明史卷二百三十三 列傳第一百二十一 羅大紘

冊立の遅延を争う

  • 羅大紘、字は公廓、吉水の人。萬厯十四年(1586年)の進士。行人に任じられ、十九年(1591年)八月に礼科給事中に遷った。
  • 拝命するや、ただちに制度を定めるべきことを数千言の書で上り、ついで朝政に臨むことを勤めるべきだと言った。いずれも言葉は切実で率直であった。
  • 先に萬厯二十年(1592年)春に東宮を冊立するという詔があった。ここに至って工部主事張有徳が儀式の器物をあらかじめ用意するよう請うと、帝は怒って三か月分の俸を奪うよう命じ、冊立の事をさらに引き延ばした。尚書曾同亨が先の詔どおりに行うよう請うと、上意に逆らって厳しく譴責された。大紘がまたこれを言うと、詔によって有徳と同じく俸を奪われた。
  • 大學士許國・王家屏が閣臣の名を連署して新たな命の撤回と諸臣の請いの容認を乞うと、帝はいっそう怒った。

申時行の密掲を暴く

  • 首輔申時行はちょうど休暇中だったが、帝の怒りを聞くとひそかに掲帖を上って「臣は連署に名を列ねてはいるが、実は与り知らぬ」と言った。帝は喜び、手ずから詔を書いて褒め答えたが、その掲帖と詔がともに礼科に下された。
  • 故事では閣臣の密掲を科に下すことはない。時行は恥じ恐れて急ぎ礼科都給事中胡汝寧に相談し、使者を遣わして掲帖を取り戻させた。当時、大紘ひとりが科の当番であったが、使者は偽ってこれを取り、返却を求めても時行は留めて出さなかった。
  • そこで大紘は抗疏した。
  • 臣は職を奉じて不出来であるから、謹んで筵に坐して処分を待つ。ただ思うに、時行は国の厚恩を受けながら内外で二心を抱き、奸を蔵し禍を蓄え、国を誤り友を売った。その罪は言い尽くせない。
  • 時行は身は休暇中でも、翰林の遷任・改任の奏にはいずれも堂々と筆頭に名を列ねている。なぜ建儲の一事だけこれほど深く避けるのか。
  • たとえ陛下が赫と震怒して國らに測り知れぬ威を加えられたとしても、時行も過ちを分かつべきである。まして陛下はまだ怒っておられなかったのに、聖聴を塞ぎ国本を揺るがし、憐れみを乞う術をみずから献じて、主上の悔悟の萌しを遏めた。これこそ臣の大いに恨むところである。
  • 仮に國らの請いが容れられ、慶典が行われて恩沢が加えられるとしたら、時行もそれを辞退するであろうか。
  • 思うに、その私心は陛下に何かのしがらみがあると勝手に推し量り、表向きは廷臣の立太子の議に付きながら、裏ではその事を緩め、それをもって自ら後宮と取り引きする謀としている。請うて容れられれば公然と補佐の功に居り、容れられなければ別に繁茂する側へ付く計を立てる。この術を操って一世を欺くこと久しい。今日それが露見しようとは思わなかった。
  • 疏が入ると帝は激怒し、辺境の雑職に貶すよう命じた。ほどなく六科の鍾羽正らが救おうと論じたため、庶民に落とされ、羽正らは俸を奪われた。
  • 中書舎人黄正賔がさらに抗疏して力めて時行を誹謗すると、帝は怒って獄に下して拷問し、庶民に落とした。時行も居心地が悪く、ほどなくついに退いた。
  • 大紘は志と行いが高く抜きん出ており、郷人は郷里の先達の羅倫・羅洪先と並べて三羅と号した。天啟中に光禄少卿を贈られた。

黄正賔(附伝)

  • 正賔は歙の人。財を出して舎人となり武英殿に勤めたが、財で官に入ったことを恥じ、際立った節義を立てたいと思っていた。ここに至ってついに清議に推された。
  • のち李三才・顧憲成もみな交わり、士大夫の間でいよいよ名声があった。
  • 熹宗が立つと元の官に起用され、再び遷って尚寳少卿となったが、病と称して帰った。
  • 魏忠賢が汪文言を獄に下したとき、供述が正賔に及び、贓金千両の罪に問われて大同に流された。莊烈帝が位を継ぐと復官して致仕した。
  • 崇禎元年(1628年)六月、魏の一党の徐大化・楊維垣はすでに罷官していながら、なお都下にひそんで宦官と通じていた。正賔は都にあって抗疏してその奸を暴き、両人を郷里に帰らせたので、都の人は快哉を叫んだ。ただし疏に「ひそかに宦官と通ずる」の語があったため、帝はその名を指すよう命じた。正賔が趙倫・于化龍と答えたところ、帝はでたらめだとして本籍に追い返した。