明史卷二百三十四 列傳第一百二十二 李沂
嘉魚の人、字は景魯。庶吉士を経て吏科給事中となった。東厰を掌る中官張鯨は、何出光・馬象乾の弾劾を受けながら金宝を献じて罪を免れたと噂されていた。李沂は着任一月ほどで、鯨の悪は馮保の百倍であるのに帝が金宝と請乞に動かされて処断を渋っている、その噂が外議を騒がせて聖徳を損なっていると直言した。帝は「馮保・張居正のために報讐するもの」と激怒して詔獄に下し、申時行らの宥しの請いも退けて廷杖六十を加え、庶民に落とした。王錫爵は詔獄と廷杖を一人に併せ加えた例はないと争ったが聴かれなかった。家居十八年、召されぬまま没した。光宗が即位して光禄少卿を贈られた。同じく張鯨に忤った周𢎞禴・潘士藻が附されている。
年表(8件)
- 萬厯十四年1586年進士に及第し、庶吉士に改められる
- 萬厯十六年冬1588年吏科給事中を授けられる
- 萬厯十六年1588年任官一月ほどで張鯨を弾劾し、詔獄に下されて廷杖六十のうえ庶民に落とされる
- 萬厯二年1574年同じく張鯨に忤ることになる周𢎞禴が進士に及第する
- 萬厯十三年春1585年周𢎞禴が張學顔・李植と張鯨・張宏の結託を指弾し、代州判官に謫される
- 萬厯十七年1589年周𢎞禴が章奏の留中を諫め、早く皇儲を建てるよう請う
- 萬厯十八年冬1590年周𢎞禴が監察御史として寧夏の辺務を閲視するよう命じられる
- 萬厯十一年1583年同じく張鯨に忤ることになる潘士藻が進士に及第する
張鯨弾劾の経緯
- 李沂、字は景魯、嘉魚の人。萬厯十四年(1586年)の進士。庶吉士に改められ、十六年(1588年)冬に吏科給事中を授けられた。
- 中官の張鯨が東厰を掌り、横暴で憚るところがなかった。御史の何出光が鯨の死罪八つを弾劾し、その党である錦衣都督の劉守有・序班の邢尚智にも及んだ。尚智は死罪と論じられ、守有は除名されたが、鯨は厳しく叱責されただけで職は元のままであった。御史の馬象乾がさらに鯨を弾劾し、執政をも強く詆ったので、帝は象乾を詔獄に下した。大學士の申時行らが力を尽くして救い、御批を封じ返したが返答はなく、許國・王錫爵がそれぞれ重ねて救ってようやく前命は取り消された。しかし鯨はついに罪を問われなかった。外間では、鯨が金宝を帝に献じて免れたのだと言われた。
上疏と廷杖六十
- 沂は官を拝して一月ばかりで上疏し、こう言った。陛下は往年に馮保を罰し、近ごろ宋坤を逐われた。鯨の悪は保の百倍、坤の万倍であるのに、なぜひとり我慢して去らせないのか。長年侍奉したというなら、法を壊したのも長年である。深く反省すれば仕えさせてよいというが、虎狼を馴らして門戸を守らせられるとは聞かぬ。鯨が広く金宝を献じ多方に請乞したので陛下が決断を渋っておられるとの噂が流れ、中外の臣民は初め信じず、四海を富有される陛下が金宝を愛し、雷霆の威をもつ陛下が請乞に従うはずがないと考えた。ところが鯨に「策励して事に供せよ」と許す明旨を見るに及び、外議は騒然としてこれを真と見なすに至った。聖徳の損なわれ方は浅くない。鯨の奸謀が遂げられれば、国家の禍はここから始まる。それを臣は大いに恐れる、と。
- この日、給事中の唐堯欽もまた疏を具えて諫めた。しかし帝はひとり沂の疏を手にして激怒し、「沂は馮保・張居正のために報讐しようとしている」として直ちに詔獄に下し厳しく鞫問させた。時行らが宥しを乞うたが従われず、裁決が上がると廷杖六十のうえ庶民に落とす詔が下った。
- 御批が閣に至ったとき、時行らは御批を留めようとしたが、中使が承知せず持ち去った。帝はわざわざ司禮の張誠を遣わして杖を監督させた。時行らは上疏し、そろって会極門に詣でて処分を待った。帝は「沂は貪吏を置いて言わず、ひとり朕を貪だと言う。君父を謗誣する罪は宥せぬ」と言い、ついに杖した。
- 太常卿の李尚智・給事中の薛三才らが章を抗げて救ったが、いずれも返答はなかった。許國・王錫爵は言が用いられないとして罪を引き帰郷を乞うた。錫爵は「廷杖は正刑ではない。祖宗も間々行われたが、詔獄と廷杖を一人に併せ加えた例はない。故事では盗賊・大逆にのみ打問の旨がある。いま言官に加えてよいものか」と言った。帝は優詔をもって錫爵を慰留したが、その言はついに聴かなかった。
- そもそも馮保が罪を得たのは実は鯨の働きによるもので、帝はそう言ったのである。あるいは、鯨の罪は保ほどではなく、司禮を掌る張誠がもともと保に恩を感じており、言者に授意して発かせたのだ、とも言われるが、事は秘されて明らかにできない。
- 当時、周𢎞禴・潘士藻もみな鯨に忤らって罪を得たが、沂の禍が最も烈しかった。家居十八年、召されぬまま没した。光宗が即位すると光禄少卿を贈られた。
周𢎞禴――朝貴を指弾する上疏
- 周𢎞禴、字は元孚、麻城の人。倜儻として奇を負い、射猟を好んだ。萬厯二年(1574年)の進士。户部主事に任じられ、無為州同知に降され、順天通判に遷った。
- 萬厯十三年(1585年)春、上疏して朝廷の貴顕を指弾した。その趣旨はこうである。兵部尚書の張學顔はたびたび論じられたが、陛下は學顔のために給事中一人・御史三人を逐われた。これは人心が共に憤るところである。學顔は張鯨と兄弟の交わりを結んでおり、言官が學顔を指論して鯨に及ばないのは、その勢いを畏れるからにすぎない。李植が馮保を論じたのは一見忠讜のようだが、実は張宏の門客である樂新聲が謀主であり、植が順天を巡按したとき娼を納れて小妻とし猖狂に紀を犯したのも、宏を内援と恃んだからである。鯨・宏がすでに陛下の権を窃み、植もまた司禮の勢を窃んでいる。これは公論の容れぬところである。
- さらに言う。祖訓では大小の官が御前に至って言事することを許している。それなのに吏科都給事中の齊世臣は部曹の建言を禁ずるよう請うた。かつて居正が権を窃んだとき、台省はこぞって功徳を頌え、その奸を最初に発いたのはかえって艾穆・沈思孝であった。部曹の言事が国に何の負うところがあろうか。居正は員外郎の管志道の建白を憎み、御史の龔懋賢は老疾と誣い、主事の趙世卿の条奏を憎み、尚書の王國光は王官に錮した。論者が切歯するのは、権奸に附いて直言を棄て、壅蔽の禍を長じたからである。いま學顔・植は鯨・宏に交わり附き、鯨は柄を窃むことすら敢えてしている。世臣がそれを聞かぬはずはない。自分が言えないからといって、どうして人にも言わせまいとするのか。
- また言う。以前に吏垣の長であった周邦傑・秦燿は、居正の時、燿は甘んじて猟犬となり、邦傑は寒蟬のように黙した。いま燿は太常に、邦傑は太僕に官している。諫職に補うところなく□(底本欠字)の京卿に坐しながら、なお台省は恃むに足ると言えるのか。しかも諸臣の言事を禁じようというのか。一人の言を逐う罪は小さく、諸臣の言を禁ずる罪は大きい。かつて嚴嵩や居正でさえこの禁を明らかに立てることは敢えてしなかった。世臣の憚らぬことのなんとここに至ったことか。
- 結びに、學顔と植を郷里に放ち、燿と世傑(世臣の誤りか)を外に出し、張鯨を屏けて閑居させ、世臣の諫職を奪い、司禮の張誠らには内府の礼儀を掌るだけで政事に干与せぬよう厳しく敕せられれば天下の幸いである、と請うた。
- 帝は怒って代州判官に謫した。再び遷って南京兵部主事となった。
周𢎞禴――建儲の諫言と寧夏の辺務
- 萬厯十七年(1589年)、帝が政務に倦み始め、章奏の多くが留中されて下されなくなると、𢎞禴は疏で諫め、あわせて早く皇儲を建てるよう請うたが、返答はなかった。まもなく尚寳丞に召された。
- 翌年冬、監察御史として寧夏の辺務を閲視するよう命じられた。巡撫僉都御史の梁問孟・廵茶御史の鍾化民が官帑の銀を交際に用いていたので、𢎞禴が疏で発いた。詔により問孟は職を褫われ、化民は外に調えられた。
- 河東に秦・漢の二壩があり、𢎞禴はこれを石造にし、渠を浚えて北は鴛鴦諸湖に達するようにして大いに水利を興すよう請うた。
- 還朝して将材として巴承恩・王文秀・巴延を薦めたが、翌年に承恩らが反したため、連坐して澄海典史に謫された。劾を投じて(自ら弾劾を求めて)帰り、家で没した。天啟初、かつて建儲を請うたことにより太僕少卿を贈られた。
潘士藻――禁城の閹人を杖し、修省を上言する
- 潘士藻、字は去華、婺源の人。萬厯十一年(1583年)の進士。温州推官に任じられ、御史に抜擢されて北城を巡視した。
- 慈寧宫の近侍である侯進忠・牛承忠が私に禁城を出て婦女を狎れ、巡邏の者が捕らえようとして殴られた。士藻に訴え出たので、士藻は私に司禮監へ牒して処断させた。帝は憤って「東厰は何をしているのか、外庭から発かれるとは」と言い、二人の閹人を杖し、うち一人が死んだ。鯨はそのとき東厰を掌っており、怒った。
- 火災があって修省が行われた際、士藻は言った。いま天下の患いで、君臣の意が通じないことより大きなものはない。祖制および近年の平臺・暖閣での対面の故事に倣い、面と向かって当否を議されたい。大工事を撤して豊年を待ち、織造・焼造を免じて倹徳を昭かにし、金花の額外徴収を免じて軍食を助け、また時々講読の諸臣を召して経史を問うべきである。賢人君子に接する時が多ければ、おのずと敬をもって肆を易え、義をもって欲を奪える。修省の実はこれに過ぎるものはない、と。
- 鯨がこれを機に帝の怒りを煽り、廣東布政司照磨に謫された。科道が交々章を上げて救ったが聴かれなかった。まもなく南京吏部主事に抜擢され、再び遷って尚寳卿となり、在官のまま没した。