父・相と冊立の督促
- 謝廷讚、字は曰可、金谿の人。父の相は郷試を経て東安知縣となった。着任した年は飢饉で、役人が戸口を偽って増やし賑恤を騙し取り、後任がその帳簿どおりに賦を徴したので民ははなはだ困窮した。相は願い出て千三百戸を減らすことができた。また奸人が四人を殺して屍を棄て、事件が三年決着しなかったが、相が神に祈って屍の在り処を得て、事件は落着した。
- 廷讚は萬厯二十六年(1598年)の進士。官を授けられる前から鉱税の害を極論し、まもなく刑部主事に任じられた。
- これより先、二十八年(1600年)春に冊立・加冠・婚礼の礼を挙行するとの詔があった。期日が近づくと、都御史温純・礼科給事中楊天民・御史馮應鳯が相次いで言上したが返答はなかった。
- 廷讚は上疏して、閣員を補うべきこと、台省を選任すべきこと、鉱税を撤廃すべきこと、加冠・婚礼と冊立を速やかにすべきこと、詔令に信を置くべきことを言い、疏を持って文華門に跪いて命を待った。
- しばらくして帝は激怒し、宦官の田義を遣わして詰責した。数日後、大學士趙志臯・沈一貫に勅諭を擬させ、礼部に儀式を具えさせようとした。擬した諭が進上されたが下されないので、志臯・一貫が催促した。すると帝は「廷讚が越権して功を狙ったから、しばらく待つことにした。諸司に静かに待つよう示せ」と言った。
- こうして廷讚は職を剥がれて庶民とされ、あわせて尚書蕭大亨、侍郎邵杰・董裕の一年分の俸が奪われ、郎中徐如珂、員外郎林燿、主事鍾鳴陛・曹文偉が三階級を貶されて最果ての辺境に回された。この年、冊立の礼は行われなかった。
- 廷讚は帰って維揚に仮寓し、生徒に教えて自活し、久しくして没した。天啟中、尚寳卿を贈られた。
謝廷諒(兄・附伝)
- 兄の廷諒、字は友可。萬厯二十三年(1595年)の進士。南京刑部主事に任じられた。
- 帝が李廷機を入閣させ、また王錫爵を召したとき、廷諒は「廷機は才が弱く暗く、錫爵は気位が高く昂ぶっている。ともに用いるべきではない」と言った。
- さらに言った。「儲君を立てて王とするのは錫爵に始まり、挙人に考察を課すのは廷機に始まり、巡按の長期在任は趙世卿に始まり、章疏を宮中に留めるのは申時行に始まり、年例が挙行されず考察が下されないのは沈一貫に始まる。これらはみな人の国を乱す者である」と。
- 疏は入ったが宮中に留め置かれた。順慶知府で終わった。