明史卷二百三十五 列傳第一百二十三 鄒維璉

初任と生祠拒否

  • 鄒維璉、字は徳輝、江西新昌の人。萬厯三十五年(1607年)の進士。延平推官に任じられた。耿介で大節があった。
  • 巡撫の袁一驥が私怨から布政の竇子偁の罪をあげつらったとき、維璉は進退を賭けて争った。監司が一驥のために生祠を建てようとすると、維璉は言葉を抗げて力を尽くして阻んだ。
  • 行取によって南京兵部主事を授けられ、員外郎に進んだ。遼左の用兵について数事を疏陳した。まもなく憂(服喪)で去った。

職方郎中としての清厳

  • 天啟三年(1623年)、職方に起用され郎中に進んだ。
  • 刑部主事の譚謙益が、妖人の宋明時が神兵を使役して遼左の地を回復できると薦め、魏忠賢がひそかにこれを後押しした。維璉は妖妄であると極言したので、忠賢は怒って旨を偽り叱責させた。
  • 海内はちょうど用兵中で、将帥はみな賄賂で進み、職方はとりわけ汚れていた。維璉はもともと清厳で、請託・依頼はすべて絶ち、そこで債帥(賄賂で将となる者)の弊を極論し、中官や大臣を厳しく譏った。

吏部での党争

  • 吏部尚書の趙南星はその賢を知り、稽勲郎中に調えた。
  • 当時、言路は横恣で、吏部の郎を用いるには必ずその同郷で言路にいる者に相談することになっていた。給事中の傅櫆・陳良訓・章允儒は南星が先に自分たちに相談しなかったことに大いに怒り、そろって維璉を罵り辱めた。維璉が考功に調えられるとますます怒り、交々章を上げて力を尽くして攻撃し、また「江西には吳羽文がいて、例として二人を用いるべきでない」として羽文を去らせ、維璉を困らせ辱めた。
  • 維璉は憤って疏を拝して罷免を求め、その日のうちに城を出た。疏中に章惇が蘇軾を攻め、蔡京が司馬光を逐ったことを引いた。櫆らはいよいよ怒り、櫆はついに公然と魏大中・左光斗を攻め、維璉にまで及んだ。これ以後、朝廷は水火のごとくとなり、諸賢はますますその位に安んじられなくなった。

魏忠賢弾劾と削籍・流謫

  • 維璉は去ろうとしても許されず、詔で留められて職務に当たったので、官の評定を厳しく審査し少しも手心を加えなかった。
  • 楊漣が魏忠賢を弾劾して厳しく責める旨を受けると、維璉は抗疏して言った。忠賢の大姦大悪は竹に書き尽くせぬ。陛下はその小さな信・小さな忠を憐れんで断ち切るに忍びないでおられるが、罪悪が満ちればもはや忍ぼうとしても得られぬことをご存じないのか。漢の張讓・趙忠は霊帝が父母と呼び、唐の田令孜は僖宗が阿父と呼んだ。我が朝の王振・曹吉祥・劉瑾もかつて寵せられた。その群臣のうち、一人でも牖の下で老死し富貴を保った者があろうか。いま陛下が太阿(宝剣)を忠賢に授けられるのは、宗社のために図る所以でもなく、忠賢のために図る所以でもない。まして黄扉の元老、九列の巨卿ともあろう者が、みずから商輅・劉健・韓文の下に身を置いてよいはずがない、と。
  • 疏が入ると、瀆奏であるとして責められた。
  • 崔呈秀が贓に坐して弾劾されると、維璉は辺に戍らせるべきと論じた。宦官に媚びる者たちの是非を力を尽くして弁別し、請託を拒んで聴かなかったので、諸逆党はこもごも恨んだ。
  • 趙南星が国を去るに及び、維璉はともに去ることを願い、忠賢はそのまま帰郷させた。ほどなく張訥が南星を弾劾し、あわせて維璉が部を調えられたのは非法であると追論したので、詔で籍を削られた。さらに汪文言の獄に構え入れられ、吏に下されて貴州に戍らされた。

福建巡撫と紅夷の撃退

  • 崇禎初、南京通政參議に起用され、そのまま太僕少卿に遷った。卜相(宰相の選定)・久任・納言・議諡・籌兵の五事を疏陳した。
  • 崇禎五年(1632年)二月、右僉都御史に抜擢され、熊文燦に代わって福建を巡撫した。
  • 海寇の劉香が乱を起こすと、遊撃の鄭芝龍を遣わして撃ち破らせた。
  • 海外の紅夷(オランダ人)は彭湖を占拠して互市を迫り、のち臺灣に移り、しだいに厦門に泊まるようになった。維璉はたびたび芝龍に檄して防ぎ止めさせたが、聴かれなかった。
  • 翌年(崇禎六年、1633年)夏、芝龍が福寧で賊を討っている隙に、紅夷が乗じて厦門城を襲い陥れ大いに掠奪した。維璉は急ぎ兵を発して水陸から進み、芝龍も馳せ援けてその船三隻を焼いたが、官軍の負傷も多かった。寇は大洋に船を浮かべ、転じて青港・荆嶼・石灣を掠めたので、諸将は銅山でこれを防ぎ、数日連戦してようやく敗走させた。
  • 維璉は在任二年で勲績がはなはだ著しかった。しかし国政を執る温體仁らはかねて維璉を忌み、京師に官する閩人が朝廷で誹謗を騰げたので、ついにこれに坐して官を罷めた。
  • 崇禎八年(1635年)春、賊を退けた功が叙されて起用を許す詔が下り、まもなく召されて兵部右侍郎を拝したが、病を得て赴かず、家で没した。

吳羽文――崇禎年間の吏部での抵抗

  • 吳羽文は病と称して帰ったのち、崇禎六年(1633年)になってようやく再び出仕し、考功・文選郎中を歴任した。
  • 帝は吏部に私があると疑いを積み重ね、選郎十一人のうち大半を譴責して黜け、遷った者はわずか三人であった。羽文は諸弊を痛烈に絶ち、しばしば温體仁と衝突した。
  • 賊が皇陵を毀したとき肆赦の詔があり、體仁は刑部尚書の馮英に逆案(の者)を詔の内に入れさせようとしたが、羽文は執って止めた。
  • また錢龍錫・李邦華らの起用が議されると、偵事の者が「羽文が二人から賄を受けた」と誣告し、獄に下された。
  • 羽文が髙鳯翔を大名知府に用いたところ、鳯翔はかつて小さな罰に坐したことがあったので、言者はさらに私に阿ったとし、謫戍に坐した。侍郎の吴甡らが交々薦めて官を復されたが、赴かぬうちに没した。
  • 羽文、字は長卿、南昌の人、萬厯四十一年(1613年)の進士である。

史論

  • 贊に曰く。王汝訓ら諸人は建言して謇諤の節を挺し、たびたび卿貳を歴任してもその名声を落とさなかった。余懋學が「十蠧」を言ったのはもっともなことである。鄒維璉は魏奄に抗し逆党を拒みながら、謫戍に坐しただけで済んだのは幸いであった。