽き果て、本来の軍国の正規の貢納がかえって欠損する。有司に刀鋸で威圧させたところで、民を駆り立てて乱を早めるだけである。これが「功を斂れば必ず躓く」ということである。
  • 二、陛下はかつて鉱税の役を国を裕かにし民を愛するものと言われたが、内庫への納入は日々やまぬ一方、軍国の需要をわずかにも助けたことはない。四海の人はいま唇を反して切歯しているのに、小賢しい計略や甘い言葉で天下の耳目を掩おうとしても、それが叶おうか。これが「名が偽りなら必ず敗れる」ということである。
  • 三、財を積んで用いなければ祟りがこれに随う。脱帽の騒ぎがやまねば竿を掲げる(蜂起の)に至り、ちょうど奸雄が窺い狙う元手となる。そのときには家ごとに給し人ごとに与えたところで、もう踏みつけられ覆されて及ばない。これが「賄を聚めれば必ず散る」ということである。
  • 四、そもそも衆心は傷つけてはならぬ。いま天下は、上は簪纓の士から下は耕す夫や賎しい婦に至るまで、辛苦を嘗めて腕を握りしめ目を側めながら訴える所がない、そういう状態がすでに久しい。ひとたび土崩の勢いが成れば、家は讐となり人は敵となり、衆心が声を揃えて唱え、国内はそれによって大いに潰える。これが「怨みが極まれば必ず乱れる」ということである。
  • 五、国家は全盛して二百三十餘年、すでに陽九(厄運)に属しているのに、東に征し西に討って快意を求めている。上は主上の心を蕩かし、下は国の命脈を損なう。二豎(病魔)が固まれば良医も逃げ去り、気が尽きれば大命は傾く。これが「禍が遅ければ必ず大きい」ということである。
  • 六、陛下は矜り奮って自ら賢とし、沈迷して返られず、豪璫・奸弁を腹心とし、金錢珠玉を命脈としておられる。薬石の言は耳を塞いだままである。たとえ比干のごとく心を剖き、皋陶・夔のごとき者が諫めても、その惑いを解けようか。これが「意が迷えば救いがたい」ということである。
  • この六つが今日の大患である。臣が死を畏れて言わなければ陛下に背くことになり、陛下が諫めを拒んで容れられなければ宗社を危うくする。願わくは深く察して力を尽くして改められよ。
  • いずれも返答はなかった。

陳奉の乱と楚の民変

  • 翌年、湖廣税監の陳奉を論じ、僉事の馮應京を救う疏を上げたが、㫖に逆らって厳しく責められた。
  • そのころ武昌の民は應京が逮捕されたことで群れ集まって騒ぎ立て、奉を殺そうとした。奉は楚府(楚王府)に逃げ隠れて難を免れた。
  • 大益はそこで上言した――陛下は狼虎を駆り立てて飛ばせ人を食わせ、天下の人に皮を剥がれ髄を吸われ、足を重ね息を殺す思いをさせ、その結果、天災が起こり地が裂け山が崩れ川が涸れている。釁は上から開き、憤りは怨みから積もったのである。それなのに民の耳目を塗り塞いで自ら言い訳し、「権宜のことだ」と偽られるのはどうしたことか。いま楚の人は奉のゆえに使者を沈めて還さず、しかも巡撫の大臣にまで手をかけようとしている。中朝の使臣は境内に入って緩急を偵察することもできず、二か月を越えた。四方が見聞きしているのはただ楚の人のことばかりである。臣は、陛下は必ずやからりと考えを改め、ただちに鉱税を罷めて四方を鎮められるものと思っていた。それなのになお恋々として断ち切れぬのはどうしたことか。そもそも天下は至って貴く、金玉珠宝は至って賎しい。金玉珠宝を泰山のように積んでも天下の一尺一寸の地も買えぬのに、天下を失ってしまえば金玉珠宝を何に用いるのか。いま四方の万姓は、陛下が楚の事に遭ってもお心を変えぬのを見て、禍は必ず解けぬと知り、必ずや群がり起こって変を成すであろう。そのときには諸璫をことごとく戮して天下に謝しても、何の役に立とうか。
  • 帝は怒り、疏を中に留めた。

闕官・税監との攻防

  • さらに翌年、兵科都給事中に遷った。当時、両京では尚書三人・侍郎十人、科道九十四人が欠け、天下では巡撫三人、布政・按察の監司六十六人、知府二十五人が欠けていた。大益は力を尽くして人選・補任を請うたが、これも聴かれなかった。
  • 三十一年(1603年)、江西税監の潘相が勘合の符牒を郵伝を経ずに扱うことを請い、巡按御史の呉達可がこれに反駁したが聴かれなかった。大益がまた故事を守って力争したが、結局相の請いどおりとなった。
  • 税使の王朝はかつて、京師近郊で石炭を採れば年に銀五千を得られると言い、そこで京營の兵を率いて西山の諸所を略奪した。石炭を扱う民は騒然となったが、朝は妨害されたと報告し、㫖が下って逮捕・処罰されることになった。彼らはみな都城に入って失業の状を訴えた。沈一貫らは急ぎ朝を罷めるよう請い、あわせて撫按に敕諭を出す案を作ったが、まだ命は下りなかった。
  • 大益は、国家の大権は兵より重いものはない、朝は擅に禁軍を動かした、速やかに誅して「将たるまじき者」への戒めとすべきだと述べた。御史の沈正隆、給事中の楊應文・白瑜もまた疏で諫めたが、帝はいずれも容れなかった。まもなく中官の陳永夀の奏を用いて、ようやく朝を召還した。
  • 遼東税監の高淮が精騎数百を擁して都城に至ったとき、大益は、祖宗の制では人臣が兵を弄することは許されぬ、淮はもと掃除の役に属する者なのに兵権を盗み禍心を包んでいる、罪は誅に当たる、と述べたが、帝はやはり問わなかった。

君徳の欠失を極論する

  • 翌年八月、君徳の欠失を極論して言った――陛下はもっぱら財利に志し、私蔵のほかには何も意に留められない。中外の群臣もそれに倣ってなおざりであり、君臣上下、一人として民に思いを致す者がなく、空言で互いを欺いている。人は怨み天は怒り、妖しい気配や変異はことごとく集まっている。ついには皇陵は発祥の祖でありながら災に遭い、孝陵は創業の祖でありながら災に遭い、長陵は鼎を定めた祖でありながらまた災に遭った。天が我が国家を覆そうとしていることは、これほどはっきりしている。
  • 臣が十餘年来を見るに、乱政はしきりに行われて枚挙にいとまがないが、病の源はただ貨利の一念にある。いま聖諭で欠員の官を補い、繋がれた囚を釈された。しかし鉱税を撤せず群小がなお恣に横暴を働き、民間がなお削り取られているなら、百官の働きは実際には難しく、罪の網に絡め取られる者は必ず多い。欠員を補い囚を釈しても、いったい何の益があろうか。
  • 陛下が中年以来、聡明の資質を掩って貪愚暴乱の行いに甘んじておられるのは、ただ家計のためにすぎぬ。家が満ちれば国は必ず喪われることをご存じない。夏の桀は瑶臺で滅び、商の紂は宝玉とともに焼け、幽王・厲王は榮夷公によって戎を招き、桓帝・霊帝は官を売って帝統を絶ち、徳宗は瓊林の庫によって難を招き、道君(徽宗)は花石の綱によって禍の兆しを作った。覆った轍が相次いでいるのは明らかに鑑とすべきである。陛下の近ごろの乱政は六代の末世に劣らない。ひとたび変が生じたら、何によって天下に身を託されるのか。
  • 一か月餘り後、また星の変異に因んで、根本を固め防禦を設け鉱税を罷めるよう乞うたが、帝はいずれも顧みなかった。
  • さらに翌年、在任が長いとして太常少卿を添注され、官にあって没した。
  • 大益は性剛直で、官にあって他に営むところがなく、たびたび危言を進めながらついに禍を免れた。それは当時、帝が政務に倦み、上章する者がいかに千言万語を尽くしても、おおむね棚上げにして読まなかったからである。