出自と諫官としての活動
- 郭惟賢は字を哲卿といい、晋江の人。万暦二年(1574年)の進士。清江知県から南京御史に任じられた。
- 張居正が死んでも吴中行・趙用賢らはまだ復籍されていなかった。皇長子が生まれて天下に赦を下す詔が出たのを機に、郭惟賢は諸臣の召還を請うた。馮保はその言を憎んで江山丞に左遷した。馮保が失脚するともとの官に戻り、左都御史の陳炌が権臣の意を迎えて御史の趙耀・趙應元を論罪したのは総憲の綱紀にふさわしくないと弾劾し、陳炌は罷免された。
- また王錫爵・賈三近・孫鑨・何源・孫丕揚・耿定向・曽同亨・詹仰庇を推薦し、みな召された。主事の董基が内操を諫めて左遷されたとき、郭惟賢は救おうとして旨に背き、南京大理評事に調された。給事中の阮子孝、御史の潘惟岳らが相次いで疏を上げて救い、帝は怒ってそれぞれ俸を奪った。
- 郭惟賢はまもなく戸部主事に遷り、順天府丞を歴任した。
湖広巡撫としての建言と晩年
- 二十年(1592年)、右僉都御史として湖広を巡撫した。景王が徳安に封じられていたとき、その土田は諸藩の倍で、国が絶えた後も賦の額はなお残っていた。帝の弟の潞王が衛輝に赴くと、景王の賦をことごとく潞王に与えた。潞王が「賦が額に達しない」と上奏すると、帝は監司以下の俸を奪い、撫按に急ぎ報告するよう責めた。
- 郭惟賢は「景府の賦の額はみな奸民が投献して数を偽ったものです。臣は王のために畝を実測して賦を二万五千増やしました。もはや以前のような架空の数ではないのに、王がかえって足りないと言われるのはなぜでしょうか。それに潞は楚から遠いので、有司に徴収させて潞府へ転送するのが最善です」と述べた。また『会典』では皇荘および勲戚の官荘は災害に遭えば民田と同様に減免すると定めているとし、今、襄水・漢水が溢れて王の小作人も民も半ば以上が流亡しているので、例どおり免除するよう請うた。
- また「長沙・宝慶・衡州の三衛の軍が武岡を守り、永州・寧遠の諸衛が遠く広西を守っていて、瘴癘で死ぬ者が数知れない。交替で武岡の戍に送り、広西の戍は廃されたい」と述べた。帝はいずれも許した。
- 承天守備の中官が、興邸の旧賦の徴収について潜江知県と小作の民を罪に問うよう請い、旨が撫按に下って捕縛させようとしたとき、郭惟賢は「臣は楚を巡撫しており、問うべきでない事はありません。今、中官が問い、臣らが捕縛に当たるというのは、臣にはできません」と述べた。帝はその言を正しいとして取り止めた。
- まもなく太和山の香税を王府の未払いの禄に充て、小民への割当を免ずるよう請い、また周敦頤の父の周輔成を啓聖に従祀するよう請い、詔でいずれも従われた。
- 入って左僉都御史となり、行取(地方官の中央召致)を久しく停めるべきでないこと、言官を久しく拘禁すべきでないこと、台員を久しく欠くべきでないことを述べた。のちにまた「天下に事多きとき、高官から監司に至るまで欠員のまま補充されず、政は日々廃れている。しかも諫言によって譴責された者は百余人を下らず、忠を尽くした者がみな永久に捨てられている」と述べたが、帝は容れなかった。
- まもなく左副都御史に遷り、早く皇儲を立てること、輔弼を慎んで選ぶこと、速やかに考選を行うこと、推挙の諸疏をすべて下されることを請うたが、いずれも返答はなかった。
- 久しくして喪のため帰り、戸部左侍郎に起用されたが着任せずに没した。右都御史を贈られ、天啓の初めに恭定と諡された。