明史卷二百三十三 列傳第一百二十一 陳登雲

鄭承憲を弾劾する

  • 陳登雲、字は從龍、唐山の人。萬厯五年(1577年)の進士。鄢陵知縣に任じられ、政績が最上とされて召され、御史となった。
  • 遼東の按察に出て、安撫と攘夷の十策を疏陳し、また首級の功に対する賞を速やかに与えるよう請うた。山西の巡按に改まり、朝廷に還った。
  • ちょうど廷臣が建儲を争っていた。登雲は「議が早く決しないのは貴妃の家がひそかに妨げているからだ」と考え、萬厯十六年(1588年)六月、災異にかこつけて抗疏し、妃の父の鄭承憲を弾劾した。
  • 承憲は禍心を懐き奸を蔵して皇太子の位を窺い、日々宦官と往来して酒を酌み交わし親密にしている。そのうえ広く山人・術士・僧侶・道士の類と結んでいる。
  • 先ごろ陛下が科場で本籍を偽った者を厳しく懲らしめたとき、承憲の妻はいつも「事は自分が発いたのだ」と言いふらし、それで勲貴を脅し、朝廷の士を騒がせた。惠安がその横暴に遭っただけでなく、中宮も太后の家もその矛先を慎んで避けたほどである。
  • 陛下が国を享けて久しく長いのは、おのずから敬い徳あるゆえである。それなのに承憲は人に会うたびに「東宮を立てなかった効き目だ」と言っている。盛典を千度も妨げ、ひそかに邪な謀を蓄えている。後日、どんなことまでしでかすか分からない。
  • もし乾綱を奮い起こして大義によって断ぜられなければ、たとえ毎日、正殿を避け音楽を撤し、素服して刑を停めても、天心は容易には感じず、天変は消せないであろう。
  • 疏が入ると貴妃も承憲もともに怒り、同僚も登雲の身を危ぶんだが、帝は結局これを宮中に留めて下さなかった。

言路の弊を論ずる

  • 久しくして疏して吏部尚書陸光祖を論じ、また四川提学副使馮時可を論じて貶し、應天巡撫李淶・順天巡撫王致祥を論じて罷めさせ、また礼部侍郎韓世能・尚書羅萬化・南京太僕卿徐用檢を論じたので、朝廷の要人はみな彼を憚った。
  • ちょうど科道の考選が行われようとしていたので、登雲は疏して言った。
  • 近年の言官は、壬午以前は威に怯えて剛を挫いて柔となり、壬午以後は情に馴れて直を変えて佞となった。その間に剛直の人がいなかったわけではないが、軋轢に耐えられず、多くは身を全うできなかった。二十年来、剛直によって京卿に抜擢された者は百人に一、二人にすぎない。公を背いて党を植え、嗜好を追い憐れみを乞う、いわゆる「七豺八狗」のごとき者が、言路にその半ばを占めている。
  • そもそも台諫は天下のために是非を保つものである。それを人にここまで賤しめ辱しめさせて、どうして顔を上げて直言し、国家のために大奸を鋤き巨蠹を殲滅することが望めようか。誤って用いて斥けるくらいなら、初めの登用を慎むほうがよい。
  • そのうえで数事を条陳して献じた。

河南の飢饉と晩年

  • 河南の按察に出た。その年は大飢饉で人が人を食うありさまだった。副使の崔應麟は民が沼沢の雁の糞を食べているのを見て、それを袋に入れて登雲に示した。登雲はただちにこれを朝廷に進めた。帝はすぐさま寺丞の鍾化民を遣わし、内帑の金を持たせて賑恤させた。
  • 登雲は地方の巡察を三度務め、風紀の裁断は峻厳であった。在任年数によって京卿に抜擢されるはずだったが、しばしば握りつぶされて下りなかったので、病と称して帰り、まもなく没した。