明史卷二百三十一 列傳第一百十九 錢一本

武進の人、字は國瑞。廬陵知縣から御史に召され、着任早々に前江西巡按祝大舟の貪汙を摘発して流刑に処させ、曹端・陳眞晟・羅倫・羅洪先の従祀を請うた。広西に按察して「論相」「建儲」の二疏を上げ、申時行が朝政を総べて票擬を独占する弊を十条に分けて論じ、あわせて鄭貴妃の寵と建儲の遅延を世宗の朝には無かった四事として指弾した。その言は当時もっとも愚直率直とされて帝に恨まれ、給事中孟養浩の廷杖に連座して庶民に落とされた。罷免後は六経と濂洛の書に潜心してとくに易学を究め、顧憲成らと分かれて東林の講席を主宰し、啟新先生と呼ばれた。郷里に二十五年居り、あらかじめ没する日を定めて詩に記し、そのとおりに逝った。天啟の初め、太僕寺少卿を贈られた。

年表(4件)

出仕と祝大舟の摘発

  • 錢一本、字は國瑞、武進の人。萬厯十一年(1583年)の進士。廬陵知縣に任じられ、召されて御史となった。
  • 台(都察院)に入るとすぐ、前任の江西巡按祝大舟の貪汙の実状を摘発し、大舟は流刑に処せられた。
  • また曹端・陳眞晟・羅倫・羅洪先を文廟に従祀するよう請うた。

論相の疏(十の当に論ずべき事)

  • 広西に按察に出た。帝は張有徳が大礼の儀物を準備するよう請うたのを口実に、また冊立東宮の期日を変更したが、申時行は国政を執りながら匡救できなかった。一本は「論相」「建儲」の二疏を上った。「論相」の要旨は次のとおり。
  • 先日、詔が輔臣に下り、輔臣に政を総べさせられた。そもそも朝廷の政を輔臣が総べてよいはずがない。内閣は言葉を代作して詔を擬すもので、もとは顧問の遺制である。章奏があれば閣臣はそれぞれ一案を擬すべきなのに、いまは時行一人の専断から出ている。皇上の裁断が十のうち一、時行の裁断が十のうち九。皇上の裁断も聖旨、時行の裁断も聖旨。ただ嫌疑や怨恨の生ずるところだけは「聖断より出た」と言う。その罪は誅しきれない。当に論ずべき第一である。
  • 評事雒于仁が「四箴」を進めたとき、陛下はこれを実行に移そうとされたのに、輔臣は強いて宮中に留め置くよう勧めた。輔臣に言及する章もすべて留め置いて下さない。わが君を導いて非を遂げ過ちを飾ること、これほどである。どうして忠を尽くし過ちを補うことを望めようか。当に論ずべき第二である。
  • 科場の弊は人の口の端に汚らしく上るのに、あえて「もとより私弊なし」との詔を擬してわが君を欺いた。臣は請う、執政の子弟で及第して人に指弾された者は除名して蔭官に改め、また現に仕籍にある者は暫く郷里に帰らせ、父が致仕してから進退を議されたい。犬馬の主に報いる心を、牛馬のごとき子孫の計に負けさせてはならない。当に論ずべき第三である。
  • 大臣は身を国に殉じるもの、どうして家などあろうか。それを遠方の臣を近臣とし、府庫まで遠近の臣を合わせて内閣の府庫としている。門を開いて賄賂を受けるのは執政から始まっているのに、毎年贈答の禁を申し渡して何になろうか。当に論ずべき第四である。
  • 墨敕斜封(正規の手続を経ぬ任命)は前代の患いであり、密かに啓上して事を言うのは先臣のしなかったことである。いま閣臣は救援の挙にせよ密かな謀にせよ、みな掲帖にして進める。たとえ格言・正論・讜議・忠謀であっても、すでに斜封・密啓の類であって、公に聴き並べ見る正道ではない。まして、言うところが公正ならば天下とともに公に語ればよく、言うところが私であれば忠臣は私しないものである。どうして中書省の故事を援いて留中の弊端を開き、恩怨の由って来るところを明らかにし、威福が自分にあることを示すのか。当に論ずべき第五である。
  • わが国家は古に倣って治め、部院は職を分けた六卿、内閣は道を論ずる三公である。三公が六卿の権をことごとく攬って一人の掌握に帰し、六卿がまた頭を垂れ息を殺して三公の命に唯々諾々と従い、必ず指図を仰いでから行うなどとは聞いたことがない。当に論ずべき第六である。
  • 三公の職は道を論ずることにある。師は道を教えるものだが、いま経筵は年を越えて開かれない。何の師か。傅は徳義を傅けるものだが、いま外の国庫は空乏し私蔵は充ち満ちているのに一つも正せない。何の傅か。保は身体を保つものだが、いま聖躬は常年静養され、なお多病を口実にされる。何の保か。その兼銜には必ず「太子の師・傅・保」というのに、皇元子冊立の儀は今また延期された。臣にはその兼ねる職が何なのか分からない。当に論ずべき第七である。
  • 翰林の道は「儲相」と称され、資歴を積み階を上って卿位に列なり、必ず宰相を得ようと窺う。こうして国家の宰相を命ずる大任は、わずかに閣臣が引き立てる私物となった。凡庸な者は軟弱に取り入る態度を習い、狡猾な者は人を凌ぎ奪う謀をほしいままにする。外から推し内から引き、宦官と閣臣が表裏をなす。初めが正しくないのに、どうして終わりを望めようか。だから従来、内閣の臣はひとたびその位を占めれば、長ければ二十年、短くとも十年、失敗するまでやめない。嚴嵩の戒めは遠くないのに居正がこれを踏み、居正の戒めは遠くないのに時行がまた踏んだ。その後を継ぐ者は凡庸・駑鈍で、あるいは時行よりひどく、偏狭・執拗ではまた居正となろう。常格を大いに破り、天下を公にして選挙を行わなければ、宰相の道はついに語りえない。当に論ずべき第八である。
  • 先人は草刈り・木こりにも意見を尋ね、明王は誹謗の木を立てた。いま大臣は人が自分を攻めるのを恐れて天下の口を鉗しようとし、奸・邪・浮薄と目さなければ、必ず讒・謗・小人と罵る。目前の耳目は塗り塞げても、身後の是非は誤魔化しがたい。当に論ずべき第九である。
  • 君臣の分は天地に等しい。いま上がこれを「総政」と名づけ、自分もまた「総政」と居直り、その身を寵利の極みに置き、弾劾に耐え辱に耐えて、必ず位のまま老死してやめない。古にいう元老大臣とは、かくも進退存亡を知らぬものであろうか。大臣にすでに進みがたく退きやすい節がなければ、天下にどうして貪欲な者が廉となり懦弱な者が立つ気風があろう。一世の人心・風俗は、物乞いと利を独占する穴に糜爛して滔々と止まらない。ゆえに陛下の治世は、前の数年は操切・惨刻に堪えず勢いの炎が人を焼き、後の数年は姑息・委靡に堪えず賢愚が一緒くたである。前の政は居正が総べ、今の政は時行が総べて、いずれも朝廷が総べていないからである。当に論ずべき第十である。
  • しかし君の道は宰相を論ずるに先立つものはなく、人を取るのもまた君自身にある。願わくは陛下、国本を児戯とされるな。昔、孔子は「九経」を君に告げるにあたって修身と勧賢を先にした。おおよそ讒夫・女謁・貨利の交わりは、ひとたび惑溺すれば内は心志が決して清明ならず、外は身体が決して強固ならぬ。まして艶やかな褒姒にして善く讒する驪姫のごとき者が、狐のように媚びてその心を蠱かし、鹿臺がまたその志を移すとあれば、陛下の胸中が自ら持しえないところが多いと臣は知っている。それでどうして徳を貴び士を尊んで身を修め人を取れようか。

建儲の疏(世宗の時に無かった四事)

  • 「国本を論ずる」疏の要旨は次のとおり。
  • 陛下が建儲を遅らせるのは、皇祖世宗の先例に倣おうとされるからだという。しかし皇祖は中年に荘敬を太子に立て、皇考を裕王に封じられた。終始太子を立てなかったのではない。まして今日の事態はまるで違う。
  • 皇貴妃の寵は皇后を超え、その心づもりは一日として嫡を奪う心を萌さぬ日なく、一日としてその子を援け立てる計を思わぬ日はない。これは世宗の時に無かったことである。
  • およそ子は必ず母に依るもの。皇元子の母は皇貴妃の下に押さえられている。陛下は「長幼に序あり」と仰せ、皇貴妃は「貴賤に等あり」と言う。もし一日その嫡を奪う心が遂げられたら、陛下はこれをどう処理されるのか。これも世宗の時に無かったことである。
  • 景王が封地に就いたときは皇考ただ一人が都にあった。いまは章服の区別もなく名分も正しくない。弟は母の寵を恃んで朝夕近侍し、母は子の立つのを望んで日夜功を積んでいる。これも世宗の時に無かったことである。
  • 伝え聞くところ、陛下はかつて皇貴妃に失言なさり、皇貴妃はこれを証文としている。いま決断されなければ蠱惑は日ごとに深まり、剛断は日ごとに萎え、事態は日ごとに難しくなる。これも世宗の時に無かったことである。
  • 先には「諸司は激擾するな」との詔があった。これは遅延を招くばかりで、陛下があらかじめ罠を仕掛けて天下の言者を防いだのではないか。期限が来ても一人も言及しなければ知らぬふりをして遅延を望み、一人でも言及すれば「これは私を激擾しに来た」として一年遅らせ、翌年また一人が言及すれば「またもや激擾しに来た」としてまた二三年遅らせ、天下に一人もあえて言う者がなくなるまでやめない。そうして、なんとか言い逃れて閨房の寵愛の私を全うし、国本がここから動揺し天下がここから危乱することは顧みない。臣は思う、陛下の人を防ぐ手口はきわめて巧みだが、謀としてははなはだ拙い。この程度の小細工では一介の男女も欺けまい。それで天下万世を欺こうというのか。
  • 疏は入ったが宮中に留め置かれた。当時、廷臣が相次いで国本を争ったなかで、一本の言葉が最も愚直で率直であり、帝はこれを恨んだ。
  • ほどなく給事中孟養浩が杖刑に処されたとき、中旨に「養浩がふるった言辞は一本に根を託して、言を造り君を誣い、大典を揺るがすものだ」とあり、ついに庶民に落とされた。しばしば推薦されたがついに用いられなかった。

東林の講席と晩年

  • 一本は罷免されて帰ると、六経および濂洛(周敦頤・程氏)の書に潜心し、とりわけ易学を精しく研究した。顧憲成らと分かれて東林の講席を主宰し、学ぶ者は啟新先生と呼んだ。
  • 郷里に居ること二十五年。あらかじめ没する日を定めて詩を賦してこれを記し、その日どおりに逝った。天啟の初め、太僕寺少卿を贈られた。

錢春(子・附伝)

  • 子の春、字は若木。萬厯三十二年(1604年)の進士。髙陽・獻の二県の知県を歴任し、召されて御史となった。
  • 太僕少卿徐兆魁が李三才を攻め、あわせて顧憲成を痛烈に誹謗すると、春は三度の疏でその奸邪を真っ先に暴いた。
  • 湖廣に按察に出て、礼部侍郎郭正域および光禄少卿顧憲成への恤典を与えるよう請うた。楚の宗室で偽王の件を訴えたために高牆(宗室の獄)に禁錮された者が多かったので、春は冤を訴え、続いて元の宗室の家属を釈放して帰すよう請い、言葉ははなはだ切実であった。
  • 咸寧知縣満朝薦が久しく繋がれていたのを釈放するよう奏請し、あわせて王邦才・卞孔時の釈放も請うた。
  • また二度にわたって守備の宦官杜茂を弾劾し、あわせて採鉱・榷税の害を詳しく述べて言った。「臣は皇上が小人の謀を聴かれ、名は漢の桓帝・唐の徳宗に並び、わが明の禍の基を作る主となられるのに忍びない」と。
  • 帝が湖廣の地を福王の荘田としようとすると、春は三度の疏で力争し、帝は詔を下して厳しく責めた。
  • 葉向髙が致仕して去り、方從哲が首輔となると、春は抗疏して言った。「いま天下の人材は朝廷が空で在野が充実し、貨財は在野が空で朝廷が充実している。從哲は正すことができず、ただ福王のことだけは何事も曲げて従う。臣はかねて、皇上には堯舜たる資質がありながら輔佐する人がないことを歎いてきた。わずかに王家屏・沈鯉を得たのに、ともに信用されなかった。その他はおおむね凡庸・悪劣・卑陋で、奸邪・嫉妬の徒である。まさか從哲に至って気風がいっそう下がろうとは。臣が聞くに、從哲は人に向かうたびに『内相(宦官)の意向だ』と言うという。これでは萬安・焦芳、さらには趙志臯・沈一貫にも及ばない」と。
  • 從哲は疏で弁明して辞職を乞い、帝は慰留して春の妄言・冒瀆の奏を責め、福建右參議として出した。まもなく父の喪に遭った。
  • 天啟の初めに元の官に起用され、召されて尚寳少卿となり、歴遷して光禄卿。五年(1625年)、魏忠賢の一党門克新が「春は東林を恃み、父が作り子が述べる」と弾劾したため、削籍されて帰った。
  • 崇禎九年(1636年)に召されて通政使を拝し、戸部右侍郎に遷り、尚書を歴任して倉場を総督し、弊を除く十事を条陳して行なった。労苦により暇を賜り、まもなく南京戸部尚書に起用された。皇太子の出閣(就学)を疏請して容れられた。しばしば疏して病を理由に辞そうとしたが許されなかった。
  • 九年(1636年)、戦守の策を条上し、あわせて賊を撃つべき三つの機会を論じ、帝は議のとおり勅して行なわせた。
  • 十一年(1638年)、黄道周・劉同升らが楊嗣昌の奪情を諫めて貶謫されると、范景文らが疏して救い、春の名もそこに連なっていた。翌年正月、景文は削籍されたが、春は不問に付された。
  • 春は御史として大いに評判があり、高官の地位に居っても職を全うして咎がなかった。たまたま白糧の折納への改正を疏請して上意に逆らい、罷免されて帰り、この年に没した。