三王並封を争う
- 王如堅、字は介石、安福の人。萬厯十四年(1586年)の進士。懐慶推官に任じられ、入って刑科給事中となった。抗疏して三王並封を争った。その要旨は次のとおり。
- 謹んで按ずるに、十四年正月の聖諭に「元子は幼少ゆえ冊立の事は二三年を待って挙行する」とある。これは長子が元子であることを明言したものである。
- また十八年正月の詔旨に「朕に嫡子はない。長幼におのずから定まった序がある」とある。これは倫次の変えられぬことを明示したものである。
- ついで十九年八月の詔で、冊立の事は二十一年の挙行に改められた。これは陛下が群臣の急き立てに怒って期日を変えただけで、冊立の事自体をにわかに取りやめられたのではない。
- それが今、期限に至って、にわかに「並封して王とし嫡嗣を待つ」と伝えられた。臣は初め疑い、次いで驚いた。陛下の言葉はまだ耳に残っている。お忘れになったのか。
- かつて「二三年で挙行」と言われたのが二十年まで遅れ、二十年の挙行がまた二十一年に改まり、いま二十一年がたちまち並封に改まった。陛下の従前の明白な命ですら自ら堅持されないのなら、今日、群臣は何を信じればよいのか。
- そもそも立嫡の条は、祖訓が嫡を廃する者を戒めたものである。今日、廃すべき嫡がどこにあろうか。
- そのうえ陛下が正嫡を待とうとされるお心は、真に待つおつもりではあるまい。古の王者は後宮に偏愛がなかったから、正后に後嗣が多かった。後世、愛が一人に偏れば天地の交わりは常には泰らかならず、後嗣の繁栄を望んでも難しい。わが祖宗以来、中宮が生んだ例がいくつあろうか。国本が早く定まったのはひとえに元子に属したからで、二、三歳で立てられ、あるいは五、六歳で立てられた。陛下が春宮の冊を受けられたときもわずか六歳であった。どうして嫡を待つ議や潞王と並べ封ずる詔があったであろうか。
- いま皇長子はすでに十二歳。聞けば皇后は自分の生んだ子と分け隔てなく養育されているという。元子を一日早く定めれば、それだけ一日早く中宮の心も慰められる。皇后はもとより賢明であられる。目前の嫡嗣を措いて、知れぬ先の数を当てにされるはずがあろうか。
- 宮闈の内、閨房の間、左右の近習の輩は、形勢を見て疑いを生じ、他の意図で陛下を窺わぬとも限らない。昨年、冊立の詔がまさに挙行を待つばかりのとき、宗室の中からすでに並封の疏が出た。機密が外に漏れて、あちらが朝廷の底を測っているのではないと、どうして分かろうか。
- 名号を分け嫌疑を弁別するのは礼の善き常道である。元子と衆子とでは、冠服の制、鹵簿の節、恩寵の数、接見の儀がまるで異なっている。一日にして並べ封じて同じ称号とすれば、対等に大きくなる嫌いと、長子に迫る患いがある。狐疑を執って讒賊を招く。機微の際は慎まねばならない。
- もし「新たに詔を発したばかりで急には改めがたい」と言われるなら、数年前に定まった詔ですら移し変えられたではないか。今、綸言が発せられたばかりなら、なぜ中止できないのか。
- 帝ははなはだ怒り、朱維京ともども最果ての辺境への配流を命じた。王錫爵が疏して救ったので配流は免れて庶民となり、まもなく没した。天啟中、光禄少卿を贈られた。