明史卷二百二十七 列傳第一百十五 李材

出自と広東での戦功

  • 李材は字を孟誠といい、豊城の人。尚書李遂の子である。嘉靖四十一年(1562年)の進士に挙げられ、刑部主事を授けられた。かねて鄒守益に従って学んでいたが、学が未熟だとして休暇を願って帰り、唐樞・王畿・錢徳洪を訪ねて問答した。
  • 隆慶年間に朝に戻り、兵部郎中から広東僉事にやや遷った。羅旁の賊が猖獗していたので、これを周高山で襲い破り、屯を設けて守った。賊には新会の境内に三つの巣があった。副総兵の梁守愚を恩平から、遊撃の王瑞を徳慶から進ませ、自らは肇慶に出て、道半ばの夜半に賊五百級を斬り、廬舎千余を焼き、その地を空にして人を募って耕させた。
  • まもなく倭五千が電白を攻め落とし、大いに略奪して去ったので、李材は追って石城で破り、海口に伏兵を置いて逃げるところを狙って殺し、婦女三千余人を奪い返した。奸人が倭を導いて黄山の間道から東へ潰走させたとき、李材は大軍が数道から来ると触れ回って賊を惑わせ、もとの道へ戻らせて迎え撃ち、ことごとく殺した。さらに雷州の倭を追撃し、英利に至ってみな逃げ去った。陽江では賊の首領許恩を降した。功を記録されて副使に進んだ。

雲南金騰での対緬経営

  • 万暦の初め、国政を執る張居正が李材を喜ばなかったので、病と称して去った。張居正の没後、山東に起用され、才能を買われて遼東開原に移された。まもなく雲南洱海参政に遷り、按察使に進んで金騰の兵備に当たった。
  • 金騰は緬甸(ビルマ)と地を接し、孟養・蠻莫の二土司がその間に介在して、叛服が定まらなかった。緬の部目(首長)を大曩長といい、散奪という者が数千人を率いてその地を占拠していた。李材は、二土司を収めなければ緬を制せないと考え、人を遣わして二土司を招いて帰服させ、その間に命に抗った夷の阿坡居を討った。
  • まもなく緬が兵を遣わして蠻莫を争った。李材は二土司の兵を合わせて緬の衆を破り、大曩長を殺して散奪を追い払った。緬の帥である莽應裏が兵を増して孟養に至ると、また舟を沈め、その将一人を斬ったので退いた。
  • 猛密という土地は緬の境内にあり、たびたび緬に侵奪されて一族こぞって内地に移り、役所が戸碗に住まわせていた。この時、緬の勢いがやや屈したので、李材は資を与えて故地に帰らせた。
  • まもなく緬人が象陣を駆って大挙し報復に来た。二土司が急を告げたので、李材は遊撃の劉天俸に把總の寇崇徳らを率いさせて威緬に出し、金沙江を渡って孟養の兵と遮浪で合流させ、迎え撃った。賊は大敗し、繡衣(緬の高位の)賊将三人を生け捕った。巡撫の劉世曽、総兵官の沭昌祚が大捷として報告し、詔で再調査を命じた。

鄖陽の兵変と獄

  • 再調査の結果が上がらぬうちに、李材は右僉都御史に抜擢されて鄖陽を撫治した。李材は講学を好み、部下の兵卒を生徒の雑用に遣ったので、兵卒の多くが恨んだ。また諸生の請いに任せて参将の公署を学宮に改めようとしたので、参将の米萬春は門卒の梅林らをそそのかして騒がせ、城内に馳せ入って囚人を解き放ち、諸生の宿舎を壊し、まっすぐ軍門に迫って賞銀四千を強要し、騒ぎは二日収まらなかった。
  • 米萬春は李材を脅して軍中に不便な十二事を挙げさせ、副使の丁惟寧、知府の沈鈇らに罪を帰す上疏をさせた。李材は忍んでこれに従った。丁惟寧が米萬春を責め立てると、米萬春は丁惟寧を殺そうとしたが、逃れて免れた。李材はさらに丁惟寧が変を煽ったと弾劾した。詔により沈鈇らは吏に下され、丁惟寧は三階を降され、李材は帰籍して取り調べを待つこととなった。十五年(1587年)十一月のことである。
  • 御史の楊紹程は、米萬春が乱の首謀であるから罪すべきだと調査結果を出したが、大学士の申時行がこれを庇って不問に付し、まもなく天津の良地に転任させた。
  • そのうえ李材は雲南の件でも告発され、重い譴責を受けることになった。もともと征緬の功を調べる詔があり、巡按御史の蘇酇が「斬首は千に及ばず、城を破り地を拓いたというのもみな証拠がない。猛密の地はなお緬に占められている。李材・劉天俸らは功を誇張し、副使の陳嚴之がこれに同調した。あわせて罪すべきだ」と述べた。
  • 帝は怒って劉世曽の籍を削り、沭昌祚の禄一年を奪い、李材・陳嚴之・劉天俸をともに逮えて詔獄に下した。刑部尚書の李世達、左都御史の吴時来、大理少卿の李棟らは、李材・劉天俸を徒刑、陳嚴之を降格に当てたが、帝は不満で、郎中・御史・寺正らの俸を奪い、詔獄を掌る李登雲らも官を解いた。そこで流刑に改めて擬したが、特旨で紅牌の「説謊(虚偽報告)」の例を引き、李材・劉天俸を斬、陳嚴之を除名とした。
  • 大学士の申時行らはたびたび取りなし、給事中の唐堯欽らも「李材の以夷攻夷の功は抹殺できない。報告がたまたま虚偽であったからと死罪にするなら、もし全く実がなく罪を隠して功と偽ったならどう罰するのか。不幸にして城池を失い全軍が帰らなかったらまたどう罰するのか」と述べた。帝はいずれも聴かなかった。
  • 幽閉されること五年、救済を論ずる上疏は五十余通に及んだ。のち劉天俸は大器(火器)の扱いに巧みだとして釈され功を立てさせることになり、申時行らは改めて李材のために弁じたが、いずれも顧みられなかった。
  • まもなく孟養が使者を遣わして貢し、緬人の侵略に対して天朝が救援して敵を破った状況を詳しく述べた。兵を指揮した者が獄にあると聞いて一同は涙を流し、楚雄の士民である閻世祥らも相率いて闕に詣で冤を訴えた。帝の意もようやく解け、再調査を命じた。結果は李材の罪は功を覆い隠すほどではないというもので、大学士の王錫爵らが再び疏を上げて弁じた。帝はわざと引き延ばし、二十一年(1593年)四月にようやく鎮海衛への流刑を命じた。
  • 李材は行く先々で門人を集めて講学し、学者は見羅先生と称した。獄中にあっても訪ねて問う者が絶えず、配所ではさらに学徒が増えた。許孚遠がちょうど福建を巡撫していて日々往来したので、李材は流謫の身を忘れることができた。久しくして赦されて帰り、七十九歳で没した。