出自と諫官としての直言
- 陸樹徳は字を與成といい、尚書陸樹聲の弟である。嘉靖末の進士。厳州推官に任じられ、選考で給事中か御史に任じられるはずのところ、兄の陸樹聲が侍郎に任じられたので刑部主事を授けられた。
- 隆慶四年(1570年)、礼科給事中に改められた。穆宗が朝講に臨んで一言も発しなかったので、陸樹徳は「上下が交わってこそ泰である。今このように隔たっていては、どうやって君徳を磨き万機を訓えるのか」と述べたが、返答はなかった。
- 都給事中に何度も遷った。六年(1572年)四月、東宮の講読を中止する詔が出たので、陸樹徳は「四月から八月まではあまりに長い。盛暑のときを除いてはやはり講筵に出られたい」と述べたが、聴かれなかった。
- 穆宗が政務に倦んでいたので、陸樹徳は「日月がしばしば蝕し、旱魃が災いをなしている。時を逃さず反省し身を修められたい」と述べた。帝が不予(病気)になると、また薬を慎み身を保護すること、仲夏は陽が亢ぶる月であるから起居をいっそう慎むことを請うた。帝は喜ばず、疏はみな留め置かれた。
- 内臣が戒壇での祈福を請い、すでに旨を得ていたとき、陸樹徳は「戒壇で僧を得度させると男女が入り交じり、淫を導き教化を損なう。陛下が聖躬を保とうとされるなら、大禹が旨酒を憎んだ故事、成湯が声色に近づかなかった故事に法るべきで、仏を奉る必要はない」と述べた。
- まもなく穆宗が崩じ神宗が即位すると、宦官の馮保が司礼監の孟沖を押しのけて代わった。陸樹徳は「先帝が崩じたばかりで、にわかに馮保が司礼監を掌ると伝えられた。もし先帝の意なら、なぜ数日前に伝え示さず臨終の後になったのか。もし陛下の意なら、哀痛が深く万機もまだ執られていないのに、どうして中官のことを考える暇があろうか」と述べた。疏が入ると馮保は大いに恨んだ。
- 祧廟(廟の祖先移し)を議した際、陸樹徳は宣宗を祧さず、睿宗はなお世室に祀るよう請うたが、阻まれて行われなかった。のちに民が白糧を運ぶ弊害を極めて陳べ、漕運の官に引き受けさせるよう請うて容れられた。
- 陸樹徳は言官の職にあること三年、疏は数十通に上り、いずれも剛直であった。兄の陸樹聲が礼部を掌ることになったので、その関係を考慮して尚寶卿に遷された。
山東巡撫と晩年
- 太常少卿、南京太僕卿を歴任し、右僉都御史として山東を巡撫した。陸樹徳はもとより清廉厳格で、僚吏を引き締め、音曲や妓楽を退けた。
- 山東の民壮を民兵に改めて薊門を守らせていたが、隆慶末に年ごとに銀二万四千を納めさせて戍役を免ずることとなり、まもなくさらに三万を増納させよと命じられた。陸樹徳は河南の例にならって廃止するよう請うた。帝は従わなかったが、増納分は免除した。
- 徳府の白雲湖はもと民田であったのを王に奪われ、のちに民に返されていたが、王がまた中官と結んで取り戻そうとした。陸樹徳は争ったが叶わず、辞職を願って帰り、久しくして没した。