出自と分宜知縣
- 馬孟禎、字は泰符、桐城の人。萬厯二十六年(1598年)の進士。分宜知縣を授かる。
- 内召されようとしたとき、賦の徴収が四分に及ばぬとして戸部尚書の趙世卿に弾劾され、詔して二秩を鐫られた。ところが三日で民の滞納がすべて完済されたので、鄒元標・萬國欽の輩がしきりに称えた。続いて御史を授かった。
李廷機・王錫爵を論ずる
- 文選郎の王永光、儀制郎の張嗣誠、都給事中の姚文蔚・陳治則が政府に附いて京卿に擢され、南京右都御史の沈子本は年が八十近いのにまだ政を辞さなかったので、孟禎はこれらを併せて疏で論じた。
- 大學士の李廷機が弾劾を受けて奏辨し「仕官して以来、初めから大きな誤りはない」と言うと、孟禎は駁して言った。「廷機は禮部にあって邪妄の司官である彭遵古と親しくし、聶雲翰が建言して時に忤うと抑えて死に至らしめた。政を執っていくらも経たぬのに姜士昌・宋燾・鄭振先がみな罪を得た。姚文蔚らは濫りに京堂を授けられ、陳用賓らはたびたび寛い旨を擬された。それでもなお誤りでないと言うのか」。
- 王錫爵が召しを辞するにあたり密疏で言う者を痛烈に詆ったので、孟禎および南京給事中の段然が並んで疏を上げて極論した。
- まもなく僉商の害を陳べ、工部郎の陳民志・范鈁の黷貨の罪を暴き、また壅蔽を通じ・直臣を録し・用捨を決し・民の窮を恤み・辺餉を急ぐの五事を陳べ、鄒元標・趙南星・王徳完を召し用い、廷機を田里に放つことを請うたが、いずれも報ぜられなかった。
三つの憂いを陳べる
- 三十九年(1611年)夏、怡神殿が焼けた。孟禎は言った。
- 二十年来、郊廟・朝講・召対・面議はことごとく廃れ、下情を通ずるものは章奏だけである。ところが疏が入り旨が出るのはすべて内侍を経る。それが御覧に達しているのか、果たして聖意から出ているのかも知りようがない。これが朝政の憂うべきところである。
- 臣子は流れを分かち戸を別ち、入れば主とし出れば奴とし、愛憎は心のままに、雌黄は口のままで、流言蜚語が禁庭に飛び込む。これが士習の憂うべきところである。
- 畿輔・山東・山西・河南はここ数年、旱と飢えが続き、民間では娘を売り子を売り、妻を食い子を啖い、危険を冒して走るのに何を択ぶ余裕もない。一たび呼べば四方が応じ、小盗が群れをなして豪傑の口実となる。これが民情の憂うべきところである。
- 帝はやはり省みなかった。
- 吏部侍郎の蕭雲舉が京察を佐けて庇うところがあったので、孟禎がまっ先に疏して攻め、論ずる者も日に増えたので、雲舉は身を引いて去った。
- 山海の參將である李獲陽が税監に忤って下獄し死んだので、孟禎は冤を訴え、あわせて卞孔時・王邦才・満朝薦・李嗣善らで獄にある者を寛くすることを請い、かつ「楚宗の一獄では死者がすでに多い。今、高牆に禁錮されている者も、誰ひとり高皇帝の子孫でない者はない」と言ったが、ここに至ってもみな聴かれなかった。
- 四十二年(1614年)冬、科道の考選で、中書舍人の張先房、知縣の趙運昌・張廷拱・曠鳴鸞・濮中玉が言論で時に忤って抑えられ加われなかった。孟禎は不平として疏を具して論じた。当時は三党の勢いが張っており、孟禎の讜直を忌んで廣東副使に出したが、病と称して赴かなかった。
- 天啓の初め、南京光祿少卿として起用され、召されて太僕に改まり、憂で帰った。魏忠賢が志を得ると御史の王業浩に論ぜられて削籍された。崇禎の初めに官を発せられた。
- 孟禎は若くして貧しく、顕達してからも家に余財はなかった。ただ趙世卿が己を抑えたことを恨み、台に入るとすぐ疏して世卿を弾劾したので、人は狭量とした。