明史卷二百三十一 列傳第一百十九 于孔兼

吳時来の諡を争う

  • 于孔兼、字は元時、金壇の人。萬厯八年(1580年)の進士。九江推官に任じられ、入って礼部主事となり、再び遷って儀制郎中となった。
  • 都御史吳時来は晩節を全うしておらず忠恪の諡は当たらないと論じ、あわせて楊爵・陳瓚・孟秋に諡を賜るよう請うた。そこで時来の諡は奪われ、爵には忠介の諡が与えられた。

王家屏の去就と三王並封

  • 大學士王家屏が冊立を争って辞職を求めると、孔兼は上言した。「陛下は内寵の情に従って主鬯の器(皇位継承者)を揺るがし、輔臣の言を納れずかえって諫官の罰を重くし、そのうえ吏部に怒りを移して三人を削籍された。そもそも萬國欽が罪を得たのは申時行に、饒伸が罪を得たのは王錫爵によるので、陛下に罪を得たのではない。輔臣が数千里の外から朝廷の権をこのように遥かに制するとは。陛下がこれで恩を示し、彼らを呼び戻して他の企てをともに成そうとされるのではあるまいか。陛下の近日の挙以来、善良な者は寒心し、邪臣は手を打って喜んでいる。将来、君に迎合する者はいよいよ巧みになり、あらかじめ教育する時期は定まらない。申生や楊廣が今日ふたたび現れるならば、宗廟の不利であって、ただ臣らの憂いにとどまらない」と。
  • 帝は疏を得て激怒したが、結局は宮中に留め置いた。
  • 翌年正月、三王並封の詔が出ると、孔兼は員外郎陳泰来と合疏して争った。「立嫡の訓は古よりあるが、祖宗以来を歴考しても、東宮の位を空けて嫡子を待った例はない。昔、陛下が東宮に正位されたのは年わずか六歳、仁聖皇太后は盛年であられたが、先皇帝は少しもお待ちにならなかった。陛下は覚えておられぬはずがない。地位が接近すれば嫌疑が生じ、礼が異なれば分が定まる。願わくは新たな詔を撤回されたい。建儲と封王を同時に挙げれば宗社は幸甚である」と。
  • 返答がないので孔兼はさらに言った。「陛下は『嫡を待つ』の説を堅持され、群臣が謗るのを疑い、また朝綱が逆さまだとして、諫める者を『君に無礼』の罪に問おうとされる。そもそも元子を立てるべきで猶予は許されないと言うのは君子であって、これこそ君に礼ある者、王如堅ら諸人である。並封は行うべきだと上意に迎合するのは小人であって、これこそ君に無礼な者、許夢熊ただ一人である。いま無礼の罪をその君に礼ある者に加えて、どうして人心を服させ国法を明らかにできようか。臣が思うに、巫蠱の謗りは堯母(漢の鉤弋夫人)から始まり、承乾の誅は偏愛から成った。古来、乱臣で君主の隙を窺い迎合してその奸を遂げなかった者はない。はじめ錫爵が二つの詔をともに擬したのは、国に背き君を誤らせること大であった。初めに君心を転じて決断させることができなかったのに、門を閉じて辞職することを策としている。前に失策がなければ一度去って名を成せるが、失敗してのちに争い、争って容れられなければ、去っても責を塞ぐに足りない。人は『錫爵は言い尽くさぬことはない、ただ陛下の聴断が行われぬのが苦しいのだ』と言うが、臣は『陛下の悔い改める心はすでに萌している、ただ錫爵の誠意が至らぬのが憂わしい』と言う。もし「そのうち、そのうち」と言って君父の過挙を座視するなら、錫爵はたとえ宗社のために計らずとも、自分の名のためにも計らぬのか」と。
  • ちょうど廷臣に諫める者が多く、事はついに沙汰止みとなった。
  • まもなく考功郎中趙南星が京察の件で削籍されると、孔兼と泰来はそれぞれ疏して救った。帝は前の恨みを重ねて、孔兼を安吉判官、泰来を饒平典史に左遷した。
  • 孔兼は辞表を投じて帰り、家に居ること二十年、門を閉じて読書し、身の処し方が整然としていたので、郷人は挙って褒め、非難する者はいなかった。

陳泰来(附伝)

  • 陳泰来、字は伯符、平湖の人。十九歳で萬厯五年(1577年)の進士となり、順天教授に任じられ、国子博士に進んだ。
  • 執政と言論の官が水火のごとく対立するのを見て、上書して諌めたため、五年間、昇進しなかった。
  • 南京礼部郎中の馬應圖は泰来と同邑・同年の生であった。十三年(1585年)、應圖は上疏して執政を諷刺し、また給事中齊世臣・御史龔懋賢・蔡系周・孫愈賢・吳定を力めて誹謗する一方、吴中行・趙用賢・沈思孝・李植ら諸人を盛んに称えた。上意に逆らって大同典史に左遷された。
  • 給事中王致祥・御史柴祥らは執政の意に迎合して章を連ねて應圖を弾劾し、「泰来が奏章に手を入れた」と言った。帝は應圖がすでに貶められたので不問に付した。
  • 泰来は病と称して帰り、久しくして礼部主事に起用され、員外郎に進んだ。建儲を疏請したが返答はなく、翌年に没した。享年三十六。
  • 天啟中、孔兼と泰来はともに光禄少卿を贈られた。
  • 于氏は金壇の名門である。孔兼の祖父の湛は戸部侍郎、兄の文熙は大名兵備副使、再従弟の仕亷は南京戸部侍郎で清らかな声望があった。