明史卷二百三十五 列傳第一百二十三 何士晉
宜興の人、字は武莪。父を族子に殺され、継母に父の血衣を示されて発奮し、及第するや訴え出て仇を法に伏させた。工科給事中として章奏の疎通と聚斂の緩和を請い、王之禎・王錫爵・趙世卿を弾劾し、廃官の大量起用、瑞王の婚費の減額、靈應宫造営の中止を求めた。張差の梃撃事件では、中外が疑いながら誰も正面から触れなかった鄭國泰に対し、三王並封・『閨範』の序・妖書の三事に発する疑いを列挙して抗疏し、龎保・劉成の逮捕か、東宮の護衛を國泰の責任とするかを迫った。東林党と目されて浙江僉事に出され、廣西參議を経て、光宗の即位後に尚寳少卿・太僕に進んだ。天啟年間には廣西巡撫として安南の侵入を撃退し、兵部右侍郎・兩廣総督に至ったが、魏忠賢の勢いのもと収賄を誣告されて除名され、憤り鬱して没した。崇禎の即位で官を復された。
年表(6件)
- 萬厯二十六年1598年進士に及第し、父の血衣を持って訴え出て仇を法に伏させる
- 萬厯四十四年1616年浙江僉事から廣西參議に移る
- 天啟二年1622年右僉都御史として廣西を巡撫し、安南の侵入をたびたび撃退する
- 天啟四年1624年兵部右侍郎に抜擢され、兩廣軍務を総督して廣東巡撫を兼ねる
- 天啟五年四月1625年安邦彦からの収賄を誣告されて名を除かれ、憤り鬱して没する
- 萬厯三十五年1607年のちに梃撃事件で鄭國泰に言い及ぶ陸大受が進士に及第する
父の仇を討つ
- 何士晉、字は武莪、宜興の人。父の其孝は晩年に士晉を得たが、族子がその資産を狙い、党を結んで死に至らしめた。継母の吳氏は士晉を母の実家に匿い、読書が少しでも懈れると父の血染めの衣を示した。士晉は発奮し、人と語るとき笑顔を見せることがなかった。
- 萬厯二十六年(1598年)に進士となり、血衣を持って官に訴え、罪人はみな法に伏した。
工科給事中としての弾劾
- 初め寧波推官に任じられ、工科給事中に抜擢された。最初の疏で章奏を通ずること、聚斂を緩めることを請うた。
- ほどなく言った。袞職(天子の職)に欠けるところがある。廷臣の言は耳に逆らっても常に寛大に扱われるのに、輔臣に論及するときだけは必ず主上の威を借りて憤りを晴らそうとする。そのため陛下は諫めを拒む名を負い、輔臣は寵を固める実を収める。天下が輔臣に憤りを積んで平らかでないのはこのためである。孫鑛・郭子章・戴燿・沈子木のように、退けるべきを退けず公論が乖き違っているのは、輔臣の賡(朱賡)がその咎を負わずにいられようか、と。
- まもなく左都督の王之禎が長く錦衣を掌り、内閣の爪牙・中枢の心腹となっていることを弾劾した。また大學士の王錫爵は君意に迎合して善を賊うものだから召命を停めるべきだと弾劾し、户部尚書の趙世卿は国を誤り大臣の体がないと弾劾した。
- さらに、朝廷の大政のうち今すぐ行うべきものとして、輔臣を放って政地を清めること、論じられた大臣を罷めて公議を伸ばすこと、王之禎を斥けて禍源を絶つこと、卞孔時・王邦才らを釈して冤獄を晴らすこと、を挙げた。
廃官の起用・王府の婚費・靈應宫
- そもそも皇長孫が生まれたとき廃官を起用する詔があり、二百餘人が列挙して上げられたが、三年たっても顧憲成ら四人が用いられたにすぎなかった。士晉は廃籍の者を大々的に起用するよう請うた。
- 瑞王が婚儀を挙げるにあたり、典礼は福王に準ずるとの詔が出て、費用は十九萬に当たるとされた。もともと帝の弟の潞王の婚費はその半分にも及ばなかったので、士晉は潞王に準ずるよう請うた。
- 帝が太后を崇め奉ろうとして靈應宫を建てる詔を出すと、士晉は非礼として力争し、かつ「聖母が心を懸けておられるのは、東宮の出講、諸王の早婚、遺賢の登用でありましょう。それなのに諸臣がたびたび請うても応じられず、時ならぬ内降が出るのは、中官の営求か鬼神の香火のためばかりなのはなぜか」と言った。帝はいずれも省みなかった。
梃撃事件と鄭國泰への抗疏
- ほどなく張差の梃撃の事件が起こった。王之寀が張差の供述を引き出したのに、帝は引き延ばして決しなかったので、士晉は三たび上疏して促した。
- このとき変事は尋常でなく、中外はみな謀が鄭國泰から出たと疑ったが、正面からその鋒に触れる者はいなかった。郎中の陸大受がわずかに言い及ぶと、國泰は大いに恐れて急いで掲帖を出して弁明したため、世評はいよいよ騒がしくなった。
- そこで士晉は抗疏して言った。陛下と東宮は情としては父子、勢としては安危を共にされる。禍が蕭牆に迫っているのに少しも動かれぬということがあろうか。命を待つ期限を過ぎ、傍らの疑いはますます険しくなっている。よく見れば大受の疏は國泰を主謀と実指したわけではないのに、なぜ慌てて自ら疑いを招くのか。自ら疑うから人はますます疑わずにいられない。
- 続けて言う。しかし人が國泰を疑うのは今日に始まったことではない。陛下は國泰に問うてみられよ。三王並封の議はどこから起きたのか、『閨範』の序はどこから進められたのか、妖書の毒はどこから構えられたのか。これが禍の基となった疑いである。孟養浩らはなぜ杖されたのか、戴士衡らはなぜ戍られたのか、王徳完らはなぜ錮されたのか。これが挑発の疑いである。南宗順は刑余の身でありながら密かに死士千人を募ったのはなぜか、順義王は外寇でありながら各宮門を重兵で守らせたのはなぜか、王曰乾は逆徒でありながらその疏中にあらかじめ龎保・劉成の名があったのはなぜか。これが不軌の疑いである。三つの疑いが今日まで積もったところへ、突然に張差の一件が起こり、まさに従来の挙措と符合する。人に疑うなという方が無理である。
- さらに言う。しかも今日、國泰が疑われているのは張差一件にとどまらない。虎に騎って下りられず、鹿が驚いて険に走るように、一撃が効かねば別に陰謀があるのではと恐れる。陛下が急ぎ東宮を護られなければ東宮は孤注となり、万一東宮が護りを失えば陛下もまた孤注となる。國泰が人の疑いを解こうとするなら、はっきり貴妃に告げ、陛下に速やかに保・成を捕らえて吏に下すよう強く求めるほかない。もし本当に國泰が主謀なら、乾坤の大逆、九廟の罪人であって、貴妃はもとより陛下でさえ庇うことはできない。尚方の剣を借りることは臣から始めていただいて構わない。
- 結びに言う。もし別に主謀がいて國泰は関わりないのなら、國泰自身に責任を負わせ、皇太子・皇長孫の起居をすべて國泰の保護に属させ、少しでも疎漏があればその罪に坐させればよい。そうすれば臣も在廷の諸臣も、陛下が國泰を全うされ恩礼を欠かれぬことを願う。もし國泰が連累を恐れてあらかじめ聖聡を惑わし、久しく廷訊を引き延ばし、あるいはひそかに党与を散らして遠く逃れさせ、あるいは密かに張差を殺して口を滅ぼそうと図るなら、罪はいよいよ誅するに堪えぬものとなる。どうか聖明の裁察を、と。
- 疏が入ると帝は大いに怒って罪しようとしたが、事にすでに証跡があり、いっそう人言を招くことを慮った。
外任と最期
- 吏部はかねて士晉を東林党と見なして浙江僉事として出す案を擬し、命を待つこと三年、下されずにいた。ここに至って帝は急いで部の疏を選び出し、前の案どおりにせよと命じた。吏部が「欠員はすでに補ったので改めて命ぜられたい」と言うと、帝は許さず、先に補した者を調えるよう命じた。吏部がさらに「士晉は資歴を積んでおり、秩は参議に当たる」と言うと、帝は怒って尚書を厳しく責め、郎中以下の俸を奪った。士晉は任地に赴いた。
- 四年(萬厯四十四年、1616年)に廣西參議に移った。光宗が即位すると尚寳少卿に抜擢され、太僕に遷った。
- 天啟二年(1622年)、右僉都御史として廣西を巡撫し、安南が侵入すると将吏を督してたびたび撃退した。四年(1624年)、兵部右侍郎に抜擢され、兩廣軍務を総督し廣東巡撫を兼ねた。
- 翌年四月、魏忠賢の勢いが極まり、梃撃事件で争った者はみな罪を得た。御史の田景新は旨に迎合して「叛臣の安邦彦が士晉に十萬金を賄って援兵を阻ませた」と誣告した。そこで士晉は名を除かれ、賄を徴して饟に充てさせられた。士晉は憤り鬱して没した。有司が贓を厳しく取り立てたが、家人がわずか数百金を納めただけで産は尽きた。
- 莊烈帝(崇禎帝)が即位すると免ぜられ、官を復されて恤を賜った。
陸大受――福王の莊田と梃撃事件
- 陸大受、字は凝逺、武進の人。萬厯三十五年(1607年)の進士。行人に任じられ、たびたび遷って户部郎中となった。
- 福王が封国に赴くにあたり莊田四萬頃を賜う詔が出ると、大受は田額を大幅に減らすよう請い、あわせて鄭國泰の驕恣にして法を乱す状を弾劾した。疏は留中された。
- 王之寀が張差の事を発いたとき、大受は抗疏して言った。青宮(東宮)は何たる場所、張差は何者か。白昼に棒を持って直に儲君の居所を犯すとは、これは乾坤の何たる時か。業承一という内官は、なぜその名が分からぬのか。業承一の大邸は、なぜその所在が分からぬのか。かの三老・三太は互いに表裏をなし、霸州の武挙人である髙順寧は今どこに隠れているのか。なぜ厳しく取り調べて速やかに断じないのか、と。
- 户部主事で蒲州の張庭は大受の同年生であるが、これも上言して言った。奸人が突然に大内に入り青宮を狙撃した。陛下はどれほど震怒して主謀を究めるべきか。それなのに廷臣が交々章を上げても一つも批答がないのはなぜか。君側に奸が隠れ上下が蔽われるのは、みな陛下の精神が偏っているからである。皇太子を召見されることははなはだ稀で、かつての冊立・選婚、近ごろの東宮の出講、郭妃の卜葬など、陛下はいずれも遅疑を抑えかね、強いられてようやく承知された。あの宦寺どもがどうして妄りに憶測を巡らせ、ひそかに不逞を蓄えて万一の僥倖を狙わずにいられようか、と。
- いずれも返答はなかった。
陸大受・張庭・李俸――その後
- 大受はまもなく撫州知府として出、清潔で聞こえた。二年いて徐紹吉・韓浚が京察でその官を奪った。
- 張庭は再び遷って郎中となったが、噛みつかれて引退し、抑鬱のうちに死んだ。
- また聞喜の李俸という者があり、刑部郎中であった。諸司が会同して鞫問した際、張差の言が逆謀に及ぶと、郎中の胡士相らは顔を見合わせて記録しようとしなかった。俸が力争してようやく獄詞に入れられたので、鄭氏の党に憎まれた。鳳翔知府に遷ったとき、党人が言葉で脅したため、ついに赴任できず、のちまた京察で陥れられ、家で没した。
- 天啟初、御史の張慎言・方震孺・魏光緒・楊新期が交々章を上げて三人の冤を訴えたので、庭と俸に光禄寺少卿を贈り、大受は韶州に補されて起用された。のち都御史の髙攀龍が庭・俸に廕と諡を加えるよう請うたが実現しなかった。大受はまもなく没した。