明史卷二百二十八 列傳第一百十六 魏學曽

涇陽の人、字は惟貫。戸部郎中として中官の巨額の支給要求を退け、遼東巡撫として土黙特の侵入を義院口に破り、屯田を整えて辺を安んじた。穆宗の崩後、高拱の追放をめぐって張居正を面と向かって責めたため退けられ、居正の没後にようやく南京の要職へ復した。萬厯十九年、王錫爵の推薦で兵部尚書・総督陝西延寧甘肅軍務となり、河套の圖們明安を撃って太子少保を加えられたが、その報復から巴拜の乱を招いた。寧夏の役では黄河の水攻めと招降の策を自ら立てて城を追い詰めたが、対応が緩慢だとして監軍梅國禎らに弾劾され、城の陥落する一月前に逮捕された。平定後、趙志臯・張位や國禎・李如松・葉夢熊自身の弁護によって旧官を復され、致仕して数年で卒した。

年表(11件)

篇首の立伝者一覧

  • 魏學曽(割注に附伝として葉夢熊・梅國禎)
  • 李化龍(割注に附伝として江鐸)

出自と初期の官歴

  • 魏學曽、字は惟貫、涇陽の人。嘉靖三十二年(1553年)の進士で、戸部主事に任じられ郎中に遷る。
  • 中官が商人のために芻糧の銀を巨万も支給するよう請うたが、學曽が不可として譲らなかったので沙汰止みとなった。
  • まもなく光禄少卿に抜擢され、右僉都御史に進んで遼東を巡撫した。

遼東の防衛と張居正との衝突

  • 隆慶の初め(1567年ごろ)、土黙特が永平へ大挙侵入した。學曽は山海に入って駐屯し、諸将の王治道らに檄して追撃させ、義院口で大勝した。右副都御史に進む。
  • 學曽は将吏を入れ替え、降ってきた者を招き入れ、屯田二千余頃を整理し、たびたび敵を破って賞賜を受けた。病で職を去る。
  • のち兵部石侍郎として起用され神樞營を提督し、まもなく吏部に移って左侍郎に転じた。
  • 穆宗が崩じ、大學士高拱が馮保を除こうとして言官に論劾させた。學曾は大學士張居正に書を送り、「世間ではみな公が馮保と謀っているといい、遺詔も公の手から出たという。今日の事態では、この宦官をかばうべきではない」と述べた。居正は激怒した。
  • 高拱が追放されると朝廷じゅうが色を失ったが、學曾ひとりが「主上が即位したばかりで顧命の大臣を追い出すとは。そもそも詔が誰から出たのかを百官に明示すべきだ」と大言し、諸大臣に居正の邸へ行って争うよう求めた。しかし多くの大臣は行かず、居正も病と称して辞退した。
  • これ以後ますます忤い、南京右都御史に出された。着任前に給事中の宗𢎞暹が居正の意を迎えて弾劾し、旧官のまま調任を待てとの詔が下ったので、學曾はそのまま帰郷した。
  • 居正が没して一年余、南京戸部右侍郎として起用され、右都御史に召されて倉場を督した。南京戸部尚書で致仕。

寧夏の役の総督となる

  • 萬厯十八年(1590年)、順義王の徹哩克が西の青海へ赴き、浩爾齊宰桑が洮河を犯して、副総兵の李奎・李聫芳が相次いで殺された。朝廷は尚書鄭洛に七鎮の経略兼総督を命じたが、洛は総督の兼任を固辞した。
  • 翌年(1591年)春、閣臣王錫爵の推薦で學曾が兵部尚書・総督陝西延寧甘肅軍務として起用された。当時、鄭洛はもっぱら和議(欵)を主としており、赴任した學曾と議論が合わなかった。陝西巡撫の葉夢熊が學曾を助けた。
  • 順義王の冊封のとき、夢熊は諫めて阻もうとして罪を得ており、學曾も高拱に不便であると述べていた。ここに至って徹哩克が叛徒を助けたので、學曾と夢熊はこれを討とうとし、鄭洛が寇をなおざりにしていると非難した。
  • ところが徹哩克が東へ帰り、浩爾齊の諸部も移り去った。學曽は「徹哩克は帰ったものの、ひそかに精兵二万を嘉峪に留め置き、浩爾齊宰桑を助けようとしている」と上奏したが、この説はもともと道端の風聞を拾ったものであった。朝廷の士はこぞって同調したが、錫爵は推薦を悔いて事情を疏に述べ、また夢熊を書面で責めた。兵部尚書の石星は、順義がすでに東へ移り宣府・大同の事態が急を要するとして鄭洛を召還し、撫議を定め、學曾の上疏は取り上げずに置いた。
  • まもなく河套の部長である圖們明安が、入市を終えたのちに賞賜の増額を要求した。學曽は総兵官の杜桐(神木)、參將の張剛(孤山)、遊擊の李紹祖に不意を突かせ、明安を撃ち斬り、俘虜と首級を合わせて四百八十余級、馬・家畜・武具を奪った。學曾はこの功で太子少保を加えられた。

巴拜の乱の勃発

  • 明安の子の巴延台が復讐を声言して諸部を号召し、翌年には巴拜が反乱を起こし、諸部を煽動して乱をなした。
  • 巴拜は西部の人で、嘉靖年間に罪を得て部長であった父兄がみな殺され、巴拜は脱走して来降した。驍勇でたびたび戦功を立て、先任の督撫であった王崇古・石茂華が相次いで副総兵の加官を奏請したので、多くの亡命者を抱え込んだ。
  • 子の承恩は、巴拜が妖しいものが妻の脇に入る夢を見て生まれたといい、狼のような姿で梟のように啼き、性は狼のように残忍であった。巴拜が老いると承恩が父の爵を継いだ。
  • 十九年(1591年)、洮河で警報があり、御史の周𢎞禴が承恩および指揮の土文秀、巴拜の義子である布延らを推挙した。巡撫の黨馨は文秀に西方の救援を檄した。巴拜は経略の鄭洛に謁見して子の承恩とともに出師することを願い出たが、馨はその自薦を憎んで抑えつけたため、巴拜は心中に怨みを抱いた。
  • 巴拜は金城で諸鎮の兵がみな自分より劣るのを見、賊が退いて塞外の道を通って還るとき、寇の騎兵は彼に遭うとみな道を避けたので、中央も地方も軽んずる心を持つようになった。
  • 馨はたびたび巴拜を抑え、また承恩の罪を調べて二十回の笞を加えた。布延・文秀も別の理由で馨を怨んでいた。折しも戍卒が衣服と糧を請うのに長く支給されなかったので、巴拜らは軍鋒の劉東𤾉・許朝をそそのかして乱を起こさせた。
  • 二十年(1592年)二月、黨馨と副使の石繼芳を殺し、総兵官の張維忠を縊死に追い込んだ。布延・文秀は遊擊の梁琦、守備の馬承光を殺した。東暘が総兵と称し、巴拜を謀主に奉じ、承恩と朝を左右の副総兵、布延と文秀を左右の參將とした。
  • 承恩は玉泉營・中衛・廣武を陥れ、河西は風になびくように従った。ただ文秀が攻めた平虜の參將蕭如薫だけは堅く守って落ちなかった。賊は河西の四十七堡を取り、渡河しようとし、さらに河套の卓哩克圖宰桑を誘って平虜・花馬池を犯させたので、陝西全体が震動した。

寧夏城の攻囲

  • 學曾は副総兵の李昫に遊擊の呉顯を率いて靈州へ向かわせ、別に遊擊の趙武を鳴沙州に遣わして河沿いに賊の南渡を阻ませ、自らは花馬池に駐して賊の衝路に当たった。昫らが渡河すると賊将の多くは逃げ、四十七堡はみな回復した。ただ寧夏鎮だけが賊の手にあり、卓哩克圖らが内外で呼応した。
  • 巴拜と文秀が趙武を玉泉に攻め、布延が卓哩克圖を引いて平虜を攻めたが、如薫が伏兵を設けて射殺した。昫が武を救援して囲みも解けた。
  • 四月、昫が兵を率いて前総兵の牛秉忠とともに鎮城の下に至った。帝はすでに董一奎を総兵、李蕡をその副に抜擢し、さらに如薫を一奎に、麻貴を蕡に代えていたが、まだ着任していなかった。昫らが城を攻めると、賊は東西の二門からそれぞれ驍騎三千を出して激突し、歩卒は火車を並べて陣とした。官軍がこれを撃って車百輌を奪い、追撃して湖に追い込み、賊は数え切れぬほど溺死した。
  • 副総兵の王通がとりわけ力戦し、家丁の高益らが勝ちに乗じて北門に入ったが、後続の兵が続かず殺され、通も負傷した。榆林の遊擊俞尚徳が戦死した。
  • 翌日、朝と文秀は慶王を脅して東城に上らせ、しばらく兵を止めてほしいと乞い、首謀者を差し出すと偽って言った。折しも官軍は糧が尽きたので引き退いて近くの堡で休んだ。
  • 學曾は日夜、飼葉と兵糧を急送させ、延綏・莊浪・蘭靖・榆林の兵を動員した。道が遠回りで、用意させた舟もまだ揃わなかったので、花馬池に駐して軍の到着を待ち、のち靈州へ移った。
  • まもなく延綏の遊擊姜顯謨、都司の蕭如蕙、甘州の前総兵張傑および麻貴の軍がみな到着し、あらためて鎮城に至って攻めた。賊は延綏・榆林の兵が出て内が手薄になったと計り、黄台吉の妻を抱き込み、その子の實達達、甥の浩爾齊・圖們塔類に旧安邊・磚井堡を掠めさせて官軍を牽制した。承恩はまた間道から寇の兵と合流し、延漢渠に伏せて糧車二百を奪った。
  • 學曽が花馬池から靈州に還ったところを包囲されたが、救援が至って解けた。貴らはたびたび城を攻めたが落とせなかった。賊は慶王妃を殺し、宮人と金帛をことごとく掠奪した。牛秉忠は右の股を負傷し、再び退いた。
  • 帝は尚書石星の意見を用いて學曾に尚方剣を賜り督戦させた。寧夏巡撫の朱正色、甘肅巡撫の葉夢熊、監軍御史の梅國禎、諸将の劉承嗣・董一奎・李如松が相次いで軍に到着した。六月、あらためて城を攻め、連戦したが落とせなかった。

葉夢熊――出自と経歴

  • 葉夢熊、字は男兆、歸善の人。嘉靖四十年(1561年)の進士。福清知縣から戸部主事に入り、寧夏へ兵糧を輸送する職に転じ、御史に改まった。
  • 把漢那吉の降伏を受け入れることを諫めて郃陽丞に貶され、累進して贛州知府となり、黄郷の賊を平定した。浙江副使に遷り、永平に改まる。
  • 萬厯十七年(1589年)冬、山東布政使から右僉都御史に抜擢され貴州を巡撫。まもなく陝西に改まり、右副都御史に進んだ。
  • 徹哩克の討伐を請うて経略の鄭洛と意見が対立した。廷議は洛の側に立ち、夢熊の議は退けられて用いられなかった。徹哩克が東へ帰り、洛も宣府・大同に還ったので、夢熊を甘肅に移して學曾と共に事に当たらせた。
  • 夢熊は胆力があり決断して事に当たった。巴拜が反乱すると討伐を上疏し、帝もこれを認めたので、六月に靈州に至って學曾と合流した。

梅國禎――出自と李如松の推薦

  • 梅國禎、字は克生、麻城の人。若い頃から雄々しさを自負し、騎射に長じた。萬厯十一年(1583年)の進士で、固安知縣に任じられた。
  • 中官が来て民から債を取り立てるよう請うたので、國禎は偽って民に妻を売って返済させる命を出し、民の夫婦が悲嘆したのを見て中官は証文を破棄した。御史に抜擢される。
  • 巴拜が反乱し、學曾の軍が長く功をあげなかったとき、寧遠伯の李成梁がちょうど弾劾を受けており、廷議は彼を大将として派遣しようとしたが決しかねていた。國禎ひとりが上疏して成梁を保証したので、成梁の子の如松を提督として遼東・宣大・山西の諸鎮の兵を率いさせ、國禎がその軍を監することとなり、如松とともに寧夏に至った。

招降の失敗と黄河の水攻め

  • 初め、學曽は東暘と朝を招いて、巴拜父子を殺して罪を贖わせようとし、兵卒の葉得新を遣わした。四人はちょうど生死を共にすると誓ったところで、得新の脛を折って獄に置いた。
  • 巡撫の朱正色は、賊が偽って降伏を請うていると見た。張傑はかつて寧夏の兵を統べており巴拜と親しかったので、傑を城に入れて招かせた。朝は得新を担ぎ出して傑に見せたが、得新は賊を大罵して殺され、傑も拘束されて還らなかった。學曽が賊の招撫要請を取り次いだので、帝はこれを厳しく責めた。
  • このころ城中の百戸姚欽と武生の張遐齡が城外へ矢文を射て内応を約し、夜半に火を挙げたが外の兵が来なかったので、賊は彼らの一党五十人を殺した。欽は縄で城を下りて逃れてきた。
  • このとき賊は、外には招撫を求めて兵を緩め、内では寇と結んで助けとしていたが、糧が尽きて勢いは困窮していた。
  • 七月、學曾は夢熊・國禎と計を定め、黄河の大壩を決壊させて水を注ぎ込んだ。水は城下まで達した。
  • このとき河套の寇である布色圖・章圖哩が三万騎で定邊・小鹽池を犯し、圖們塔類を前鋒とし、別に宰桑を一万騎で花馬池西の沙湃口から入れて巴拜の声援とした。麻貴が右溝でこれを撃ち、寇はやや挫けて下馬關と鳴沙洲へ分かれて向かった。
  • 學曽は遊擊の子敬に沙湃口を扼させ、延綏総兵官の董一元に圖們塔類の本拠を衝かせ、斬首百三十余級。寇は大いに驚いて引き去ったが、途中で子敬に遭遇して十重に囲み、子敬は戦死し、寇も去った。賊の援軍はこれで絶えた。
  • 學曾はいよいよ大壩の水を切った。八月、河が決壊して堤が壊れたので修復した。城外の水深は八、九尺となり、東西の城壁が百余丈崩れた。卓哩克圖宰桑がまた李剛堡に侵入したが、如松・貴らが撃ち破り、賀蘭山まで追撃した。賊はいよいよ懼れて和議を求めたが決着せず、そのうちに學曾が罪を得て罷免され、朝命によって夢熊が代わり、夢熊が功を成すこととなった。

罷免と寧夏の平定

  • 學曾が人を遣って東暘・朝を招いたとき、固原に十余日留まって返事を待った。帝はその寇をなおざりにする態度を責めた。また李昫の渡河がやや遅れ、松山・河套の寇が先に侵入したため官軍は再び敗れた。
  • 學曾はかつて監軍が兵事に関与しないよう上疏し、帝が國禎を戒めていたので、國禎はこれを深く恨んでいた。軍に着くと諸将の日和見を弾劾し、寇をなおざりにしたことを學曽の罪とした。給事中の許子偉も、學曾が招撫に惑って国事を誤ったと弾劾した。
  • 國禎はさらに「僉事の隨府が城上から飛び降り、賊が四人を下ろして我が軍から奪おうとしたのに、目の前でありながら誰も前へ出なかった。また北の寇数万が我が糧道を断って殺戮は数え切れないのに、學曾はそれを隠して奏上しなかった」と述べた。帝は激怒し、學曾を京師に逮捕した。
  • しかし學曾が逮捕されて一月と経たぬうちに城壁が崩れて大軍が入り、賊はついに滅ぼされた。
  • 夢熊は學曾に代わり、同じく尚方剣を賜った。夢熊は靈州で全体の調度に当たり、國禎ひとりが寧夏で監軍した。賊は長く囲まれて食が尽き援もなく、城は水に浸されていよいよ大きく崩れた。
  • 國禎は諸将を率いて南関に向かい、秉忠が先に登り、國禎が大声で呼ばわると諸将軍が登った。賊は退いて大城に拠り、数日攻めても落ちなかった。
  • そこで國禎は間者を使い、東暘・朝と承恩に、互いに殺し合って降れば罪を許すと偽って伝えた。三人は内で疑心を生じ、東暘・朝がまず承恩の一味である文秀を誘い殺し、承恩もその一党の周國柱とともに東暘・朝を誘い出して殺した。東暘・朝・文秀の首を城上に懸けて門を開き降伏した。
  • 如松が兵を率いて巴拜の家を囲むと、巴拜はあわてて縊れ、一家はみな焼身して死んだ。夢熊は靈州から馳せつけ、巴拜の一党と降人二千をことごとく誅し、宗室と士庶を慰問した。寧夏は平定された。
  • 夢熊・正色・國禎がそれぞれ勝報を上げ、承恩を捕虜として京師に献じた。帝は門に出て賀を受け、承恩を市で磔にせよと詔した。夢熊・正色・國禎はそれぞれ世襲の官を子に廕せられ、如松の功が第一とされ、如薫・貴・秉忠らにも差をつけて恩賞が加えられた。
  • 學曾は当初、職を奪われて庶民とされたが、功を叙して旧官のまま致仕とされた。
  • 學曾は職務に励んで労苦を重ね、城を水攻めにする策も招降の策ももとは彼が立てたものであった。勝報が伝えられたとき、帝は大學士の趙志臯・張位を召見し、志臯と位は力を尽くして學曾を弁護し、尚書の石星以下も多くが學曾に罪はないと申し立てた。
  • 國禎もまた上疏して、「學曾の対応はやや緩やかで、臣は諸将を責めて士気を振るわせようとしたが、學曾を逮捕せよという命は臣の疏から発した。ひそかに悔恨している。學曾の冤を早く雪がなければ、臣は万世の譏りを受ける」と述べた。如松も「學曾が逮捕されたとき三軍は雨のように泣いた」と言い、夢熊も功を學曾に譲った。帝は初め聴かなかったが、やがてその官を復した。家に居ること数年で卒した。

葉夢熊――寧夏平定後の辺務

  • 夢熊は功によって右都御史に進んだ。
  • もともと布色圖が都督となっていたが、その部長の齊勒台吉が最も実権を握っていた。齊勒台吉が死ぬと布色圖は諸部を制御できず、経略の鄭洛はもっぱら羈縻策をとった。
  • 學曾は洮河の変で諸部が逆らったことを憎み、明安を襲って殺した。巴拜が反すると卓哩克圖宰桑は巴拜と一家であると声言し、布色圖・章圖哩も兵を引いて助けた。
  • 巴拜が誅されると、齊勒台吉の妻の必濟が卓哩克圖宰桑・章圖哩らを率いて花馬池の塞下に頓首し、罪を悔いて和議を求めた。夢熊がこれを奏請すると、帝は夢熊がもともと學曾の主戦論に与していたことから前後で言うことが異なると責め、諸部に叛徒を縛って差し出させ罪を贖わせよと命じた。
  • 卓哩克圖らの和議の要請はいよいよ固く、夢熊は巡撫の田樂とともに四鎮の和戦の方策を奏上した。朝議を待つ間、内外とも互いに頼り合って誰も決断しなかったため、布色圖はついに諸部を率いて定邊に大挙侵入した。総兵官の麻貴らがこれを撃退した。夢熊は功によって太子少保を加えられた。
  • まもなく齊勒台吉の甥の青巴圖爾が甘肅を犯し、総兵官の楊濬、副総兵の何崇徳が防いで斬首六百余級。夢熊はさらに太子太保・兵部尚書を加えられ、まもなく南京工部尚書として入り、都御史の李旼が代わった。
  • 洮河の変ののち、寇は中国をかなり軽んずるようになり、招撫の議が絶えてからは諸部がたびたび侵入し、四鎮では毎年のように用兵することとなった。
  • 夢熊は功は多かったが、人物としての評判は學曾に遠く及ばなかった。在官のまま卒した。

梅國禎――その後の官歴

  • 國禎は承恩を招降したあと、夢熊が功を貪って降伏者を殺したとしてその罪を弾劾した。夢熊は弁明の奏で、「巴拜が養っていた家人はみな死士であり、一、二日緩めれば東暘・朝の一党がまた集まって必ず再び乱れる。臣は降伏者を殺したという汚名を負っても禍の根を絶つ」と述べた。帝は詔を下してこの争いを収めた。
  • 功を論じて國禎は太僕少卿、次いで太僕卿に抜擢され、一年余で右僉都御史に遷って大同を巡撫した。久しくして兵部右侍郎・総督宣大山西軍務。鎮に在ること三年、市賞の銀十五万両余を節減した。父の喪で帰り、再任されぬまま卒した。右都御史を贈られた。