明史卷二百三十三 列傳第一百二十一 李獻可

豫教を請うて廷臣十一人が斥けられる

  • 李獻可、字は堯俞、同安の人。萬厯十一年(1583年)の進士。武昌推官に任じられ、成績が最上で召されて戸科給事中となり、しばしば遷って礼科都給事中となった。
  • 萬厯二十年(1592年)正月、六科の諸臣とともに豫教(皇子の早期教育)を疏請して言った。「元子は十一歳になられた。豫教の典は年頭に挙行すべきである。もし内廷で誦読は十分にでき、近侍でも輔導は務まるというなら、宮中の奥まった所が外朝の清らかで粛然とした場に及ぶだろうか。内臣の忠敬が師傅・太保の尊厳にどうして及ぼうか」と。
  • 疏が入ると帝は大いに怒り、疏の中で𢎞治の年号を書き誤っているのを摘み出し、詔に違い君を侮ったと責め、一階級を貶して外任に回し、他の者は半年分の俸を奪った。
  • 大學士王家屏が御批を封じて突き返したので、帝はますます不快であった。
  • 吏科都給事中鍾羽正が「獻可の疏は臣が実際に賛成したものである。同じく左遷されたい」と言い、吏科給事中舒𢎞緒も「言官は罪してもよいが、豫教は必ず行わねばならぬ」と言った。帝はいっそう怒り、𢎞緒を南京へ出し、羽正と獻可はともに雑職として辺境へ移した。
  • 大學士趙志臯が救おうと論じて詔で譴責された。吏科右給事中陳尚象がさらに争って、斥けられて庶民となった。
  • 戸科左給事中孟飬浩・御史鄒徳泳・戸兵刑工四科の都給事中丁懋遜・張棟・吳之佳・楊其休・礼科左給事中葉初春がそれぞれ上疏して救うと、帝はいよいよ怒り、飬浩を廷杖百に処して除名し、徳泳・懋遜ら六人はともに一階級を貶して外に出し、獻可・羽正・𢎞緒も除名した。
  • このとき帝はひとたびの怒りで諫官十一人を斥け、朝士はみな驚き歎じた。それでも諫める者はやまなかった。礼部員外郎董嗣成・御史賈名儒が特に疏して争い、御史陳為謨・吏科左給事中李周䇿もその同僚とともに諫めた。帝の怒りはいっそう増し、嗣成の職を奪い、名儒を辺境に左遷し、徳泳・懋遜らはみな削籍、禹謨らは差をつけて俸を止められた。礼部尚書李長春らも疏して諫めると、帝はまた詰責した。
  • 獻可らはついに家に廃された。久しくして吏部尚書蔡國珍・侍郎楊時喬が前後して登用を請うたが、いずれも握りつぶされた。天啟の初め、先朝で事を言った諸臣を録するにあたり、獻可はすでに没していたので、詔により光禄卿を贈られた。

舒𢎞緒(附伝)

  • 𢎞緒と名儒はいずれも獻可と同年の進士。尚象・懋遜・之佳・初春・其休・嗣成はいずれも萬厯八年(1580年)の進士である。
  • 𢎞緒は通山の人。庶吉士から給事中に改まった。天啟中に光禄少卿を贈られた。

陳尚象(附伝)

  • 尚象は都匀の人。中書舎人から給事中となった。かつて尚書沈鯉を弾劾して罷めさせ、士論に非とされたが、ここに至って直言によって国を去ったので、人はようやくこれを称えた。天啟中、𢎞緒と同じく官を贈られた。

丁懋遜(附伝)

  • 懋遜は霑化の人。餘姚知縣として治績があり、入って吏科給事中となった。削籍されて郷里に居ること三十年。光宗が立つと太僕少卿に起用され、累進して工部左侍郎となり、没して尚書を贈られた。

呉之佳・葉初春(附伝)

  • 之佳は長洲の人。初めは襄陽知縣。初春は吳縣の人。初めは順徳知縣。ともに治績によって召された。
  • ここに至って張棟とともに斥けられ、吳中の三諫と称された。天啟の初め、之佳に太僕少卿、初春に光禄少卿が贈られた。
  • 之佳の孫の适もまた兵科給事中となり、直言をあえてした。

楊其休(附伝)

  • 其休は青城の人。蘓州推官から吏科給事中に抜擢された。
  • 内官の張徳が人を殴り殺したとき、帝は司礼監に取り調べさせ、罪をその配下に着せた。其休は徳もあわせて法司に付すよう乞い、ついに許された。
  • 帝がしばしば朝政に臨まなかったので、十七年(1589年)正月、其休は諸国が入朝するのを機に、御前に臨んで諸臣を励ますよう請うた。その他の論奏もはなはだ多かった。罷免されて帰り、没して太常少卿を贈られた。

董嗣成(附伝)

  • 嗣成は烏程の人。祖父の份は礼部尚書、父の道醇は南京給事中で、代々顕貴であった。嗣成は気節をもって著れ、士論に高く評価された。

賈名儒(附伝)

  • 名儒は真定の人。初春と同じく官を贈られた。

張棟――租税と白糧の議

  • 棟、字は伯任、崑山の人。萬厯五年(1577年)の進士。新建知縣に任じられ、召されて工科給事中となった。
  • 天下の滞納した租をことごとく免除するよう請うたが、通らなかった。当時、租の免除は慣例として存留分(地方留保分)だけを免じ、起運分(中央送付分)には及ばなかったので、棟は故事にとらわれないよう請い、容れられた。
  • 再び遷って刑科左給事中となった。吳中の白糧は民の負担で、輸送の役を負えばたちまち家産を潰した。棟は資金を出して漕船に助力させ、便乗させるよう請うたが、申時行・王錫爵がその議を退けた。棟はそこで病と称して帰った。

張棟――兵政をめぐる論奏

  • 兵科都給事中に起用され、南京戸部尚書張西銘・刑部侍郎詹仰庇を弾劾して退けた。
  • 軍政の拾遺で恭順侯呉繼爵・宣城伯衛國本・忻城伯趙泰修・宣府総兵官李迎恩を弾劾し、繼爵は留任、他はみな罷免された。
  • ついで「辺臣の功の叙任を内閣や部・科にまで及ぼすべきではない」と言い、帝もこれに従った。
  • 固原の辺備の視察に遣わされた。当時、経略の鄭洛はまさに和議を論じていたが、棟は「徹里克は険阻を頼んで帰順せず、布色圖は依然として狡猾であり、浩爾齊・宰桑は海上に拠って雄を張っている。洛に責任を委ねて去らせてはならない」と言い、そのついでに兵部尚書王一鶚を論じた。ちょうど一鶚がすでに没し、洛も徹哩克が東へ帰ったと報告したので、その奏は沙汰止みとなった。
  • 棟はさらに言った。「洮河で事を仕損じたとき、陛下は赫と震怒された。洛に軍を視察させたのは、まさか虚辞で敵に媚び、順義王が東へ帰ったのを一つ稼いで事を終わらせるためではあるまい。いま浩爾齊・宰桑は海を頼みに巣を作り、出没自在である。将吏の功を叙するべきではない」と。
  • 報告の合間に母が没した。棟は年すでに六十であったが、悲しみに痩せ衰え、墓の傍らに廬を結んで没した。天啟中、太常少卿を贈られた。
  • 徳泳は祭酒の鄒守益の孫。飬浩・羽正にはそれぞれ伝がある。