明史卷二百三十 列傳第一百十八 姜士昌

丹陽の人、字は仲文。父は南京禮部尚書の姜寳で、五歳のとき「惟れ善を寳と為す」の句を父の名を避けて読まなかったと伝えられる。戸部主事・員外郎として章奏の留中の停止、直臣の録用、召対の実施、節倹を請い、徐顯卿・黄洪憲を黜け鄒元標・吕坤・李三才を抜擢するよう求めた。鄭貴妃の父鄭承憲に五千金が下されたときは太后の兄の例を挙げて過厚を諫め、早期の建儲も請うた。陝西提學副使・江西參政を経て、沈一貫を盧杞・章惇に比する長大な弾劾の疏を上げ、あわせて王錫爵の再出には黜けられた諸賢の召還が先だと諫めて李廷機を諷した。これによって三秩を鐫られ廣西僉事、さらに興安典史に謫された。散官にあってもたびたび論建し、齟齬したまま終わった。天啓の初め、太常少卿を贈られた。

年表(6件)

父の姜寳と出自

  • 姜士昌、字は仲文、丹陽の人。
  • 父の寳、字は廷善、嘉靖三十二年(1553年)の進士。編修に官したが嚴嵩に附かず、四川提學僉事に出され、福建提學副使に転じ、累遷して南京国子監祭酒。納粟の例を罷め積分の法を復すことを請い、また公・侯・伯の子弟および挙人をみな監に入れて学業を修めさせることを請い、詔していずれも従われた。累官して南京禮部尚書。かつて田千□を割いて宗族を養った。
  • 士昌は五歳で書を授けられ、「惟れ善を寳と為す」の句に至って、父の名(寳)のゆえに読むのをやめて拱手して立ったので、師は大いに奇とした。

戸部での言論

  • 萬厯八年(1580年)の進士。戸部主事に任じられ員外郎に進む。帝に、章奏の留中をやめ、遺された直臣を録し、召対を挙げ、節倹を崇ぶことを請うた。まもなく郎中に進み、親を省みるため去った。
  • 還朝して言った。「吏部侍郎の徐顯卿は張位を陥れ、少詹事の黄洪憲は力めて趙用賢を排した。黜けて官の邪を警めるべきである。主事の鄒元標、參政の吕坤、副使の李三才は素より直を著す仲間であり、抜擢して士の節を励ますべきである」。また連坐の法を復し、巡撫の選を慎み、苦節の士を旌し、贓吏の罰を重くすることを請うた。
  • 疏が入ると給事中の李春開が出位であると弾劾し、そこで詔を下して諸司が職を越えて刺挙せぬよう禁じた。
  • のち風霾によって早く国本を建てることを請うた。貴妃の父の鄭承憲が父の墓を改造することを乞い、詔して五千金を与えられた。士昌は「太后の兄の陳昌言でさえ五百金にとどまったのに、妃の家がその十倍とは、何をもって天下に示すのか」と言ったが容れられなかった。
  • やや遷って陝西提學副使、江西參政。

沈一貫を論じ王錫爵を諫める上疏

  • 三十四年(1606年)、大學士の沈一貫・沈鯉が相次いで国を去った。翌年秋、士昌は表をもたらして都に入り上疏した。その趣旨は次のとおり。
  • 皇上が一貫と鯉をともに去らせたことについて、輿論は一貫を去らせたのを快とせぬ者なく、鯉を惜しまぬ者はない。一貫は権を招き利を罔り、大いに士風と吏道を壊した。天下の林下に居る貞士で己と齟齬する者は一切阻んで将来を杜いだ。張居正に罪を得た諸臣で、皇上が素よりその忠義を知って抜擢に意を注がれた者も、みな排斥して用いず、甚だしきは他事に藉りて処分した。直道によって左遷された諸人で久しく遷転を経て休職中の者も、一貫はやはり排斥して用いなかった。在廷で正を守り阿らぬ魁偉老成の士も、少しでも異同があれば巧みに罷めさせた。かつ部院を空にして用いたい者を択ぶに便にし、言路を空にして為したいことを恣にするに便にし、天下の諸曹も部院・言路と同じようにして人に疑わせなかった。自分が用いたい者・為したい事については力を尽くさぬことなく志を得、欲せぬものについては涙を流して人に「わしの力では及ばぬ」と語った。誰もがその不忠を知っている。善は己に帰し過ちは君に帰したのである。
  • 鯉は身と家を肥やさず利便を択ばず、ただ多くの賢者を君に効すことだけを考えた。一貫と較べれば忠邪は遠く隔たる。一貫は帰ってから貨財は山のごとく金玉が堆く積まれているが、鯉の家は壁が立つばかりで貧しく余財がない。一貫と較べれば貪廉は遠く隔たる。一貫は鯉と邪正が相対して映えるのを患い、妖書の事に藉りて陥れようとした。皇上の聖明でなければ大きな過ちに至るところであった。
  • 臣は思う。輔臣で一貫のように憸邪なる者は、まことに古今の奸臣である盧杞・章惇と並べて三とすべきである。それなのに誰ひとり、鯉と一貫の賢奸を皇上のために正しく言い分ける者がない。臣はひそかにこれを痛む。
  • しかも一貫の起用は王錫爵が推挙したものである。今、一貫が去って錫爵が首揆に代わるなら、これは一貫がまだ去っていないのと同じである。錫爵は素より重い名があり一貫の比ではないが、器量が狭く善を憎むこと仇のごとくで、高桂・趙南星・薛敷教・張納陛・于孔兼・高攀龍・孫繼有・安希范・譚一召・顧憲成・章嘉禎らは一たび黜けられて復さなかった。近ごろ錫爵が遺佚を録することを請う疏を出したと聞くが、その請いのとおり諸臣を召し還し、しかるのち道に就くよう促されたい。そうでなければ錫爵も再び出る道理がなくなろう。
  • 一貫を論劾した諸臣、劉元珍・龎時雍・陳嘉訓・朱吾弼のような者もまた速やかに召し復して、忠を尽くし奸を暴く者への励ましとされたい。そのほか、忤ったことで中傷され、意見の違いから罷め去った臣も、順に取り立てて用いられたい。
  • 説く者は、皇上は諸臣に対して三たび明詔を下されたが、意は用いるようで実は用いる気がないのだと言う。臣ひとりはそう思わぬ。皇上は初め傅應禎・余懋學・鄒元標・艾穆・沈思孝・呉中行・趙用賢・朱鴻謨・孟一脉・趙世卿・郭惟賢・王用汲らを罷められ、のちまた魏允貞・李三才・黄道曕・譚希思・周𢎞禴・江東之・李植・曾乾亨・馮景隆・馬應龍・王徳新・顧憲成・李懋檜・董基・張𢎞岡・饒伸・郭實・諸夀賢・顧允成・彭遵古・薛敷教・呉正志・王之棟らを謫されたが、いずれもやがて抜擢して用いられた。近年、銓曹に改調された鄒觀光・劉學曽・李復陽・羅朝國・趙邦柱・洪文衡らも、南京においてやはり次第に清らかな官に還された。鄒元標は戍所から起こされてたびたび遷擢を蒙った。その後、一言も主に忤ったことがないのに、皇上が急に怒って南に調し禁錮して用いぬなどと言うのは、厚く皇上を誣いるものではないか。要するに、皇上にはもともと諸臣を用いぬ心はなく、輔臣に実際に諸臣を用いぬ策があるのである。
  • 説く者は、俗が流れ世が壊れたので潔清の臣を用いて表率とすべきだと言う。だが古今の廉相としてはただ楊綰・杜黄裳が推されるが、それは賢を推し士を薦めることができたからである。王安石にも清名はあったが、その学術を用いて諸賢を駆逐し、ついに宋を禍いした。輔臣たる者はこれを鑑みずにおれようか。
  • その意はひそかに李廷機を諷したものであった。廷機は大いに怒り、疏で弁じて「人才の起用について、臣らは至尊の権を干さぬばかりか、どうして吏部の職を侵しましょう」と言った。士昌は疏を見てさらに書を送って諫めたので、廷機はますます不快であった。しかし帝はなお士昌を罪する意はなかった。
  • 折しも朱賡もまた廷機と同じ趣旨で疏で弁じたので、帝はそこで士昌の疏を下して罪せよと命じた。吏部侍郎の楊時喬、副都御史の詹沂が軽い罰を請うたが許されず、詔して三秩を鐫って廣西僉事とした。御史の宋燾が救いを論じてまた一貫を批判し廷機を刺したので、帝はいよいよ怒り、燾を平定判官に謫し、あらためて士昌を興安典史に謫した。
  • 士昌は学を好み名節に励み、常に時を憤り俗を疾んで身をもって挽回しようとした。それゆえ散官に居ながらもたびたび論建し、ついに齟齬したまま終わった。
  • 士昌が謫された翌年、禮部主事の鄭振先が賡らの大罪十二を弾劾し、やはり三秩を鐫って辺方に調用された。

宋燾――経歴

  • 宋燾は泰安の人。萬厯二十九年(1601年)の進士。庶吉士から御史を授かった。気にまかせて搏撃を好み、応天の諸府を按ずるに出て首輔の朱賡を斥ける疏を上げた。廷臣が続いて輔臣を責め備える請いを出したのは、その端が燾から発したのである。
  • 謫に坐してすぐ休暇を請うて帰り、家で卒した。天啓の初め、士昌に太常少卿、燾に光祿少卿を贈った。