辺務・軍政の建言
- 王德完、字は子醇、廣安の人。萬厯十四年(1586年)の進士。庶吉士に選ばれ、兵科給事中に改まった。
- 西陲で失態があったとき、徳完は言った。諸辺は年ごとに数百萬の饟を費やしながら士気は日ごとに衰え戎備は日ごとに廃れている。それは三蠧が除かれず二策が定まらぬからである。三蠧とは何か。一に辺吏が上を欺き罔いること、二に市賞に阿って額を増すこと、三に辺防を虚しくして実が乏しいこと。二策とは何か。目前の策と経久の策である。誓盟を謹んで守り噛みつかれるのを免れるのは目前の計、大いに戦具を修めて敵に辺を窺わせぬようにすれば百年無事を保てる、これが経久の計である。いま經畧の鄭洛は和議を主とし、巡撫の葉夢熊は戦を言う。辺臣が協わずして、どうして成功を望めようか、と。帝は二臣を戒飭した。
- 石星が本兵(兵部尚書)となると、徳完は十議を上げて時弊を正そうとし、帝はこれを納れた。
- ついで李成梁父子の権を裁くよう請い、黔國公の沐昌祚の冠服を褫うことを弾劾し、巡撫の朱孟震・賈待問・郭四維、少卿の楊四知・趙卿を罷めさせ、また廣東總督の劉繼文・總兵官の李棟らが功を冒した罪を発いた。半年の間に数十の章を上げ、いずれも軍国の大計であった。
辺饟と封貢
- たびたび遷って户科都給事中となった。辺饟の籌画を論じて言った。諸辺の歳例は𢎞治・正德の間には四十三萬にとどまったが、嘉靖には二百七十餘萬、いまでは三百八十餘萬に達している。ただ節倹を力行してこそ補い救える。もっとも消耗の弊は外は取り除きやすく内は除き難い。内府の諸庫を厳しく弾劾して急を要さぬものを汰し、さらに屯田・鹽法に意を用い、外はその源を開き内はその流れを節すれば、国用は足りよう、と。当時これは用いられなかった。
- 倭寇が久しく朝鮮を蹂躙し、再び封貢が議されると、徳完は「封ずれば必ず貢し、貢すれば必ず市を開く。これは沈惟敬が經畧を誤り、經畧が總督を誤り、總督が本兵を誤り、本兵が朝廷を誤るものである」と言った。のち封は果たして成らなかった。
- 徳完はまもなく病で帰郷した。
礦税・国計についての論
- 萬厯二十八年(1600年)、工科に起用され、四川の採木・榷税および播州用兵の患いを極力陳べ、また三殿がまだ営まれていないのに元殿・龍舟の役を再興すべきでないと言ったが、いずれも返答はなかった。
- ついで湖廣税使の陳奉の四大罪を弾劾し、重ねて疏を上げて「奉は必ず変を激発させる」と極論した。奉は果たして楚人に攻められ、辛うじて身一つで免れた。
- 雨乞いに際して言った。いま虎兕を放って群黎を噛ませ、盗賊を縦にして赤子を呑ませている。幽憤が凝り結んでも訴え出るところがない。だから雨沢は天の怒りによって滞り、螟螣は人の妖によって生ずる。どうか礦税の使をすべて撤し、逮え繋がれた臣を釈し、愆を省み過ちを贖って災変を弭められたい、と。返答はなかった。
- 四川の妖人である韓應龍が榷鹽・採木を奏請し、尋甸知府の蔡如川・趙州知州の甘學書が税使に忤らって逮えられると、德完はいずれも力争した。さらに山東税使の陳増・畿輔税使の王虎の罪を弾劾したが、返答はなかった。
- ついで国訃(国計の誤りか)の窮乏を極力陳べて言った。近年、寧夏の用兵に百八十餘萬、朝鮮の役に七百八十餘萬、播州の役に二百餘萬を費やした。いま皇長子および諸王子の冊封・冠婚に九百三十四萬に及び、袍服の費用にさらに二百七十餘萬。冗費がこの有様では国は何によって支えられるのか、と。そのうえで、織造を減らすこと、営建を止めること、速やかに殿の工事を完成させること、珠宝の購入を停めること、採辦を慎重にすること、内帑を大いに出すことを請うた。語ははなはだ切実であったが、帝はやはり省みなかった。
中宮擁護の上疏と廷杖
- 当時、帝は鄭貴妃を寵愛して皇后と皇長子を疎んじ、皇長子の生母である王恭妃は危ういほどで、皇后もまた病がちであった。左右の多くは、后が崩ずれば貴妃がそのまま中宮の位に正しくつき、その子が太子となるものと内心考えていた。
- 中允の黄輝は皇長子の講官であり、内侍からひそかにその状を探り知って、德完に「これは国家の大事です。旦夕にどうなるか分からぬのに、史冊に書かれれば朝廷に人なしと言われましょう」と言った。徳完は輝に草稿を作らせ、十月に上疏した。
- いわく、道路の噂に、中宮の役使はわずか数人にすぎず、鬱屈して病を得て危うく自ら保てぬほどだという。臣は驚き疑うに堪えない。宮禁は厳しく秘されて虚実は詳らかにできず、臣は愚昧ながらそのようなことはあるまいと決して思う。しかし台諫の官は風聞によって言事しうる。もし中宮が陛下の意にかなわずそれで病を得られたのなら、子は父母の怒りに対して号泣して幾諫すべきである。もし陛下の中宮への眷遇が加わるばかりで替わることがないのなら、子は父母への謗りに対して昭雪し弁明すべきである。この二端のいずれを量っても黙してはいられぬ。敢えて漢の袁盎の却坐の議に倣い、その愚誠を陳べる、と。
- 疏が入ると帝は激怒し、ただちに詔獄に下して拷訊させた。尚書の李戴・御史の周盤らが連続して疏で救ったが旨に忤らって厳しく責められ、御史は差をつけて俸を奪われた。大學士の沈一貫は病を押して奏を草し徳完のために弁解したが、帝はやはり解けず、まもなく廷杖百のうえ名を除いた。
- さらに廷臣に伝諭して「諸臣は皇長子のためか、それとも徳完のためか。皇長子のためなら慎んで擾し瀆すな。どうしても徳完のためというなら、冊立をさらに一年遅らせる」と言った。廷臣はそれ以上言わなくなった。
- しかし帝はこれ以後、外廷の議論を懼れ、中宮を眷礼して終始隔てがなかった。
光宗・天啟年間の顛末
- 光宗が即位すると太常少卿に召され、ほどなく左僉都御史に抜擢された。
- 天啟元年(1621年)、京師で間諜が捕らえられ、その供述が司禮中官の盧受に及んだので、徳完は受を南京へ出すよう請うた。
- 徳完は初め直言の声が天下に響いたが、大官の地位につくと持論はしばしば鄒元標らと異なった。楊鎬・李如楨が軍を喪って死罪と論じられ、廷臣が急いで誅そうとしたとき、徳完は上疏して公論を酌み、あるいは遣戍して功を立てさせ、あるいは即時に刑を正すよう請うた。二つの途を設けて帝が寛大に処すのを待ったのである。またその機に順天府丞の邵輔忠・通政參議の吳殿邦を薦めた。二人がかつて力を尽くして李三才を攻めたからである。
- 疏が出ると果たして鎬らは寛くされた。そこで給事中の魏大中が重ねて疏で論じたが、徳完も力弁し、帝は大中を詰責して事は落着した。
- 徳完はまもなく户部右侍郎に進み、給事中の朱欽相・倪思輝が言事で罪を得ると疏で救った。翌年、左(左侍郎)に遷り、ほどなく在官のまま没した。
- のち輔忠・殿邦が逆党に与して失脚したので、人々はみな徳完のために惜しんだ。