沈一貫を攻める
- 劉元珍、字は伯先、無錫の人。萬厯二十三年(1595年)の進士。はじめ南京礼部主事に任じられ、郎中に進んだ。親が老いたので帰って養い、南京職方に起用されて、老弱の営兵を整理・淘汰し、年に銀二万両あまりを節約した。
- 萬厯三十三年(1605年)の京察で、吏部侍郎楊時喬・都御史温純が政府の私人である錢夢臯らをことごとく退けた。大學士沈一貫がひそかに手を回し、詔によって退けられた給事・御史はみな留任となり、そのうえ考察の疏は下されなかった。
- 元珍はちょうど喪明けで任官待ちの身であったが、抗疏して言った。「一貫は政を執って以来、佞人と親しみ、奸悪の徒を集め、至尊の権を借りて私を売り、朝廷の恩を盗んで徳を売っている。上を欺いて不忠であること、これに過ぎるものはない。近ごろ夢臯の疏を見るに、いつも『党』の一字で人を陥れる。古来、小人で朋党の説によってまず善良な者を空しくしなかった者はない。治乱・安危の機にかかわることで、些細な事ではない」と。
- 疏は奏上されて宮中に留め置かれた。一貫はしきりに自ら弁明し、「独断の意を明示して群疑を解いてほしい」と乞うた。夢臯もまた元珍を温純の鷹犬だと誹謗した。疏はいずれも返答がなかった。
- まもなく廷臣に「言官を留任させる理由」を諭す勅が下り、元珍は一階級を貶されて辺境に回された。一貫は救うふりをし、給事・御史の侯慶逺・葉永盛らも争ったが、聴かれなかった。
- 当時、員外郎賀燦然・南京御史朱吾弼が相次いで考察の典を論じ、主事龎時雍に至っては直接に一貫を攻め、その欺罔十事・誤国十事を挙げ、そのうえ言った。「一貫の富貴が日ごとに高まり、陛下の社稷は日ごとに壊れる。先ごろ南郊に雷が震ったのは、ちょうど一貫が勅諭の頒行を奏請した時であった。思うに天がその奸を厭い、陛下に警告して早く讒慝を除かせようとしたのではないか」と。
- 帝は疏を得て怒り、元珍・燦然ともども三階級を貶して最果ての辺境に回すよう命じた。ほどなく慶逺および御史李柟らが救おうとしたので帝はいよいよ怒り、その俸を奪って、元珍らを最果ての辺境の雑職に左遷した。まもなく御史周家棟が時政を指弾して言葉が過激だったので、帝は怒りを移して元珍らをみな除名した。しかし考察の疏も下され、留任とされた者はみな自ら辞めて去った。
光宗の即位と劉國縉弾劾
- 光宗が即位すると元珍は光禄少卿に起用された。当時、遼陽・瀋陽はすでに落ち、元贊畫主事の劉國縉が南四衛に入り、軍民の招撫を名目として督餉侍郎に牒を投じ、船を出して南に渡らせた。議者はこれを東路巡撫に推そうとした。
- 元珍は上疏した。「國縉は李成梁の義子である。成梁が封彊を棄てたとき、國縉はその赦免に奔走し、ついに禍の基を作った。楊鎬・李如柏が軍を喪ったとき、國縉は贊畫になったばかりで、すぐ二人を保証する奏を出し、杜松を『違制』の罪から生かそうとした。遼人を用いるべしと言い出して官庫の二十万金を騙し取り、土着の兵三万を募りながら、一兵も役に立たなかった。弾劾されて官を解かれたのに、いまにわかに数万の衆を擁して登州・莱州へ道を求め、内地に潜り込もうとしている。万一、敵が間諜を紛れ込ませたら、どう備えるのか」と。
- 疏は兵部に下され、巡撫にする議はついに沙汰止みとなった。まもなく元珍は在官のまま没した。
- 元珍ははじめ罷免されて帰ったとき、講学を事とし、節義の人を表彰し、鰥寡を救済したので、行義は当時に重んじられた。
龎時雍(附伝)
- 時雍は汶上の人。萬厯二十年(1592年)の進士。丹徒知縣を務め、戸部・兵部の二部の主事を歴任した。除名されたのち、起用されないまま没した。