明史卷二百三十六 列傳第一百二十四 孫振基

出自と韓敬の科場事件

  • 孫振基は字を肖岡といい、潼關衛の人。萬厯二十九年(1601年)の進士。莘縣知縣に任じられ、繁忙な安邱に移された。
  • 三十六年(1608年)四月、治績によって徴され、李成名ら十七人とともに給事中に授けられるはずであったが、まず禮部主事に任じられ、四十年(1612年)十月になってようやく命が下り、振基は戸科を得た。
  • 当時、吏部は大官を推挙するたびに人材の乏しさに悩んでいたので、振基は廃された者の起用を力説して請うた。
  • 韓敬は歸安の人で、宣城の湯賓尹に学んだ。賓尹が會試の分校となったとき、敬の答案は他の考官に棄てられていたが、賓尹はこれを探し出し、総裁の侍郎蕭雲舉・王圖に強いて第一に採らせた。榜が出ると士論は大いに騒いだ。知貢舉の侍郎呉道南はこれを奏そうとしたが、雲舉・圖が資深であり、前輩を排擠するのを嫌って隠して発しなかった。廷対に及んで賓尹は敬のために手を回し、第一人(状元)を得させた。
  • のちに賓尹は考察で官を褫われ、敬もまた病と称して去った。この事から三年たったころ、進士の鄒之麟が順天郷試の分校となり、採った童學賢との間に私があった。そこで御史の孫居相が賓尹の一件とあわせてこれを発いた。禮部に下して吏部・都察院と会議させたが、賓尹の事には及ばなかった。
  • 振基はそこで抗疏して併せて議するよう請うたが、命は得られなかった。禮部侍郎の翁正春らは學賢を黜け之麟を謫することを議しただけで、やはり賓尹らには及ばなかった。振基は議者が賓尹を庇っているとして、再度の疏で論劾した。帝はそこで廷臣に改めて議させた。御史の王時熙・劉策・馬孟禎もまたその事を論じる疏を上げ、南京給事中の張篤敬がとりわけ力を尽くして立証した。
  • 賓尹が分校であったとき、房を越えて五人を取中し、他の考官もこれに倣って競って探り取り、あわせて十八人に及んだ。当時、賓尹は廃されていたものの朝廷にはその党が多く、これに藉りて敬を寛くしようとした。正春はそこで九卿の趙煥および都給事中の翁憲祥、御史の余懋衡ら六十三人と会議して、敬を「不謹」に坐して落職・閒住とすることを議した。
  • 御史の劉廷元・董元儒・過庭訓は敬と同郷で、敬の節を欠いたことが事実なら罪は「不謹」にとどまらぬと言い、頑として署名せず、引き延ばして敬に有利にしようとした。正春らは従わず、初めの議を持して上奏した。廷元はそこでこれを弾劾する疏を上げた。
  • 公議はいよいよ憤り、振基・居相・篤敬および御史の魏雲中らが連署して論じた。給事中の商周祚もまた敬と同郷で、あわせて道南を罪すべきだと議したので、孟禎は道南が奸を発いたことを罪とするのは当たらぬとして、再度の疏で糾弾・駁論した。帝は結局廷元らの言のとおり、部に敕して改めて調べさせた。廷元の党である亓詩教はそこで正春を「首鼠両端」と弾劾し、正春はまもなく身を引いた。

熊廷弼の勘問をめぐる争いと外任

  • ちょうど熊廷弼の議も起こった。はじめ賓尹が郷里にいたとき、生員の施天徳の妻を奪って妾にしようとし、従わなかったので首を吊って死んだ。諸生の馮應祥・芮永縉らが官に訴え、祠を建てた。賓尹はこれを恥じた。
  • のちに永縉がまた諸生の梅振祥・宣祚の淫らな行状を暴いた。督學御史の熊廷弼はもとより賓尹と親しく、判決の文書で「これは施湯の故智だ」と述べ、賓尹の前の恥を雪ぐことに藉りようとし、また担当官の報告として永縉および應祥の行いが劣ると称して、永縉を杖殺した。
  • 巡按御史の荆養喬はそこで、廷弼は人を殺して人に媚びたと弾劾し、疏を上げるとそのまま辞して帰った。廷弼もまた弁明の疏を上げた。都御史の孫瑋は、養喬の官秩を削り、廷弼には職を解いて取り調べを待たせるよう議した。
  • 当時、南北の台諫の議論はまさに喧しく、それぞれに肩入れする相手があった。振基・孟禎・雲中・策および給事の李成名・麻僖・陳伯友、御史の李邦華・崔爾進・李若星・潘之祥・翟鳳翀・徐良彦らは勘問の議を強く主張し、篤敬および給事中の官應震・姜性・呉亮嗣・梅之煥・亓詩教・趙興邦、御史の黄彦士、南京御史の周逺らはこれに反駁して、疏はおよそ数十上った。振基および諸給事・御史はさらに、廷弼は勘問すべきであり、應震らは党を庇っていると極言し、これより廷弼を庇う側はかなり屈した。帝は結局瑋の言を容れ、廷弼に職を解かせた。
  • その党は大いに恨んだ。吏部尚書の趙煥は詩教の言だけを聴く人であったので、年例によって振基および雲中・時熙を外に出した。振基は山東僉事を得、瑋もまた身を引いた。
  • 振基は剛直で敢えて言い、諫垣にあることわずか半年ながら、しばしば建言した。
  • 振基が去った後も科場の議はなお定まらず、策がまた疏を上げて極論した。しかし賓尹の党は、十七人をすべて罪して敬を寛くしようとした。孫慎行が正春に代わって再び廷臣を集めて議し、なお敬を関節(不正の口利き)に坐し、十七人については雪冤するとしたが、疏は結局中に留められた。賓尹・敬には強力な後ろ盾があり、外廷にも助ける者が多かったので、議は長く決しなかった。
  • 篤敬がさらに疏を上げて敬を論じ、暗に諸党人を詆ると、諸党人はまもなく彼を外に出し、あわせて慎行をも逐った。やがて居相・策は身を引き、之祥は外に遷された。孟禎は不平として、廷弼の勘問の一件では総憲一人を逐い言官二人を外転させたのに、なお之祥にこだわっている、敬の科場の一案でも侍郎二人・言官二人を去らせたのに、なお篤敬にこだわっている、あまりに甚だしくはないか、と疏で述べた。孟禎もまた外に調された。
  • 敬に難じる者は朝廷に一人もいなくなり、敬はこれによって寛典を得て、わずかに行人司副に謫せられただけであった。おおよそ七年たってようやく事は決着したという。
  • 振基は着任後まもなく喪に服して去り、家で没した。

孫必顯(附伝)

  • 子の必顯は字を克孝といい、萬厯四十四年(1616年)の進士。文選員外郎となり、尚書の趙南星に重んじられた。
  • 天啟五年(1625年)冬、魏忠賢が清流を羅織したとき、御史の陳睿謨が「代々門戸に投じている」と弾劾し、削籍となった。
  • 崇禎二年(1629年)に驗封郎中に起用され、考功に移り、翌年文選に移った。尚書の王永光はもとより東林を好まず、給事中の常自裕がそこで、推挙が不当である数事を弾劾し、かつ貪汚だと詆った。御史の呉履中もまた選法を紊乱していると弾劾した。必顯は二度の疏で弁じたが、帝は聴かず、山西按察司經歷に謫せられ、南京禮部主事に量移された。
  • 道すがら柘城・歸徳を通ったとき、ちょうど流賊が襲来してきたので、いずれも守備を整えてその城を保全した。一時、兵事に通じていると評された。
  • 尚寶司丞・大理左寺丞を歴任した。崇禎十一年(1638年)冬、都城が兵に迫られたとき、兵部の両侍郎がともに欠員であった。尚書の楊嗣昌が常格にこだわらず博雅で才望ある者を昇進・補任するよう請い、必顯が右侍郎に擢せられたが、わずか一か月で病もなく没した。