明史卷二百二十七 列傳第一百十五 謝杰

出自と歴任

  • 謝杰は字を漢甫といい、長楽の人。万暦初の進士。行人に任じられ、琉球へ冊封に赴いた際、その贈り物を退けた。琉球の使者が謝礼に来てなお金を贈ったので、朝廷に申し出たうえで返した。
  • 両京の太常少卿を歴任した。南京では毎年の懿文太子の祀りを祠祭司の官に代行させていたが、謝杰は「祝版に御名を署しながら身分の低い者に事を行わせるのは礼として不敬である。哀沖・荘敬の二太子の例にならって列侯を遣わされたい」と述べ、帝は是として南京五府の僉書を用いることとした。
  • しばしば遷って順天府尹となり、右副都御史として南贛を巡撫した。推薦された属吏が賄賂で礼をしたので、謝杰は「賄賂を贈ってから薦められるのは干戈の盗、薦められてから賄賂を贈るのは衣冠の盗だ」と言った。人々は名言とした。

十規の疏と晩年

  • 南京刑部右侍郎に進んだ。二十五年(1597年)春、帝が政事を怠っているとして、十の規範を陳べる疏を上げた。
  • これまでは両宮(生母・嫡母)への孝養が一様であったのに、今は朝夕の伺候が久しく絶え、慶賀も疎かで、孝安太后の柩の出発にも親しく送られなかった。
  • これまでは太廟の四時の祭りをみな親しく行われたのに、今はみな代理を遣わされる。
  • これまでは経筵に臨まれ聖学に日々励まれたのに、今は講官を置くだけで講席は久しく空いている。
  • これまでは星を戴いて朝に臨まれたのに、今は深く籠って数年も出られない。
  • これまでは年が旱すれば歩いて郊壇に祈られたのに、今は圜丘の大報が久しく欠け、斎居の宸宮に災いを告げても反省を忘れておられる。
  • これまでは四方が旱や水害に遭えばしばしば帑金を出されたのに、今は鉱を採り税を榷るばかりである。
  • これまでは財を用いるに節度があったのに、今は年ごと月ごとに進上させ、江右の磁器、江南の紵、西蜀の扇、関中の絨をみな額を超えて取り立てておられる。
  • これまでは一言でも喜んで聴かれたのに、今は上書したとたんに厳しい勅が下り、いったん退けられれば永久に呼び戻されない。
  • これまでは宗室を撫恤して恩義を加えられたのに、今は楚藩が誣告され、中官がすぐさま派遣され、市井の悪党をもって骨肉の親族の間を裂いておられる。
  • これまでは官を備えて任用し、下に人材の余りも欠けもなかったのに、今は要職がしばしば空き、下級の官も補充されない。
  • これでは陛下の、親に孝、祖を尊び、学を好み、政に勤め、天を敬い、民を愛し、用を節し、言を聴き、親を親しみ、賢を賢とするという徳が、いずれも初めのようではなくなっている。
  • 返答はなかった。召されて刑部左侍郎となり、戸部尚書に抜擢されて倉場を督した。当時、四方が災害に遭うたびに現物納を銀納に改めるよう請うのが常であったが、謝杰は年の運漕が必ず三百万以上であって初めて銀納への変更を議することを許すよう請い、容れられた。
  • 三十二年(1604年)、在職のまま没した。もともと謝杰の父で教諭であった謝廷衮が郷里で年老いていたころ、族人がその名を騙って賦を滞納した。県令の劉禹龍が御史に申し立てて逮捕させたので、謝杰が代わって取り調べを受け、ほとんど死にかけた。のち南贛を巡撫したとき、劉禹龍は郷里に隠居していたが、謝杰は一度も遺恨を晴らそうとしなかった。当時の人はその度量に感服した。