明史卷二百二十八 列傳第一百十六 李化龍
長垣の人、字は于田。二十歳で嵩縣知縣となり胥吏の不正を摘発して県を治め、南京工部主事・右通政使を歴任した。遼東巡撫として董一元と謀り、遼陽・右屯を犯した巴圖爾・巴雅爾らを破って辺塞を服させ、兵部右侍郎に進んだ。小岱青の求めに応じて義州に木市を開くことを五つの利を挙げて上疏し、認められた。播州の楊應龍の乱では総督湖廣川貴軍務兼巡撫四川として八道の兵を編成し、百十四日で海龍囤を落として八百余年続いた楊氏を絶ち、遵義・平越の二府を置いた。のち総理河道として泇口の運河を開いて呂梁の険を避け、兵部尚書・戎政尚書として京営と遼東の弊を条陳したが容れられず、在官のまま七十で卒し、襄毅と諡された。
年表(9件)
- 萬厯二年1574年進士に及第し嵩縣知縣となって胥吏の不正を摘発する
- 萬厯二十二年四月1594年巴圖爾らが遼陽を囲み錦・義を犯し、韓取善に代わって遼東の職を引き継ぐ
- 萬厯二十二年夏1594年右僉都御史に抜擢されて遼東を巡撫する
- 萬厯二十七年三月1599年総督湖廣川貴軍務兼巡撫四川として楊應龍の討伐に当たる
- 萬厯二十八年二月1600年川・黔・楚の八道に分かれて播州へ進軍する
- 萬厯二十八年六月1600年劉綎が海龍囤の二城を破り、楊應龍が縊れて播州が平定される
- 萬厯三十一年四月1603年総理河道として直河から泇口を経て夏鎮に至る二百六十里を開く
- 萬厯三十五年夏1607年戎政尚書として起用され、京営の弊と屯政十二事を上奏する
- 萬厯三十七年正月1609年京師に寇来の虚報が流れて九門が閉ざされ、遼の増兵と税監の停止を請う
出自と嵩縣の治績
- 李化龍、字は于田、長垣の人。萬厯二年(1574年)の進士で、嵩縣知縣に任じられた。年はわずか二十で胥吏は彼を侮ったが、化龍はひそかにその不正を調べ上げ、ことごとく召し出して法に処した。県中は大いに治まった。
- 南京工部主事に遷り、右通政使を歴任した。
遼東の巡撫
- 二十二年(1594年)夏、右僉都御史に抜擢されて遼東を巡撫した。
- もともと総兵官の李成梁が泰寧の蘇巴爾噶を破って殺し、その子の巴圖爾と弟の綽哈が旧遼陽以北、両河の間に拠って土黙特と結び患をなしていた。
- この年四月、巴圖爾が遼陽を囲み、朶顔の小岱青と福餘の巴雅爾が分かれて錦・義を犯し、清河・細河を掠めた。巡撫の韓取善は罪を問われて免ぜられ、化龍が職を引き継いだ。
- わずか二月で、巴圖爾・巴雅爾らが鎮武を侵し、さらに土黙特の子の布延台吉と約して右屯を犯した。巴圖爾が先に呉家墳に至ると、化龍は総兵官の董一元と計を定めてまず巴圖と巴雅爾を撃った。巴雅爾は流れ矢に当たって死に、巴圖は傷を負った。布延台吉が至って右屯を攻めたが利あらず、囲みを解いて去った。
- そこで巴圖・小岱青・布延台吉はますます結束して先の恥を雪ごうと謀った。化龍は一元と厳重に備え、一元はまた塞を出て本拠を衝いて功をあげた。巴圖は傷が重くついに死に、辺塞は畏れ服した(詳細は一元の伝にある)。化龍は兵部右侍郎に進んだ。
木市開設の上疏
- 翌年、小岱青が非を悔いて塞に和を請い、義州で木市を開くことを求め、あわせて朶顔の長安が辺を犯そうとしていると告げた。のち長安が果たして錦・義を犯し、副総兵の李如梅が撃退した。岱青の言が信ずるに足ると分かったので、化龍はその要請を許し、上疏した。
- 上疏の趣旨は次のとおり。
- 遼を取り巻くのはすべて敵である。北方の土黙特部は数え切れず、辺に近いところでは、寧前に向き合うのは長安、錦義に向き合うのは小岱青、廣寧・遼瀋に向き合うのは巴圖・綽哈・呼達、開・鐵に向き合うのは巴雅爾・諾木圖、東辺の海西では蒙古の博羅納琳・博囉布扎爾である。いずれも遼の地と背中合わせで、垣を並べて狩りをすれば刁斗の音が互いに聞こえるほどで、まさに脇の下の憂いである。
- 納琳・布扎爾が討たれてから数年、東の辺境は無事であった。去年は巴圖・巴雅爾が戦死し、綽哈・呼達は一敗地にまみれた。今、巴雅爾の子の宰桑は罰を受けて廣寧に入市しており、遼瀋・開鐵の警報はまれである。手なずかっていないのは小岱青と長安だけである。
- 小岱青はもとより凶悪狡猾で諸部の頭となり、西では長安を助け東では綽哈を助け、大挙するときは数万、小さく盗むときは飛騎で錦義の間に出没する。周之望・栢朝翠が戦死して以来、あえて一矢を報いる者もなく、凌河の上下数百里は野に骨がさらされ民に安んずる家がない。先を慮る者は常に河西が保てぬのではと憂えてきた。それが今、関を叩いて市を求めてきたのである。
- 将領および現地の住民に広く尋ねたところ、木市を開けば五つの利があるという。
- 利の一。河西には木がなくすべて辺の外にある。叛乱以来は河東に頼ってきたが、辺の警報でそれも不定期にしか届かず、河西では木材が玉より高い。市が通じれば材木は使い切れぬほどになる。
- 利の二。岱青について疑われるのは信義のなさだが、彼は市を生きる道として重んじており、市が立つ間は必ず掠奪しない。仮に今年市を開いて来年掠められても、こちらは今年掠められなかった利をすでに収めている。
- 利の三。遼東の馬市は成祖が開いたもので他に賞賜はなく、もともと商民に交易を任せたものである。木市も馬市と同じで、民に利があり官に費用がかからない。
- 利の四。大挙侵入の害はむごいがまれで、こそ泥の害は軽いが数が多い。小岱青が錦義を掠めなければこそ泥は減る。また西で長安を助けず東で綽哈を助けなければ敵の勢いは次第に分かれ、寧前・廣寧の患いも次第に減る。しかも大挙のときは先に報せがあるので予め備えられる。
- 利の五。こそ泥がまれになれば辺境の人はいっそう備えを整えられる。
- 疏が上がって採用された。
- 化龍はまもなく病で職を去り、木市も停止された。その後、総兵官の馬林があらためて開市を議したが巡撫の李植と対立し、議論は長く決しなかった。小岱青はふたたび寇となった。
播州の楊應龍討伐
- 二十七年(1599年)三月、化龍は旧官のまま総督湖廣川貴軍務兼巡撫四川として起用され、播州の叛臣楊應龍を討つこととなった。
- 應龍の先祖は楊鑑といい、明初に帰服して宣慰使を授かった。應龍は性質が疑い深く残忍で殺を好み、たびたび出征に従って功を恃んで驕り、四川の兵が弱いのを知ってひそかに蜀に拠る志を抱き、時おり州県を掠めた。
- 小妻の田雌鳳を寵愛し、その讒言によって妻の張氏を殺しその一家を屠り、誅罰によって威を立てたので、支配下の五司七姓はその虐政に堪えかねて貴州へ走り変を訴えた。巡撫の葉夢熊が大規模な征討を疏請したが詔は許さず、應龍は重慶の獄に繋がれた。應龍は兵を率いて倭を征し功を立てたいと偽って脱出し帰った。再び召喚されたが出頭しなかった。
- 四川巡撫の王繼光が兵を発して討ったが白石で敗れた。應龍は罪を諸苗になすりつけた。朝廷は邢玠を総督に任じたが、東西で用兵中のため徹底して処断できず、招撫した。應龍はますます生苗と結んで五司七姓の地および湖廣・貴州の四十八屯を奪って彼らに与え、毎年出ては侵掠した。
- この年二月、官軍を飛練堡で破り、都司の楊國柱、指揮の李廷棟らがみな死んだ。さらに綦江の參將房嘉寵、遊擊の張良賢を破って殺し、屍を投げ込んで江を覆って流した。偽の軍師である孫時泰は、ただちに重慶を取り成都を衝き蜀王を奪って人質とすることを請うたが、應龍はぐずぐずして、境界を争っているだけだと言い立て、以前のように罪を許されることを望んだ。化龍は成都に着いたが徴集した兵がまだ到着していなかったので、やはり偽ってよい言葉をかけて引き延ばした。
- 帝は綦江が破られたと聞いて激怒し、前の四川・貴州巡撫であった譚希思・江東之の官職を追奪し、化龍に剣を賜って臨機の処置で討伐させた。賊は東坡・爛橋を焼いて湖廣・貴州への道を塞ぎ、また龍泉を焼いて都司の楊惟忠を敗走させた。化龍は命令に従わぬ諸大将を弾劾し、沈尚文を逮捕して処罰し、童元鎮と劉綎はいずれも罷免して戴罪の身で職務に当たらせた。
- 諸軍が大いに集まると、化龍はまず水西の兵三万に貴州を守らせて苗を招く路を断ち、重慶に移って文武の諸将に大いに誓いを立てた。
- 翌年(1600年)二月、八道に分かれて進軍した。
- 川の軍は四路。総兵官の劉綎は綦江より、総兵官の馬孔英は南川より、総兵官の呉廣は合江より、副將の曹希彬は廣の節制を受けて永寧より。
- 黔の軍は三路。総兵官の童元鎮は烏江より、參將の朱鶴齡は元鎮の節制を受け宣慰使の安疆臣を統べて沙溪より、総兵官の李應祥は興龍より。
- 楚の軍は一路を二翼に分かつ。総兵官の陳璘は偏橋より、副総兵の陳良玭は璘の節制を受けて龍泉より。
- 各路の兵は三万、うち官兵が三割、土司の兵が七割。
- 貴州巡撫の郭子章は貴陽に駐し、湖廣巡撫の支可大は沅州に移り、化龍は自ら中軍を率いて策応した。帝は楚の地が広いとして、さらに江鐸を僉都御史に抜擢して偏沅を巡撫させた。湖廣に偏沅巡撫を置いたのは鐸に始まる。
- 推官の高折枝がまず南川の兵で進んで桑木鎮を占め、綎もまた綦江から入った。應龍は精兵二万を子の朝棟に属して「お前が綦江を破り南川へ馳せて蓄えをすべて焼けば、彼らは何もできぬ」と言ったが、諸路の兵に当たっていずれも大敗した。應龍は足を踏み鳴らして「わしは時泰の計を用いなかった。もう死ぬのだ」と歎いた。
- ある者が水西が賊に加担していると言ったので化龍が問いただすと、疆臣は賊の使者を斬り、両氏の交わりはついに絶えた。烏江の軍が敗れ、元鎮は逮捕されて司法に下された。諸将はいよいよ奮い立ち、綎はまず婁山關に入って直ちに海龍囤に迫り、璘と疆臣の兵も到着した。
- 賊は追い詰められて囤に上って死守し、使者を送って偽りの降伏を申し入れた。化龍は諸将に檄して使者を斬り書を焼かせた。綎は應龍と旧交があったので賊と通ずるなと諭され、綎はその使者を械につないで自らの潔白を示した。
- 八路の兵がみな囤の下に会し、長い囲いを築いて追い詰め、交代でかわるがわる攻めた。六月、綎が土城と月城の二城を破り、應龍は窮して二人の妾とともに縊れた。翌朝、官軍が城に入り、七人の子はみな捕らえられた。詔して應龍の屍と子の朝棟を市で磔にした。
- 出師から賊の滅亡まで、あわせて百十四日であった。播は唐の乾符年間に楊氏が入って以来二十九世八百余年、應龍に至って絶えた。その地に遵義・平越の二府を置き、四川と貴州に分属させた。
治河と兵部尚書
- 化龍は初め父の喪を聞いたが軍務のため起復していた。ここに至って帰って喪を全うすることを乞うた。
- 三十一年(1603年)四月、工部石侍郎・総理河道として起用され、淮揚巡撫の李三才とともに淤河を開くことを奏し、直河から泇口を経て夏鎮に至る二百六十里を通して黄河の呂梁の険を避けた。再び喪で職を去り、後任が定まらぬうちに、先の播州平定の功を叙して兵部尚書に進み、少保を加えられ、一子に世襲の錦衣指揮使を廕せられた。
- 三十五年(1607年)夏、戎政尚書として起用された。化龍は京営こそ国の根本であるとして、十一の濫、十二の苦、十九の宜を奏陳し、また屯政十二事を上ったが、いずれも取り上げられなかった。
- 兵部は二十七年以後、左右の侍郎がいずれも空席であった。まもなく尚書の蕭大亨も致仕し、化龍が部の事務を掌った。
- 三十七年(1609年)正月、京師で寇が来るという虚報が流れ、民は争って逃げ隠れ、辺の民で都門に逃げ込む者も数万に上り、九つの門は昼も閉ざされた。輔臣が「兵部尚書はただ一人、どうして急変に対応できよう」と言ったが、帝は返答しなかった。
- 遼の戦士二万余はみな老弱で、税監の高淮が暴虐を働き遼の人は歯噛みしていた。化龍は税の徴収を止めて兵一万を増やすことを請い、また兵糧と和戦の策を条を分けて上ったが、帝はいずれも返答しなかった。
- 一品の秩が満ちて柱國・少傅兼太子太保を加えられ、在官のまま卒した。年七十。諡は襄毅、少師を贈られ、さらに太師を加贈された。
- 化龍は文武の才を兼ね備えていた。播州の役では劉綎の驕慢をまず挫いたうえでその才を推薦したので、綎は力を尽くした。開河の功は漕運の水路に永く利をもたらした(詳細は河渠志にある)。
江鐸――家系と経歴
- 江鐸、字は士振、仁和の人。
- 高祖の玭は景泰のとき禮科給事中となり、石亨が寵を恃んで上を欺くのを弾劾して直言の名があり、官は山東參政に至った。
- 曾祖の瀾は正徳のとき南京禮部尚書となり、卒して諡は文昭。
- 祖父の曉は嘉靖中の工部侍郎。
- 父の圻は萬厯初の廣西提學僉事で、父母の病には薬を嘗め糞を舐め、喪に居っては苫に寝ること三年、寝室の前を通るときは必ず首を垂れ、妻も夫の喪の庵の前を通るときは同様にした。卒して門人が私に孝端先生と諡した。
- 玭から鐸まで五世いずれも進士である。曉の弟の暉は正徳中に庶吉士となり、舒芬らとともに南巡を諫めて杖を受け、世宗のとき編修から河南僉事に出た。
- 鐸は萬厯二年(1574年)に及第し、刑部主事を授かり、累進して山西按察使、偏沅巡撫に抜擢された。楊應龍を挟撃して功があり、郭子章とともに一子に世襲の錦衣指揮を廕せられた。母の喪に遭って去ったが、奪情して留められ、皮林の諸洞の蠻を討って平定した(詳細は陳璘の伝にある)。労苦による病で帰り卒した。兵部右侍郎を贈られた。
史論
- 贊にいう。巴拜は一人の降伏者にすぎず、爵位を仮りたとはいえ拠り所は厚くなかった。それが急に難を起こして鎮城に拠り、外の寇と連なって辺境を騒がせた。武備の弛みには由来があったのである。
- 楊應龍は悪が積もり極まって自ら滅亡を早めたが、長く盤踞して地形も険しく、精鋭の軍と武臣の力がなければ功を奏することは容易でなかった。
- 李化龍の功は韓雍・項忠と肩を並べるものであり、寧夏の役と比べれば難易は懸け離れている。