明史卷二百二十九 列傳第一百十七 艾穆

出自と居正への抗直

  • 艾穆、字は和父、平江の人。郷挙により阜城教諭を署した。隣郡の諸生である趙南星・喬璧星はみなここで学んだ。
  • 国子助教として入る。張居正は穆の名を知って誥敇房中書舍人に用いようとしたが、応じなかった。
  • 萬厯の初め、刑部主事に抜擢され員外郎に進み、陝西で囚を録した。当時、居正の法は厳しく、囚の処決が定額に及ばぬ者は罪とされた。穆は御史と議して二人だけを処決した。御史が職責を果たせぬと懼れると、穆は「わしは決して人の命で官を博したりはせぬ」と言った。朝に還ると居正が気色ばんで責めたが、穆は「主上は幼年である。小臣は好生の徳を体して公平の治を佐けた。罪があるなら甘んじて受ける」と言い、一礼して退いた。

沈思孝との合疏と廷杖

  • 居正が喪に遭って奪情されると、穆は私居で歎息し、主事の沈孝思とともに抗疏して諫めた。その趣旨は次のとおり。
  • 居正の奪情以来、妖星が突如現れて光は中天に迫った。言官の曽士楚・陳三謨はあえて清議を犯してまっ先に留任を請い、人心はにわかに死に、国じゅうが狂ったようになった。今、星変はまだ消えぬのに火災が続いている。臣がどうして自らの死を惜しみ、血を灑いで一言、陛下に申し上げずにおられよう。
  • 陛下が居正を留められるのは、いつも社稷のためだと仰せになる。だが社稷が重んずるものに綱常に及ぶものはなく、元輔大臣は綱常の表である。綱常を顧みずして、どうして社稷が安んじられよう。
  • かつ、たまたま一度行うのは「例」であり、万世に易わらぬのは先王の「制」である。今、先王の制を棄てて近代の例に従って、どうしてよいものか。居正が今、例によって留まり、厚顔にも例に就いたとして、いつか国家に大慶賀・大祭祀があれば、元輔たる者は避ければ君臣の義を害し、出れば父子の情を傷つける。臣は陛下がどうやって居正を処されるのか、居正がどうやって自ら処するのか分からぬ。
  • 徐庶は母のゆえに昭烈に辞して「臣の方寸は乱れました」と言った。居正だけが人の子でなく、方寸が乱れぬということがあろうか。人臣の極みに位しながら、かえって匹夫の常の節も修めぬのでは、天下後世に何と申し開きするのか。
  • 臣は聞く。古の聖帝明王は人に孝を勧めたが、それに従って孝を奪ったとは聞かぬ。人臣たる者は孝を移して君に仕えるが、そのために奪われたとは聞かぬ。礼義廉恥をもって天下を風化してもなお足りぬのに、かえって奪って、天下の人の子にみな父母への三年の愛を忘れさせれば、常なる紀は墜ちる。いつか法度で整えようとしても、どうしてできようか。
  • 陛下がまことに居正を眷まれるなら、徳をもって愛し、奔喪して喪を終えさせ大節を全うさせるべきである。そうすれば綱常が立って朝廷は正され、朝廷が正されて百官万民もみな正に帰し、災変も弭められぬものはない。
  • このとき吳中行・趙用賢は、居正に奔喪させ葬りを終えて還朝させよと請うたが、穆と思孝はまっすぐ喪を終えさせよと請うたので、居正はとりわけ怒った。中行・用賢は杖六十、穆・思孝はいずれも八十で、梏拲を加えて詔獄に置いた。三日後、門の扉に載せて城外へ運び出し、穆は涼州に遣戍された。傷が重く人事不省であったが、やがて蘇って戍所に赴いた。
  • 穆は居正の同郷であった。居正は人に「昔、厳分宜のときには同郷の者が攻撃したことはなかった。わしは分宜にも及ばぬわ」と語った。

復官と四川巡撫

  • 九年の大計で、また穆と思孝を考察の名簿に入れた。居正が死ぬと言官が交々薦めたので、戸部員外郎として起用され、四川僉事に遷り、たびたび遷って太僕少卿となった。
  • 十九年(1591年)秋、右僉都御史に抜擢され四川を巡撫した。前の崇陽知縣である周應中、賓州知州の葉春及は行義が人に過ぎるとして、穆は自分の代わりに彼らを挙げたが取り上げられなかった。
  • 任地に赴くと、播州宣慰使の楊應龍が叛いたと告げる者があり、貴州巡撫の葉夢熊が征討を請うた。蜀の人の多くは應龍が強く軽々しく事を起こすべきでないと言い、穆も兵を加えたくなかったので、夢熊と意見を異にした。朝命で両巡撫が会同して調べることになったが、應龍は貴州に赴くことを願わなかったので、重慶に逮えて対決させ、斬に論じたうえ贖を出させて釈放し帰した。穆は病で帰り、まもなく卒した。のち應龍が再び叛くと、議する者は追って穆を咎め、その職を奪った。

喬璧星・葉春及

  • 喬璧星は臨城の人。右僉都御史となり、やはり四川を巡撫した。
  • 葉春及は歸善の人。郷挙により福清教諭を授かり、時政を陳べる書を上ることつらつら三万言に及んだ。終わりは戸部郎中。