出仕と辞退
- 葉茂才、字は參之、無鍚の人。萬厯十七年(1589年)の進士。刑部主事に任じられ、親を養う便のため南京工部に改まった。
- 蕪湖で税を徴収したが、課税額が満ちればすぐ民の舟を通し、余剰が出ると辺防の兵糧に回すよう請い、ついに一銭も取らなかった。
- 吏部に移って郎中に進み、三たび遷って南京大理丞となったが、また病と称して辞した。
党人に抗する
- 萬厯四十年(1612年)、南京太僕少卿に起用された。当時、朝士はまさに党を植えて権を争っていた。祭酒湯賓尹・修撰韓敬はすでに失脚していたが、その党はなお力めて庇っていた。
- 御史湯世濟は敬と同邑の人で、時政を陳べる疏の中でひそかに敬の奸弊を摘発した者を誹謗した。茂才は疏を馳せて反駁した。その党の給事中官應震らが疏を連ねて力争すると、茂才はさらに掲帖を具えてその隠れた事情を暴き、そのうえで病と称して辞職を乞うた。
- 世濟はますます憤り、同年の金汝諧・牟志夔とともに攻撃をやめなかった。茂才は再度の疏でこれを折り、ついに自ら退いた。
- このころ党人はことごとく言路を占めており、他の役所に発言する者があれば必ず力を合わせて追い出した。茂才が去ってのち、党人はいよいよ専横となり、異論を唱える者はいなくなった。
晩年と東林八君子
- 天啟の初め、召されて太僕少卿となり、太常に改められたが、いずれも赴かなかった。四年(1624年)に南京工部右侍郎に抜擢され、翌年に官に着いたが、わずか三か月で、時政が日ごとに悪化するのを見て病と称して帰った。
- 友人の高攀龍が逮捕されて入水して死に、使者がその子を逮捕しようとしたとき、茂才は力めて救って免れさせた。まもなく没した。
- 茂才は恬淡で嗜好が少なく、仕官して四十年、その半ば以上を郷里で食んだ。
- はじめ同邑の顧憲成・允成・安希范・劉元珍および攀龍は、みな建言して去国し、直言の名声は一時を震わせた。茂才はただ醇厚な徳で称えられていたが、太僕の官に在って清流がことごとく斥けられ邪議がいよいよ紛糾すると、奮い立って抗した。人々はこれよりその勇を認めた。
- 当時これを東林八君子と称した。憲成・允成・攀龍・希范・元珍、武進の錢一本・薛敷教、および茂才である。
史論
- 贊にいわく。成化・𢎞治より前は学術が純正で士の習わしも正しかった。当時はまだ講学が盛んではなかった。
- 正徳・嘉靖のころ、王守仁は軍旅の中で門徒を集め、徐階は宰相の職にありながら講学した。その風潮が及んで朝野を動かし、こうして官途の士も在野の老人も、講会を連ね書院を立てて遠近に相望むようになった。
- しかし名声が高ければ謗りも速く、意気が盛んであれば咎めも招く。物議が横に生じ、党禍が続いて起こり、ついに衆人の的として東林が名指しされた。後漢の甘陵の部党、宋の洛・蜀の争いも、これほど激しくはなかった。
- 憲成ら諸人の清節と美しい修養は士林の標準であった。彼らは自ら気勢を上げて「君・宗・顧・俊」といった標榜の目を立てたわけではないが、世望を負う者は彼らを引いて重みとし、当世の名誉をあさる者は彼らを昇進の梯子とした。付き従い誉め広める者が集まり、香草と悪草がみだりに混じった。これがどうして講学の初心であろうか。
- 語にいわく、「善を為すに名に近づくなかれ」と。士君子もまた身の処し方を知るべきである。