明史卷二百三十四 列傳第一百二十二 馬經綸

順天通州の人、字は主一。肥城知縣から御史となった。萬厯二十三年冬、兵部の軍政考選をきっかけに帝が言官を大量に処分し、さらに両京の科道が沈黙していたとして掌印の者すべてを外に調え、救おうとした閣臣・九卿の疏も却けて全員を庶民に落とした。經綸は罰俸で職に留まった身であればこそ諫争すべきだとして抗疏し、言官が言わなかったことの罪は郊天・享祖・朝講・任賢・好貨の五つにこそあるのに、なぜ別のことで責めるのかと論じ、自ら耳目を塞ぎ腹心を離し股肱を戕う挙だと諫めた。帝は激怒して三秩を貶し、救援した林熙春を謫すとともに經綸をさらに典史に落とし、のち庶民とした。帰郷後は門を閉ざして客を謝すること十年で没し、門人は私に聞道先生と諡した。天啟の初め、官を復されて太僕少卿を贈られた。

年表(4件)

萬厯二十三年、言官大量処分の発端

  • 馬經綸、字は主一、順天通州の人。萬厯十七年(1589年)の進士。肥城知縣に任じられ、朝に入って御史となった。
  • 萬厯二十三年(1595年)冬、兵部が軍政を考選した際、帝は「中に副千户でありながら擅に四品の職を署した者がいる」として部臣が私に阿ったことを責め、兵科が糾発しなかったことを咎めた。
  • 武選郎の韓范・都給事中の呉文梓を雑職に降し、員外郎の曹偉芳・主事の江中信・程僖・陳楚産・給事中の劉仕瞻の三秩を削って極辺に調え、御史の區大倫・俞价・强思・給事中の張同徳も言事がつねに旨に忤らうとして三秩を削った。また五城御史の夏之臣・朱鳯翔・涂喬遷、当時同行した楊述中は、中官の客用の家を籍没した件が旨に称わぬとして、そろって辺遠に謫された。さらに客用の資財が崇信伯の費甲金の家に隠されているとの件で、刑部が拷訊しても実がなかったため、郎中の徐維濓が外に謫された。
  • 一時に厳旨が頻々と下ったうえ、問題の千户の名も分からぬままだったので、朝廷全体が震え驚いた。
  • 当時、東厰太監の張誠が帝の意を失っており、誠の家奴で錦衣副千户の霍文炳が指揮僉事に遷るはずで部臣がすでに奏請していた。帝は言官を罪する糸口を探しており、これを罪の口実としたのである。
  • ついで帝は怒りを両京の科道に移し、沈黙していたとして、掌印の者すべての三秩を削るよう命じた。かくして給事中の耿隨龍・鄒廷彦・黎道昭・孫羽侯・黄運泰・毛一公、御史の李宗延・顧際明・袁可立・綦才・呉禮嘉・王有功・李固本、南京給事中の伍文煥・費必興・盧大中、御史の栁佐・聶應科・李文熙ら十九人がそろって外に調えられ、留任した者も一年の停俸となった。さらに吏部に職名を列挙させ、重ねて御史の馮從吾・薛繼茂・王慎徳・姚三讓の四人を罷めた。
  • 大學士の趙志臯・陳于陛・沈一貫および九卿がそれぞれ疏で争い、尚書の石星は自らの職を罷めて諸臣を寛くするよう請うたが、みな容れられなかった。于陛がさらに特疏で救うと、帝は怒って諸人を雑職に降し、ことごとく辺方に調えるよう命じた。尚書の孫丕揚らが詔旨がいよいよ厳しいのを見て重ねて宥しを乞うと、帝はますます怒り、全員の職を奪って庶民とした。

言官「五大罪」の抗疏

  • 經綸は憤慨して抗疏し、こう言った。近ごろたびたび厳旨を奉じて南北の言官が斥逐された。臣は幸いにも罰俸で職に留まる恩を蒙った。ならば今日こそ臣が諫争すべき日である。陛下はここ数年、深居して静養され、君臣の道は塞がり、中外はともに憂いを抱いている。頼みとするのは言路の諸臣が目を見開き胆を張って国家のために邪正を裁き分け、奸雄を指弾することであった。廟堂の処分が必ずしも輿論に合わなくとも、搢紳の公議は世風を維持するに足りた。これは高廟の神霊が実に鑒み佑けたところで、台省の耳目の働きは大きい。陛下はなぜ一朝にして自ら耳目を塗り塞がれるのか。
  • さらに言う。兵部の考察の件で兵科を罰するのはよいとして、それが他の給事にまで蔓延し、諸御史にまで波及した。去る者にはその当然の罪が明示されず、留まる者にはひとまず宥された理由が明示されない。聖意は深遠で窺い難いにせよ、道路の伝説はやかましい。陛下は近年、言官を厭い、動もすれば「瀆擾」の罪を着せてこられたが、いま急に転じて「箝口」を罪とされる。言わぬことで言官を罪するなら、言官は何と申し開きすればよいのか。
  • 続けて言う。臣が見るに、陛下の言官を罪する理由は浅い。言官が今日口をつぐんで言わぬことには五つの大罪がある。陛下が郊天されなくなって久しいのに、故典を引き扉を排して諍えず、陛下を天に不敬たらしめた罪が一。陛下が祖を享されなくなって久しいのに、至誠を開き裾を牽いて諍えず、陛下を祖に不敬たらしめた罪が二。陛下が朝を輟め講を停められたのに、言ってもついに復させられず、陛下を祖宗のような勤政たらしめえなかった罪が三。陛下が邪を去るに決せず賢を任ずるに篤くないのに、言っても強いて得させられず、陛下を祖宗のような用人たらしめえなかった罪が四。陛下が貨を好むこと癖となり下に恩薄く、肘腋の間に怨みが集まり変が蓄えられているのに、言官はみな憂えながらついに鱗に触れて諫止できず、陛下に初政を甘んじて棄てさせ有終を得させられなかった罪が五。言官はこの大罪を負っている。陛下が奮然と励精してこの五罪をもって罪されるなら当然である。それなのに、そこではなくよそ(箝口不言)で責められるのはなぜか。
  • さらに言う。先日、廷臣が交々章を上げて救ったのに、職に復さぬどころか職を落として庶民とされた。諸臣はもともと草莽から出た身、初服に還るのに何の恨みもない。ただ朝廷の過挙が押し通されてはならず、大臣の忠懇が拒まれてはならぬのを念ずるのみである。陛下が閣臣の疏の救いを聴かず改めて降級して雑職とされれば輔臣に顔がない。これは自ら腹心を離すことである。部の疏の救いを聴かず雑職を編氓に改められれば九卿に顔がない。これは自ら股肱を戕うことである。君臣は一体、元首が明らかでも股肱・腹心・耳目の働きに頼る。いま自ら耳目を塞ぎ、自ら腹心を離し、自ら股肱を戕われては、陛下は誰とともに天下の事を理められるのか。
  • 結びに言う。人君が天に命を受けるのと、人臣が君に命を受けるのとは同じである。言官に大罪はないのに、一朝の震怒で失職の罪を着せられ、誰一人抗命できずにいる。すでに大いに人心を失えば、必ず上は天意にも忤らう。万一、上天が震怒し、陛下が郊せず禘せず朝せず講せず、才を惜しまず貨を賤しまぬことをもって人君の職を失った咎とし、赫然として非常の災を降されたら、陛下はそのとき天命に抗しうるのか。臣が君に抗せず、君が天に抗せぬ道理は明らかである。陛下はひとり社稷のために自ら図られぬのか、と。
  • 帝は大いに怒り、經綸もまた三秩を貶して外に出した。

林熙春らの救援と流謫

  • 經綸が譴を受けると、工科都給事中で海陽の林熙春らが上疏して言った。陛下は言官が沈黙していると怒り、三十餘人を斥逐された。臣らは恐懼に堪えない。いま御史の經綸が慷慨して直言した。てっきり温旨で褒め嘉されると思ったのに、これも貶斥に従うことになった。これは建言を罪とするのか、それとも不言を罪とするのか、臣らには解せない。先に罪された者は言わなかったからで、いま罪された者は敢えて言ったから。臣らは何に従えばよいのか。陛下がまことに不言を溺職とされるなら、臣らは憂危の苦言を進めるのに難儀しない。まことに直言を忤旨とされるなら、臣らは喑黙の習いに倣うのも難くはない。ただ廟堂の上がこぞって諂佞して容れられるのを求めるようになっては、君上の福ではあるまい。臣らとて富貴栄辱の念が人と異なるはずもないが、それでもこちらを取りあちらを取らぬのは、二百餘年の養士の恩に浴して君父に背かず、この生に背かぬためにほかならない。陛下はなぜ深く怒り痛み憎んで、これほどまでに折辱されるのか、と。
  • 帝はいっそう怒り、熙春を茶鹽判官に謫し、經綸をさらに貶して典史とした。熙春はそのまま病と称して去った。
  • この日、御史で定興の鹿乆徴らも上疏して諸臣と同罪を請い、澤州判官に貶された。二つの疏に名を列ねた者は数十人に及び、みな俸を奪われた。
  • ほどなく南京御史で東莞の林培が時政を疏陳すると、帝は經綸への怒りを蒸し返し、ついに庶民に落とした。經綸は帰ってのち門を閉ざし客を謝すること十年で没した。門人は私に「聞道先生」と諡した。

林培――経歴と直言

  • 林培は郷挙から新化知縣となった。県は僻遠で文化が乏しかったので広く社学を設けて教化した。盗に殺された者の遺族が神に祷ることもできずにいたところ、蝴蝶の飛ぶままについて行って盗を捕らえ、時人は神の徴と驚いた。
  • 召されて南京御史となり、誠意伯の劉世延を弾劾して罪し、その爪牙を法に処した。
  • ついで上書して、徐維濓を謫すべきでないこと、陝西の花絨織成と回青の購入が民を擾すので罷めるべきこと、湖廣は魚鮓、江南は織造の件でともに撫按官の俸を奪われ、蘇州通判に至っては織造のゆえに官を褫われたのはいずれも規範とすべきでないことを述べ、あわせて沈思孝らにも論及した。帝は怒って福建鹽運知事に謫した。告帰して没した。
  • 天啟初、經綸は官を復されて太僕少卿を贈られ、培は光禄少卿を贈られた。熙春も故職に還され、たびたび遷って大理卿となり、老いて罷免を乞うた。当時、李宗延・栁佐らがみな朝に官しており、彼が先朝に建言した事を頌えたので、詔で户部右侍郎を加えて致仕させた。