明史卷二百三十五 列傳第一百二十三 孟一脈

張居正に忤らって罷免される

  • 孟一脈、字は淑孔、東阿の人。隆慶五年(1571年)の進士。平遥知縣となり、廉潔で有能なので南京御史に抜擢された。
  • 萬厯六年(1578年)五月に上言して言った。先ごろ両宮に徽号を上り恩を中外に及ぼされたのに、御史の傅應禎・進士の鄒元標・部郎の艾穆・沈思孝だけは万里の荒地に投じられ、遠く親の側から絶たれている。これは同族に恵みを広め仁施を遍くする所以ではない、と。
  • 疏が入ると張居正に忤らい、庶民に落とされた。居正の死後、故官に起用された。

五事の疏陳

  • 疏を上げて五事を陳べた。
  • 一、近ごろ再び宮女を選び九十七人に及び、一時に急に徴したので輦下(都下)が甚だ騒がしい。
  • 二、中外の章奏は部臣に下して議覆させ、閣臣が旨を擬すべきである。もし当を得なければ台諫が糾駁できる。それを今は臣工に任せず、もっぱら宸断を取っておられる。明旨が一たび出れば臣下は顔を犯して諫めることができない。
  • 三、士習の邪正は世道の汚隆に関わる。いま廉恥は日ごとに失われ、営求と苟且がはびこっている。速やかに教化を改めて弊を救い、才華より先に実行を取るべきである。
  • 四、東南は財賦の地なのに淫巧に費やされ、民力は尽きている。これは陛下が唱えられたからではないか。数年来、御用が足らず、今日は光禄から取り明日は太僕から取る。浮梁の磁、南海の珠、玩好の奇器、器用の巧は日ごとに新しく月ごとに変わる。聖節には寿服、元宵には燈服、端陽には五毒の吉服、年例には歳進の龍服がある。恩に浴して賜わることは大小もれなく、謁陵の犒賜は巨万を耗する。錙銖を泥沙のように取っては用いる。そこで民間も麗侈を習いとし、耳目の好みを窮め工芸の能を尽くして際限を知らない。中人の家は十金あれば一年の用に足るのに、いま一つの物がしばしば中人数家の産を兼ねる。あるいは沈檀を刻み犀象を鏤め、珠宝金玉で飾り、周鼎・商彝・秦鉈・漢鑑を海内に捜し求め、歳月の力を窮めて一器の工に専らにし、生涯の資を傾けて一瞥の快を取る。財貨は尽きやすく嗜欲は窮まりないことを知らぬのだ。まことに恭倹節約をもって天下に先んじ、浮淫を禁じて貞樸に還されれば、財用はおのずと裕かになり風俗も淳くなる。
  • 五、辺疆の臣は日ごとに戎備を弛め、上下は蔽い合って実情が聞こえてこない。それは辺臣が相次いで本兵(兵部尚書)となり、題覆も処分もその口一つで決まるためで、言えば中傷が続く。誰が無益の談をして禍敗を招こうか。漁夫は餌を捨てて魚を得るのであって、餌で魚を養うとは聞かぬ。いま中国の文帛綺繍を蕃戎の常服とさせ、貢市と言いながら実は媚びている。辺臣は貢市に事寄せて戎に賂い、戎人は勝手に剽掠して我を要求する。互いに欺いて君父を誑かし、来ぬことを幸いとし、来れば防げない。これこそ餌で魚を養うというものである。どうか枢臣に明詔して心を洗い慮りを改めさせ、戦守の備えを一つ一つ講求して辺臣に付し、将は敵情を識り兵は将の意を識るようにされれば、腕が指を使うように意のままとなり、国に憂いはなくなる。
  • 疏は入ったが旨に忤らい、建昌推官に謫された。

晩年

  • たびたび遷って南京右通政となり、病を理由に帰郷した。
  • 萬厯四十一年(1613年)、右僉都御史に起用され南贛を巡撫した。三年いて左副都御史に廷推されたが命が下らず、給事中の官應震が「子を放縦にして驕恣にさせている」と論じた。疏は留中されたものの、一脈はついに病と称して去った。年八十一で没した。
  • 一脈は初め直諫で名声があったが、晩年に節鉞(地方の軍政)を任されたときには年も力も衰えており、表立った業績を残せなかった。